ナントカ堂 2019/11/19 19:22

趙仁規とその子孫

さて前回「柳清臣は趙仁規に付き従って尽力し功を立てた。」とありましたが、趙仁規も同じくモンゴル語を身につけて出世した人物で、その伝は『高麗史』巻百五にあります。


 趙仁規、字は去塵、平壤府の祥原郡の人である。日が懐中に入るという夢を母が見て、趙仁規を妊娠した。早くから利発で、成長すると学問を始め、凡その文義に通じた。朝廷で、有力者の子弟から蒙古語を学習する者を選んだ際、趙仁規も選ばれたが、同輩と同程度にしかならなかったため、家に籠もって三年間昼夜問わず勉強し、遂には名を知られるまでになった。諸校となり、累進して将軍となった。
 忠烈王の時代、趙仁規の麾下の兵三人が、南京の民八人と共にカワウソを捕る戸となって、多くの民がこれに組して税を逃れた。この者達は毎年、敬成宮にカワウソの皮を納め、半分が趙仁規のものとなった。南京司録の李益邦が兵三人を捕らえると、趙仁規は公主に「南京の下吏が敬成宮の経書を破り捨てました。」と訴えた。公主は怒り、李益邦と副使の崔資寿を捕縛させると、将軍の林庇に尋問させた。林庇は実情を得て報告し、公主は共謀していた民を元の籍に戻して二人を流罪としたが、二人はまもなく釈放された。
 元の宰相が皇帝に鷹坊の弊害を訴えると、王は怒り、元朝に奏上して、皇帝から信頼されている回回人に鷹坊を管理させ、宰相が口出しできないようにしようとしたが、趙仁規が強く反対したため取りやめた。
 趙仁規が右承旨を拝命したとき、王が中書省にこう上書した。「陪臣趙仁規は蒙古語と漢語に通暁し、朝廷の詔勅を訳して文字を誤った事がありません。私が昔、元の朝廷の侍衛であったときから付き従い、公主に朝夕よく仕えています。そこで趙仁規に牌を賜り、王京脱脱禾孫兼推考官頭目に任じられることを願います。」元は趙仁規を宣武将軍・王京断事官・脱脱禾孫に任じ、金牌を賜った。そのときの王の教書に曰く。「趙仁規は東征時に天子に奏上するに当たり良く務めた。私が中書左丞相となり、群臣に都元帥・万戸・千戸の官職と、金牌・銀牌を賜ったのも全て趙仁規の功である。別に功を録して田と民を賜り子孫を登用する。」
 王が南門にいたとき、中賛の金方慶が酔って馬に乗り通り過ぎた。趙仁規は以前から、金方慶と権力を争っていたため、この機に乗じて讒言した。金方慶は巡馬所に捕らえられた。
 その後、趙仁規は知密直司事・僉議賛成事・都評議録事を歴任した。
 金温の妻が夜中密かに妹の家の財を盗んで捕らえられた。妹の夫は趙仁規と姻戚であったため、趙仁規は金温の妻を縛って杖で打った。人々はこれを非難した。
 王が趙仁規を中賛にしようとすると、趙仁規は「君恩は大変ありがたいのですが、洪子藩は徳望があって長らく冢宰を勤めています。ここで臣が突然その上になれば人々はどう言うでしょうか」と固辞したため、その時は取りやめたが、まもなく中賛となり、更に左中賛となった。
 宰枢が時弊三ヶ条を奏上すると、王は怒った。趙仁規は自分にも累が及ぶことを恐れ、内々に王にこう言った。「先ほどの三ヶ条は臣の与り知らぬ事です。お調べください。」そこで王は都評議録事の李紆を巡馬所に捕らえ、万戸の高宗秀に命じて、発案者は誰かと尋問させた。高宗秀の○問に李紆は堪えかね、李混だと答えたため、李混は罷免された。
 二十四年に司徒・侍中・参知光政院事を加えられた。
 趙仁規の娘は忠宣王の妃であったが、ある人が匿名で宮門にこのような張り紙をした。「趙仁規の妻は巫に命じて、王が公主を愛さず自分の娘を愛するよう呪詛した。」公主は趙仁規とその妻を牢に入れ、元から使者が来て趙仁規を尋問し、続けて妻を尋問した。あまりの○問に妻は誣告に服し、趙仁規と娘婿の崔冲紹・朴セン(王に宣)は家財を没収されて使臣館に送られた。元では趙仁規を杖刑の上で安西に、崔冲紹と朴センを鞏昌に流した。後に放還されると、皇帝の命令により、王は趙仁規を判都僉議司事とした。
 忠宣王が元にいたとき、趙仁規は咨議都僉議司事・平壤君で、開府して官属を置き、宣忠翊戴輔祚功臣の号を賜った。承旨の金之兼を遣わしこう言わせた。「趙仁規は高齢で徳があり、国の元老とすべき人です。そこで朝会には玉帯を外出には従者を許可し、名では呼ばず官命で呼び、剣を佩びたままの昇殿を許し、国の大事には僉議密直一人を家に遣わして意見を求めるよう願います。もし許可されなければ、趙仁規と中賛の崔有エンとで争うことになります。」王はこれに従った。三十四年に七十二歳で卒去し、貞粛と諡された。
 趙仁規は挙措が美しく、寡言で笑うことも少なく、伝や記を渉猟した。初めの頃、高麗人は蒙古語を習得しても上手く応対できなかった。高麗の使者が元の都に行くと、必ず大寧総管の康守衡と共に拝謁していた。趙仁規が絵画と金と磁器を献上した。世祖は尋ねた。「お前達は絵画と金が欲しくはないのか。」趙仁規は答えた。「それらはただの飾りです。」世祖は言った。「金は使えるのではないか。」趙仁規は答えた。「磁器と同様に金も壊れやすいので必要ありません。」世祖はその応対をよしとして、それ以後、磁器は献上して絵画と金は献上しないよう命じた。また世祖は言った。「高麗人はこれほど蒙古語を理解するなら、康守衡が通訳する必要は無いだろう。」
 高麗王に怨みを懐く者が高麗を内地化しようとして、皇帝に進言した。事態がどうなるか分からない状態で、趙仁規は単騎、元の朝廷に行き陳述したため、内地化は中止となった。また西北の国境周辺の二地域が高麗に返還されたのも趙仁規の功績である。
 王は奏請するたびに趙仁規を遣わし、使者となること三十回、その功績は顕著であった。微賎より身を興し、元との調整に奔走した。外見は立派で快活公正に見えたが、王に気に入られて寝所にまで出入りし、多くの田と民を集めて富を築いた。国舅の地位を加えられると、その権勢は最大になり、子や婿は全て将・相となり比肩する者が居なかった。
 病になると子や婿は医者を呼ぼうとしたが、趙仁規は「私は兵卒から身を興して官職を極めた。歳も七十を越え、ここで死ぬのも天命だ。医者は不要だ。」と言った。このとき諸子は元に居て、ただ璉だけが看病していた。趙仁規は言った。「汝ら兄弟姉妹九人、身を慎んで争うことの無いように。汝は兄弟が来たらこのことを伝言し、永く家訓とせよ。」
 子は瑞・璉・ク(王に羽)・イ(王に韋)である。

 趙瑞は生来英敏豪邁で、父が大きな星が自宅に落ちる夢を見て、生まれた。このため小字を星来といった。
 忠烈王の時代に科挙に合格し、王の前で名が読み上げられて犀の帯を賜った。忠宣王が世子だったころ、西原侯の屋敷の宴会で、趙瑞は金光佐・車元年と共に良い歌を作った。金光佐には「黍離」と「柏舟」(共に『詩経』)を歌にして「双燕曲」を作り、閔漬がこれを補って「何彼ジョウ矣」を作り、以後内殿で宴会があるときには必ずこの曲が歌われた。趙瑞・金光佐・車元年は共に王に気に入られた。二人は身分が低く、趙瑞は相門の儒士であったが対等に付き合ったため、当時の人々は卑しいことだと話し合った。
 趙瑞は直宝文署から要職を歴任して右承旨となった。趙仁規が趙妃の事件に関連して元に抑留されると、趙瑞はこれに従った。ある日、皇帝が外出すると、趙瑞は弟たちを引き連れて、道の脇に控えて拝謁した。帝は趙瑞の方を見て事情を聞くと、これを嘉し、趙仁規は赦されて帰国した。
 累進して同知密直となり、千秋節の祝いで元の朝廷に行くと、皇帝は趙瑞を懐遠大将軍・高麗国副元帥とし、三珠虎符を賜った。趙瑞の娘が、元の皇帝お気に入りの宰相の也児吉尼に嫁いでいたからである。帰国すると王からも検校賛成事に任命されて壁上三韓三重大匡・大司憲を加えられ、平壤君に封ぜられた。趙瑞は都元帥の金深の上席となって行省丞相の儀仗を用いたため、人々から礼を無視する行為だと非難された。
 忠宣王の五年、三司使のまま卒去し、荘敏と諡された。
 子は宏・千祀・千祐である。

 趙璉は字を温仲といった。蔭位により官職に就き、累進して知密直司事となった
 忠粛王の時代に僉議評理となり、賛成事に転じた。王が元に行くと抑留され、曹テキや蔡河中ら瀋王の側近が様々に王を讒言した。趙璉は弟の趙延寿や金元祥らと共に曹テキらに同調した。元は趙璉を高麗王府断事官とし三珠虎符を賜った。王が元に居た間の五年間、趙璉が権省事として政務を執った。その間、元の使者が両国を行き来し横暴であったが、趙璉が上手く応対すると気を鎮めたため、趙璉が卒去すると国中の人が泣いた。ただ瀋王と通じていたため臣節としては不完全であった。諡は忠粛。

 璉の子の徳裕は父の爵を継いで王府断事官となった。清廉潔白で権力を恐れず利益を追うことは無かった。親戚や旧知の者でも、政権を握っている間は交際しなかった。官は版図判書に至り卒去した。
 子は煦・リン(王に鄰の偏)・靖・恂・浚・狷で、浚には別に伝がある。

 趙リンは恭愍王の時代に安祐らと共に紅巾賊を敗走させて、作戦を立てた功が一等とされ、累進して鷹揚軍上護軍となった。倭寇が喬桐を攻めると、趙リンはこれも敗走させた。
 当時、辛ドンが政権を握り、人々は争ってこれに組したが、趙リンは一度も辛ドンの家に行かなかった。辛ドンを「老和尚」と謗り、知都僉議の呉仁澤や班主の尹承順らと辛ドンを排除する計画を立てて漏れ、杖刑に処された上で南裔に流され官奴とされた。後に再び密直の金精と共に辛ドン暗殺を計画した。辛ドンはこれを王に訴え、一味の孫演を差し向けて趙リンを殺し、病死として報告した。
 辛ドンが誅されると、王は尹承順を呼び戻して鷹揚上護軍とした。都に戻った尹承順は、趙リンの母と会うと慟哭し、喪服を着て趙リンの骨を埋葬した。聞く者はみな悲しんだ。王は尹承順の信義を嘉し、尹承順を趙リンの墓前に遣わし弔わせた。(以下弔辞略)

 趙クは後に名を延寿と改めた。忠烈王の時代に科挙に合格して都津令に任命されたが辞退したので、王は怒って捕らえさせたが、まもなく釈放した。要職を歴任して元尹となり、忠粛王の時代に密直副使兼大司憲となった。
 このころ全英甫の弟で僧の山冏が、兄の権勢を恃んで驕恣となり、大寺の住持となって数人の妻を囲っていた。趙延寿はその妻らを捕らえて尋問した。
 黄州牧使の李緝の妻の潘氏は、尚書の潘永源の娘であった。李緝が在任中、妻は護衛の金南俊と通じて李緝を殺し、これが調査されて極刑に処される所であったが、潘氏の一族の僧の宏敏が忠宣王に気に入られていたため、王が何度も介入して、放免となった。国中の人がこれを悔しがった。趙延寿はその妻を剃髪させて浄業院に置いたため、人々は喜んだ。累進して賛成事から三司左使となった。
 元は魏王の阿木哥を耽羅に配流していたが、この頃、都に呼び戻した。趙延寿は行省郞中の兀赤と共に護送したが、帝からの使者が来て、魏王をその地に留めるよう命じた。使者が平壤に到着すると、趙延寿や兀赤らは恐れて逃げ出した。使者は怒り、逆命の罪で趙延寿らを誅しようとしたが、魏王が強く助命を求めたため赦された。
 後に、瀋王に内通していたとして家財を没収されて杖で打たれ島に流されたが、帝の命により赦免された。
 忠宣王の十二年に卒去した。

 趙延寿一門が権力を握ると、弟で僧の義センは寺院を奪い我が物とした。賛成事の朴虚中は都堂にてその罪を訴えた。趙延寿は義センを擁護し、朴虚中はこれに反対したため、遂には趙延寿は朴虚中を罵倒した。
 高峯県吏の愁万は趙延寿の権勢を楯に吏役を逃れた。
 趙延寿の家奴らが、成均館の学生の周覬の娘を強○した。周覬がこれを巡軍に訴え、家奴らは杖殺された。
 趙延寿は貪欲にして好色で、密直の白元恒と共に行宮の盤纏金銀・苧布を私的に流用し、世の非難を受けた。

 趙延寿の子の忠臣は平壤君である。

 趙イ、字は季宝。九歳にして蔭位により権務昌禧宮となり、五回転じて大護軍となった。忠宣王の時代に密直代言となり、忠粛王の時代にゲツ部総部典書となった。
 忠粛王が瀋王と対立すると、趙イを疑って閑職の元尹としたが、問題が解決されると、趙イに他意が無かったことが分かり、知密直とした。後に判密直に昇進し、まもなく僉議賛成事に昇進して平壤君に封ぜられた。
 趙イは隠れて親しい者と集まっていた。忠恵王の二年にある者が「趙イは来客と国事を議しています」と讒言したため、王は怒り、趙イは福州牧に左遷となり、監視役が遣わされて一刻の猶予も無く赴任するよう命じられた。趙イは大慌てで任地に向かい、このため病となった。忠穆王の三年に府院君に進封され、翌年、六十二で卒去した。
 忠粛王は政治に飽きると宰相に任せた。趙イは凡その政務をこなしたが細部は顧みなかった。発言は正論で人を服させ、父と同じ風格があると言われた。


 上記の趙浚は、「趙浚」で検索すると上に出てくる人物で、李成桂に協力して新王朝を樹立し、国の基礎を固めました。

 『高麗史』の伝には父に関する記述はありませんが、「趙仁規墓誌銘」には、父の趙瑩は金吾衛別将とあります。
 別将は、武臣政権の4番目の執政者である李義ビン(日に文)も庚寅の乱以前に就いていた官職で、正七品と中堅クラスの地位です。
 李義ビンの父は塩売りで母は寺婢と社会的地位は低かったのですが、「趙仁規墓誌銘」に祖父以前の記述が無いのも社会的地位が低かったからかもしれません。
 父の趙瑩は武臣政権の一角を担い、子の趙仁規はモンゴル支配期に語学で頭角を現し、更に子や孫が高麗で要職を占め
 趙浚の子の趙大臨は太宗の娘の慶貞公主を妻とするなど
 この一族は滅ぶこと無く上手く時流を乗り切ったといえるでしょう。

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