ナントカ堂 2020/08/10 01:17

宋太宗末期の胥吏登用

 胥吏について話すと長くなるのでWIKI他をご覧いただくとして、官と吏の格差を踏まえた上で『宋史』巻二百九十九の以下の李溥伝をお読みください。


 李溥は河南の人。初めに三司の小吏となり、狡猾にして知略に長けていた。当時天下はようやく安定し、太宗は政務に励んでいた。税制について論じた際、改革を行いたいと思い、三司の吏二十七人を便殿に召して職務上の事を尋ねた。李溥は尋ねられたことに対し、退出してから改めて項目ごとに書き出して答えることを願い出た。そこで中書省に提出するよう命じると、七十一項を記して提出した。そのうち四十四項目は即日実行され、その他は三司で可否を協議することとなった。これより太宗は李溥らの能力を認め、輔臣にこう言った。
 「朕は以前、陳恕らに『李溥らは無学ではあるが、金銭と穀物の利害については詳しく知っている』と言った。憤慨させて意見を開陳させるためであった。しかし陳恕らは自らが優れていると誇っていながら、質問にはまともに答えられなかった。」
 呂端が言った。
 「耕作については奴に問い、織物については婢に問うのが妥当です。」
 寇準が言った。
 「孔子は太廟に入るたびに係の者に質問していました。地位が高い者が低い者にへりくだり(『易経』)、担当者に先導させる(『論語』)との義に適います。」
 太宗は同感し、李溥ら全員を抜擢して官職に就け、地位に応じて銭幣を賜った。

 李溥は左侍禁・提点三司孔目官となると、進言して内外百官諸軍の俸禄の規定を定めた。その後、閤門祗候を加えられ、陝西の兵糧と馬草を清遠軍まで運ぶ監督をし、都の戻ると提挙在京倉草場・勾当北作坊となった。
 斉州で大水があり民家が破壊されたため、州城を移転しようとの計画があったが実行に移されなかった。そこで李溥が視察を命じられ、州城を移転して帰還した。また李仕衡と共に陝西に派遣され、毎年の酒税を二十五万緡増やした。三度昇進して崇儀使となった。

 景徳年間(1004~1007)、茶法が既に古くなっていたため、李溥は林特・劉承珪と共同で改正するよう命じられた。希望者を募って、都に金と絹を納入した者、国境の砦への馬草と粟を納入した者には、東南の茶をこれまでの倍の量入手できるようにした。李溥を制置江淮等路茶塩礬税兼発運事として実行させた。果たして歳入は以前より増え、林特らは褒賞を受けた。このとき李溥は既に発運副使となり、その後、使に昇進して、西京作坊使に改められた。しかし茶法が行われて数年で損が出て元に戻った。
 江・淮より毎年都に輸送する米は、以前は五百万斛あまりに止まっていたが、李溥が着任すると六百万にまで増え、諸路ではなお余裕の備蓄があった。
 高郵軍の新開湖では水が散漫で風濤が多かった。李溥は「東下する輸送船は泗州に迂回し、石を積んで新開湖まで運ぶように」と命じた。その石が積み上がって長い堤となり、以後、船の航行に問題が無くなった。累進して北作坊使となった。

 このころ玉清昭応宮が造営された。李溥と丁謂は互いに表裏を成し、東南の巧匠を駆り出して都に行かせ、かつ多くの奇木怪石を集めて、帝に気に入られるようにした。建安軍で玉皇と聖祖の像を鋳造し、李溥がこれを監督した。丁謂が「李溥は何年も菜食で過ごしています」と言い、李溥もしばしば祥応を報告した。こうして遂に李溥は迎奉聖像都監となり順州刺史を領し、更に獎州団練使に昇進した。
 李溥は自ら「江・淮の茶の歳入を以前より五百七十万斤増やせる」と言い、また「以前は水上輸送は使臣か軍の大将が管理し、各人一綱を管理させて、多くが盗まれた。私が担当して以来、三綱を一つに纏め、三人で共同管理させ、互いに監視するようにした。」とも言った。
 大中祥符九年(1016)、米百二十五万石を輸送して、損失はわずか二百石であった。この年に李溥の任期が切れたため、詔により再任し、特に宮苑使に昇進させた。

 以前にショウ県の県尉の陳斉が茶の交易法を論じていた。李溥が推薦して陳斉は京官に任じられた。このとき御史中丞の王嗣宗が吏部の人事選考を担当し、「陳斉は豪民の子なので登用してはならない。」と言った。真宗が執政に尋ねると、馮拯は言った。
 「人材を登用するのに貧富は関係ないでしょう。」
 真宗は「卿の言うことは正しい。」と言った。
 これより李溥は「慎み深く、その意見は外れたことが無い」との評判を受け、益々信頼されるようになった。しかし李溥は長い間利権を握り、内々に丁謂と結びついて、意見すれば直ちに聞き容れられた。
 真宗が執政に言った。
 「群臣が論事を上書すると、法官は『大きな利益も無いのに法を改めるべきではない』と反対する。これでは広く意見を募ることはできない。」
 王旦が答えた。
 「法制をしばしば改めれば、詔令と齟齬をきたします。そのため改変は慎重にすべきなのです。」
 そしてついでに言った。
 「李溥は『茶と塩の密売者から賄賂を受けた者は仗刑の上で全ての官職を没収すべき』と言いましたが、これは止めるべきです。」
 真宗は言った。
 「それは李溥が特に強く主張したため反対しなかった。今後は小吏の意見であっても、詳しく調べてから施行しよう。」

 李溥は専横にして貪欲で法を犯した。発運使の黄震がその罪を列挙して報告すると、潭州知州に左遷となった。更に御史に調査させると、李溥が私的に兵を使役して姻戚の林特の家を建てたり、官の船に便乗して竹や木を売るなど、悪事十数件が発覚した。まだ未決のうちに恩赦があり、忠武軍節度副使に左遷となった。
 仁宗が即位すると、淮陽軍知軍として復帰し、光州と黄州の知州を歴任したが、再び汚職を問われて、蔡州団練副使に左遷となった。
 しばらく経って、徐州利国塩監となり、千牛衛将軍を以って致仕し、卒去した。


 上記には年が書かれていませんが、『続資治通鑑長編』によれば七十一項を献策したのが至道元年(995)、酒税を二十五万緡増やしたのが真宗の咸平五年(1002)です。
 太宗が崩御するのが至道三年三月、最晩年に李溥が召されるまで、検討するまでも無く即日実行すべき件が四十四項目あったというのはかなり現場の意見が通らなくなっていたのでしょう。
 『続資治通鑑長編』や『宋會要輯稿』にはその他の実績も書かれています。
 私見ですが、『宋史』やその元となった『続資治通鑑長編』などは士大夫サイドの視点であって、小吏上がりのくせに政治の才がある李溥に対して悪意があるように感じられます。(字が伝わっていないなども)また兵の私的な使役や官の船に便乗して竹や木を売ったことなども、大概の官僚がやっていたのを李溥だけ目を付けられて叩かれたのではないでしょうか。
 同時に登用された二十七人について詳細は不明ですが、真宗以降になると胥吏からの登用は途絶え、王安石の改革で多少の芽が見えそうでしたがそれも潰え、結局、官と吏が分離するようになりました。

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