ナントカ堂 2019/11/17 19:06

柳清臣とその子孫

 『世宗実録地理志』を訳していて、なんとなく興味深く感じられた高麗後末期の人物及びその一族を二、三紹介いたします。

世宗実録地理志の「全羅道」の高興県の項に

 本は長興府の猫部曲で、高麗の忠烈王の十一年乙酉、地元出身の訳語行首の柳庇に功があったため、監務に昇格し、高興県と改称された。

とありますが、柳庇は後に名を柳清臣と改め、その伝は『高麗史』巻百二十五・姦臣伝一に収められています。(一部略)

 柳清臣、初名は庇、長興府の高伊の部曲の人で、先祖代々部曲の吏であった。国制では部曲の吏は功があっても五品より上にはなれなかったが、柳清臣は幼いときに開悟しモンゴル語を猛勉強し、何度も元に使者として遣わされ応対が良かったため、忠烈王に気に入られ、郎将に任じられた。そのときの教書にこうあった。「柳清臣は趙仁規に付き従って尽力し功を立てた。その家は代々五品が限りであるが柳清臣自身は三品とする。」また高伊部曲を高興県に昇格させ、まもなく将軍に昇進した。
 乃顔王が謀叛を起こしたと聞いた忠烈王は、自ら兵を率いて援軍に向かおうと考え、先に柳清臣を元の朝廷に遣わした。柳清臣は戻ってくると言った。「既に賊は平定され皇帝は燕京に戻り軍事行動を停止されました。そして王には速やかに朝廷に来て祝賀するよう命じられました。」忠烈王は喜んで、柳清臣に大将軍を加え、更に密直承旨に転じ、同知密直監察大夫に昇進した。
 忠宣王が即位すると光政副使を拝命して、判密直司事に転じ、忠烈王が復位すると賛成事となった。忠宣王が復位すると僉議政丞となり高興府院君に封ぜられ玉帯を賜った。柳清臣と呉潜が密かに忠宣王と繋がっていると聞いた忠粛王は二人を大いに疑った。そこで二人は、白元恒と同席して弁明することを求めた。忠粛王が白元恒に問うと、白元恒は鄭方吉と僧の祖倫を指弾し、祖倫は前執義の徐インを、徐インは直郎の鄭ジュウを指弾した。そこで鄭ジュウを杖で打ち海島に流した。
 柳清臣は忠粛王に随行して元の朝廷に行き、瀋王の暠が王位を狙っているのを見ると、曹テキらと共に王に背いて暠に加担し奇計万端を廻らした。さらに呉潜と共に都省に上書し、高麗に省を設置して元の内地とするよう求めた。
 そこで元の通事舎人の王観が丞相にこう上書した。
 「細かいことを気にせずに後々災いになった事は枚挙に暇在りません。故に智者は深く懼れ凡人はいい加減に考えます。高麗を内地にしようとの意見を聞きましたが、これは虚名を求めて弊害をもたらすものです。
 高麗は聖朝に百年以上従順で代々臣節を失わず、世祖はその忠勤を嘉して、皇帝の娘を王の妻とし親王同然に寵遇しました。高麗は良くわが国のやり方に従ったので、東方に兵乱は起こらず、遼水以東の藩屏として代々仕えてきました。高麗の忠勤は祖宗の遺訓の賜物です。それを今、一朝にして無思慮な意見を採用しては 世祖の深謀遠慮に背くものです。これが不可の一。
 高麗はわが国の都から数千里離れ、風土も習俗も異なり刑罰・爵賞・婚姻・獄訟も異なります。これを今、中国の法で治めるなら齟齬を来たし多くの弊害を生むでしょう。これが不可の二。
 三韓の地は民は少なく、みな山際や海沿いに散居し豊かな土地はありません。今、行省を設置して戸籍を作り税を定めるなら、遠方の島夷もこれを窺い知り不審に思うでしょう。また必ず混乱が起こり住民は逃げ、互いに扇動して大きな害が生じるでしょう。これが不可の三。
 各行省の官吏の俸禄は本省に準拠していますが、今、征東行省を設置すれば大小の官吏の月俸と一切の経費は毎年一万錠以上になります。わが国に税が送られないだけでなくわが国から俸給を送らなければなりません。行省を設置すれば何の利益にもならないばかりか多大な国費を消耗します。これが不可の四。
 江南の諸行省と同様に兵により鎮守せねばなしませんが、少数では東方諸国を制圧するには足らず、多数では兵の供給のため民に耐えがたい負担が掛かります。またわが国では禁衛から都の周辺地に屯住させる場合、軍額が定められており、これについては私などが意見するようなことではありませんが、征東行省に兵を鎮守させた場合、どこから出せば良いのでしょうか。これが不可の五。
 いにしえより大事は広く意見を聞くものです。私の聞いた所では立省を献策した二人は、高麗の元重臣で、讒言により処罰され主君を怨んでいます。自国を転覆して自らの地位を安泰にし怨みを晴らそうとしたもので、わが国を思って献策したのではないでしょう。わが国と高麗とは義では君臣、血筋では舅と婿の関係であり、命運を共にしています。主君を売ろうとする二人に騙されて奸計に嵌るなどあってはなりません。これが不可の六。
 私の僭越なる意見をお聞き入れいただければ処罰されても構いませんが、朝廷では再考されることを願います。」
 李斉賢もまた立省について都堂に上書したため、高麗の内地化は取りやめとなった。
 初め柳清臣は呉潜と共に中書省に出向いて、忠粛王が盲目と聾唖のため政務が執れないと言い、遂にはこう訴えた。「忠宣王が仁宗に奏上して、燾(忠粛王)は王に、暠(瀋王)は世子になりましたが、英宗の時代になると、燾は伯顔禿古思(高麗の出で元に仕えた宦官)と共謀し、金怡に忠宣王を説得させて、暠の世子の印を剥奪させ、更に忠宣王が暠に賜った田宅と陪臣のわれら百四十人の田宅を没収しました。」
 そこで帝は、平章の買驢と舎人の亦トク迷失不花を高麗に遣わし、興礼君の朴仲仁と趙雲卿、上護軍の高子英らがこれに従った。この者達は全て瀋王の一党である。買驢と会った忠粛王は、威儀を正して一項目ずつ反論した。買驢は言った。「帝が私を遣わしたのは、王の病状を確かめさせるためである。今見たところ全ては偽りであったことが分かった。」曹テキらは恐怖のあまり何も言えなかった。忠粛王が復位すると、柳清臣や呉潜らは恐れて帰国せず、柳清臣は元に留まること九年で卒去した。
 柳清臣は無学無知であったが臨機応変に立ち回り、権勢を恃み国政を弄して国の害となった。当時「猫部曲の人が朝廷に仕えれば国は滅ぶ」との讖があった。猫は俗語で高伊と言った。
 子の攸基は官は判密直事にまで至り、攸基の子の柳濯には別に伝がある。


続いて子孫の伝を、まずは『高麗史』巻百十一から。


 柳濯、字は春卿、高興府院君の柳清臣の孫で、膽略あり武芸を得意とした。早くに蔭位によって元朝の宿衛に入り、帰国して監門衛大護軍を拝命し、数年も経たないうちに三回転じて高興君に封ぜられ、元からは合浦万戸に任命された。忠定王の時代になると都僉議参理となり推誠亮節翊祚功臣の称号を賜って、更に賛成事に昇進した。
 恭愍王の初めに全羅道万戸として赴任すると、軍紀を引き締めて州県を安定させ士卒と苦楽を共にした。王はお褒めの教書を下し衣服と酒を賜って慰労した。倭寇が万徳社を攻めて人を殺し物を奪い去った。柳濯は軽騎にてこれを追い捕らえて、連れ去られた人々を取り戻した。それ以後、柳濯の在任中は倭寇は再び襲来することは無かった。また柳濯は自ら「長生浦」などの曲を作り、それらは楽府に伝わっている。
 都に戻ると賛成事となり、まもなく左政丞を拝命し、職を辞すと高興府院君に封ぜられ、輸誠亮節翊祚輔理功臣の号を賜った。元が南方の紅巾賊の討伐を決めると勇士を求め、柳濯や廉悌臣ら四十人あまりが勇略ありとして、蔡河中が推薦した。元からの使者が来て召されると、柳濯らは兵数千を率いて元に行き、太師の脱脱に従って、高郵の張士誠を攻め、連戦して大いに功があった。そこで官界に復帰して、門下侍郎同中書門下平章事となった。まもなくある事件に関連して配流されたが、後に復帰して高興侯に封ぜられた。
 紅巾が高麗に攻め込み王が南に避難すると、柳濯は慶尚道都巡問兼兵馬使となり、また左政丞を拝命した。興王定難の功一等とされ、更に辛丑扈従功臣が定められると、柳濯は軍功一等となり、侍中となった。そして評理の崔瑩と密直副使の呉仁澤と共に政房を取り仕切ることとなった。崔瑩と呉仁澤は王に気に入られていて、ある日、人事で柳濯が「先に台省から選ぶべきだ。」と言うと、崔瑩は出し抜けに「私が選ぶ。」と言って、下吏に怒鳴り声で「于達赤の名簿を持って来い。」と言った。その不遜な態度に、柳濯が声を挙げようとすると、呉仁澤が言った。「どうして台省の人員を于達赤から選ぶのか。先に儒士と名望家から選ぶべきだ。」二人の専恣と傍若無人さから、柳濯は病を理由に同席しなくなった。
 魯国公主が薨去すると、王は仏説に惑い火葬しようと考え、柳濯に相談したが、柳濯が反対したため中止にした。また推忠秉義同徳輔理翊祚功臣の号を賜った。旧制では、僉議枢密監察重房に夜中宿直する者には多くの物が与えられていたが、紅巾に攻め込まれてからは行われなくなっていた。両府はこれを復活させたいと思っていたがなかなか決定されなかった。都僉議司の下吏の金富らは決定が滞っていることに怒り、録事の朴允龍と孫国英の名を大書したものを柱に貼って言った。「この二人の告身は発行しないことを誓う。」朴允龍と孫国英は当時金銭と穀物を管理していた。柳濯はこれを聞くと怒って金富らを牢に入れ問い質してこう言った。「滞っているのは右司議の崔安穎と左正言の金存誠のせいだ。」このことが王に報告されると、崔安穎らは罷免された。以前に公主が薨去したとき、四都監十三色が置かれて葬儀を執り行うことになったが、柳濯は多くの儀礼を間違えた。崔安穎はこれを非難したため柳濯の怨みを買い、ここに至って罷免されたのである。人々はこの行いを非難した。
 元の朝廷から詔を持った使者が来た。その挙措は大いに尊大で、王と会っても傲慢、宰相と会っても席を与えなかったが、柳濯と会うと礼を以って接し恭しかった。簽書の李穡は同僚に言った。「侍中の挙措は礼に適い、見るからに重々しかった。」
 監察司が都評議録事の家奴を捕らえた。柳濯は執義の崔元祐に会い放免するよう求めたため、釈放された。釈放された奴のうち一人を見て柳濯は言った。「録事の家奴を捕らえたと聞いたが、これはわが家の奴ではないか。」そして怒って出仕しなくなった。このため宰枢は崔元祐を捕らえて牢に入れ、罷免した。崔元祐は嘆いて言った。「台中の事は必ず会議して実行する。私一人のせいではないのに私だけがこのような目に遭った。」
 ある巫が天帝釈を自称し妖言で人々を惑わしたので、杖刑に処した。元の使者の大都驢は柳濯に言った。「いにしえより婦人に刑を課したことがあったでしょうか。」 柳濯は無学であったため上手く応じられなかった。その後、たびたび引退を願い出たが受理されなかった。
 王が馬岩に公主の影殿を大規模に建てようとした。柳濯は同知密直の安克仁と簽書密直の鄭思道に言った。「馬岩の工事はただ民に負担をかけ財を損なうだけだ。また術家が『ここに建物を建てれば異姓の王が立つ』と言った。私は百官の長として主君の過ちを正さなければならない。後世に謗りを受けるくらいなら死を賭しても諌めねばなるまい。」安克仁らは賛成し、こう上書した。「今年は大旱魃で五穀は実らず民の食糧が尽きようとしています。内外の工事を中止されることを願います。」王は激怒して「それは私が影殿を建てるのを阻むつもりであろう。」と言うと、柳濯と鄭思道を投獄し、安克仁は定妃の父であったため免官とした。
 柳濯は重々しく優美で、その挙措に同僚達は感服していたため、投獄されると皆が驚き嘆いた。太后は人を遣わしてこう王を説得した。「主君の過ちを正すのは宰相の努めです。柳濯らを釈放しなさい。」王は聞かず、侍中を柳濯から李春富に代え、李穡らに、魯国公主が薨去した際三日間葬儀を行ったのに、永和公主では減らした事について尋問させた。柳濯は言った。「公主は国母です。亡くなられた時、臣らは悲しみのあまり成すところを知らず長く葬儀を行いました。その後、紅巾が攻め込んで葬儀の記録が失われたため、臣らは知りえた事例に基づいて葬儀を行いました。他意はありません。」これを聞くと王は更に怒った。そこに辛ドンが来て言った。「侍中は死ぬべきです。」王は柳濯を殺すことに決め、人々に報せる文を李穡に作成させようとした。すると李穡は「柳濯を罪も無しに死罪にするのですか」と反対したため、王は更に激怒して李穡を獄に下した。このとき李穡は泣いて言った。「臣は死を恐れませんが、王が罪無き大臣を殺すことが残念です。」すると王は全員釈放した。翌日、柳濯らが王に謝すと、王は酒を賜りこう言った。「私は怒りに吾を忘れていた。卿らはこの数日のことを忘れて欲しい。」このときのことは李穡伝に記されている。後に王はまた、王陵で臘祭を行わないことを柳濯が決めたことで投獄し、処罰の代わりに庶人とし家財を没収した。都堂は言った。「諸陵は全て臘祭を行っていません。罪を赦されますように。」王は怒りが解けて、告身と家財を返還した。
 辛ドンが誅されると憲司はこう奏上した。「柳濯は首相となると、全羅の兵と民を占有し、妹婿の也先帖木児の頼みで万戸府を設置し、也先帖木児に支配させ枢密院に入れました。また公主が薨去された際、葬儀を薄礼にしました。更に逆賊辛ドンに奴婢や金銭を贈り結びついて互いに援護しました。李伯修が辛ドンの謀叛の計画を報告しても、柳濯は無視しました。法に則り不敬不忠の罪を正すべきです。」王はこれに従った。太后は宦者の沙顔不花を遣わして宥めたが、王は怒って沙顔不花を捕らえ、遂には青郊にて柳濯を絞殺させた。享年六十一。国中の人が泣き「柳濯が影殿の工事を諌止したのを王が怨んだためだ。」と噂した。
 後に太祖の夢に柳濯が現れて、子の濕に爵が与えられることを願った。太祖は不思議なことと思い、柳濯に特進輔国高興伯を追贈して忠靖と諡し、濕に官職を与えた。子は雲・濕・ゼン(さんずいに善)である。


『朝鮮王朝実録』太宗実録巻十一/太宗六年三月二十四日条

 判三司事致仕の柳濬が卒去した。柳濬は高興の人で、僉議政丞の柳清臣の孫である。蔭位によって府衛となり、累進して千牛衛上護軍となった。元朝より宣命を受けて明威将軍・全羅道鎮辺万戸府達魯花赤となり世襲とされた。柳濬は長年太上の麾下に従い、戊辰に密直副使商議を拝命した。太祖が都総中外諸軍事となると、柳濬はその幕府に属し、太祖が即位すると、柳濬は原従功臣となった。王后が薨去すると、良家の女が選ばれて後宮に入ったが、柳濬の娘もその中に選ばれ、柳濬は検校参賛門下府事となった。まもなく高興伯となり、庚辰、判三司事を以って致仕し、卒去した。享年八十六。胡安と諡された。子は三人で、孟忠・仲敬・季文である。

『朝鮮王朝実録』世宗実録巻八十六/世宗二十一年八月六日条

 前中軍都総制の柳濕が卒去した。柳濕は高興県の人で、高麗の侍中の柳濯の子である。初め蔭位により官職に就き、閣門引進使となった。太祖の夢に柳濯が現れて、子に爵が与えられることを願った。目が覚めて不思議なことと思い、柳濯に高興伯を追贈し、特別に柳濕を果毅上将軍とした。更に太宗に仕えて原従功臣となり、累進して礼刑兵吏曹典書に、地方に出て全羅・忠清・平安三道都節制使となって、中軍都総制に昇進した。歳己亥、右軍元帥として対馬島に遠征し、帰還すると病を理由に引退して、この日に卒去した。享年七十三。訃報が届くと、朝政を停止して、弔慰の品を贈り、襄靖と諡した。軍事により襄、良く終わりを全うしたことにより靖である。子は漬。

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