ナントカ堂 2020/08/01 00:44

韓世忠と李顕忠

 『宋史』の韓世忠伝には「韓世忠、字良は臣、延安の人。」とあって李顕忠伝には「李顕忠は綏徳軍の青澗の人である。」とあって、互いの伝に出てこないので関係無いのかなと思ってたんですが同郷なんですね

 ソースは『名臣碑傳琬琰集』下巻二十四

 「故郡王韓公世忠同郷里韓毎以豪勇服人公累世将家駐兵陝右夏人不敢輒冦邉境蓋公名著山西而未嘗少屈於韓及公歸朝韓力於上前奏乞公於麾下上以公才非韓所能服遂以樞密院都統制處之」

(故郡王の韓世忠は郷里が同じである。
 韓は常に豪勇を以って人を服従させていた。
 公は代々の将の家で陝右に駐留していたので、西夏はあえて国境に攻め入らなかった。
 公の名は山西で有名で、未だかつて僅かたりとも人に屈したことが無かった。
 公が宋朝に帰すと、韓は奏上して、公を麾下とすることを強く求めた。
 主上は、公の才が韓に服従するものではないと考え、枢密院都統制の麾下とした)


で、韓世忠伝の内容見ると、大分荒っぽい人だなと


 家貧無産業、嗜酒尚氣、不可繩檢。日者言當作三公、世忠怒其侮己、毆之。年十八、以敢勇應募郷州、
 (家は貧しく生業は無く、酒を好んで気が大きく柄が悪かった。占い師に「あなたは三公になるでしょう」と言われると、馬鹿にされたと怒り、殴った。十八歳で勇敢さを以って地元の兵に応募した。


 この人、軍隊に入らなかったらならず者でしょう
 ただ非常時にはこういう人が必要で、方臘の乱のときは

 世忠潛行溪谷、問野婦得徑、即挺身仗戈直前、渡險數里、搗其穴、格殺數十人、禽臘以出。
(韓世忠は渓谷を密かに進み、地元の婦人に尋ねて間道を知ると、即座に身を挺し、戈を持って進み、険阻な道を数里歩いて、賊の巣窟に着いた。数十人を撲殺し、方臘を捕えて帰った。

 とか、或いは苗劉の乱のときは出陣前に

 令將士曰:「今日當以死報國、面不被數矢者皆斬。」
(将士に命じた。「今日はまさに死を以って国に報ずるべきである。顔に数本の矢を受けなかった者はみな斬る。」)

とか、同じく苗劉の乱の最中に

 世忠馳入、帝歩至宮門、握世忠手慟哭曰:「中軍呉湛佐逆為最、尚留朕肘腋、能先誅乎?」世忠即謁湛、握手與語、折其中指、戮於市、
(韓世忠が急ぎ参内すると、帝は歩いて宮門まで来た。韓世忠の手を握ると慟哭して言った。
 「中軍の呉湛は逆賊の最大の味方であるが、いまだに朕の側に留まっている。先に誅することは可能か?」
 韓世忠はすぐに呉湛と会い、手を握って共に語ると、中指を折って、市に連れ出し殺した)


など常人にはできない大胆な行動です。

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