ナントカ堂 2014/09/21 21:26

明代の名門(11)

前回は武人を良さ気に書いていたので、今回は反対にろくでもない人を訳します。
父親の王真は良い人なのですが、とりあえずここから語り起こします。

『明史』列伝第三十三「王真伝」

王真は咸寧の人である。洪武年間(1368~1398)、兵卒より身を起こし、功を重ねて燕山右護衛百戸となった。燕軍が挙兵すると九門を攻めた。永平・真定で戦い、広昌を降して、雁門の戦いに従軍した。滄州を攻め落とすのに従い、南軍を滑口まで追って、捕虜七千人以上を得て、累進して都指揮使となった。
ラン河の戦いで、真は白義・劉江とともに各々百騎を率いて平安の軍をおびき出し、草を縛って袋に入れ、絹布の束に見せかけ、平安がこれを追撃すると、真らは偽って袋を捨てた。平安軍の兵士は争ってこの袋を取り合い、ここで伏兵が現れ、両軍死闘となった。真は壮士を率いて前に進み、数え切れないほどの首を斬った。後からの軍が続かず、真は平安軍に何重にも包囲された。真は重傷を負いながらも続けざまに数十人を殴り殺し、側近を振り向いて「私は敵の手で殺されないことを信条としている。」と言って自刎した。永楽帝が即位すると、金郷侯に追封され、忠壮と諡された。
真は勇猛にして知略あり、永楽帝は追悼の曰が来るたびに「王真のように奮闘すれば何でもできる。死ななければ、その功は諸将の筆頭となったであろう。」と言った。洪熙帝の時代に、寧国公を追封され、効忠の称号を加えられた。子の通には自身の伝がある。

『明史』巻百五十四「王通伝」

王通は咸寧の人で、金郷侯の真の子である。父の官を嗣いで都指揮使となり、父の兵を率いて転戦し、軍功を挙げて、累進して都督僉事となった。本人の功と父の戦死の功を合わせて、武義伯に封ぜられ、禄は千石で、世券を与えられた。永楽七年(1409)長陵造営の監督となり、十一年(1413)成山侯に進封され、禄二百石を加えられた。翌年、北征に従い左掖を指揮した。二十年長城を越えての遠征に従い、大軍で殿となった。以後北方遠征の際には、右掖も合わせて指揮した。洪熙帝が即位すると、後府の統括を命じられ、太子太保を加えられた。
これ以前に交阯総兵官で豊城侯の李彬が卒去したため、栄昌伯の陳智と都督の方政が参将として代わりに鎮守していたが、互いに協力しなかった。黎利は勢力を拡大して、何度も郡邑を攻め落として将や官吏を殺した。陳智はたびたび兵を出したが敗れた。宣徳帝は陳智の爵位を取り上げ、王通に征夷将軍の印を帯びさせて、兵を指揮して討伐に向かうよう命じた。黎利の弟の黎善が交州城を攻めた。都督の陳濬らがこれを撃退し、ちょうどここへ王通が到着したので、道に分かれて出撃した。参将の馬瑛は石室県で賊を破った。王通は兵を率いて馬瑛軍と合流し、応平の寧橋まで来ると伏兵に攻撃され、王通軍は総崩れとなり、死者が二、三万人出て、尚書の陳洽が戦死し、王通は負傷して交州に戻った。黎利が乂安にいると聞くと、王通は自ら精鋭を率いて東関を包囲した。王通はやる気が無くなっていたので、朝廷に密かに使者を出して、黎利にこの地で封爵を授けるよう願い、黎利には清化以南を割譲するともちかけた。按察使の楊時習がこれを察知して不可としたので、王通は声を荒げて責めた。清化守の羅通もまた城を棄てることに反対して、指揮の打忠とともに守りを固めた。朝廷では援軍として柳升らを遣わした。
柳升が到着する前の二年二月、黎利が清化城を攻めた。王通が屈強な兵五千で賊の不意を突いて陣を攻め破り、賊の司空の丁礼以下一万以上の首を斬った。黎利は恐怖のあまり逃亡しようとした。諸将が勝ちに乗じて速やかに攻撃することを求めたが、王通は三日の猶予を設けて出撃しなかった。このため賊は勢いを盛り返し、柵を立て塹壕を掘って、四方に兵を出し、別働隊が昌江・諒江を攻め落として、清化の包囲はますます逼ってきた。王通は兵を纏めて出撃しなかった。ここで黎利が和を求めてきたので、王通はこれを朝廷に報告した。このとき柳升が戦死し、沐晟の軍は水尾県まで来て前進できなくなっていた。王通はますます懼れ、さらに利で黎利を釣り、黎利が謝罪の上表を出すようにした。
その年の十月、官吏・兵・民を全て集めて城から出て、壇を立てて黎利と盟約を結び、撤退を約束した。黎利が開いた宴会で、王通は錦綺を贈り、黎利からもまた返礼として宝物が贈られた。十二月、王通は太監の山寿に命じて陳智らとともに水路を通って欽州に帰らせ、自らは歩兵・騎兵を率いて広西に帰った。そして南寧まで来たところで初めて朝廷に報告した。朝議が開かれ、これ以上の戦争は止めることに決定し、ついに交阯は放棄された。交阯が中華に属すること二十年あまり、その間に数十万の兵と、百万以上の兵糧、莫大な輸送費が費やされ、ここに至って放棄されたのである。官吏・兵・民で引き揚げてきた者は八万六千人あまり、賊の手に落ち賊に殺されたものは数え切れないほどである。土官で明の道案内を務めた陶季容や陳汀などは、各々自らの土地を捨てて来帰した。
翌年、王通が都に戻ると、群臣は相次いで弾劾し、死刑が検討されて投獄され、世券を剥奪されて家を没収された。正統四年(1439)、特別に死罪を赦されて民の身分とされ、景泰帝が即位すると、都督僉事に起用されて京城を守った。也先を防ぐのに功があり、都督同知に昇進して天寿山の守備に就き、家産を返還された。景泰三年(1452)に卒去した。天順元年(1457)、詔により王通の子の琮が成山伯を嗣いだ。琮の子の鏞のときに成化帝より元通りに世券を賜り明が亡ぶまで爵位を伝えた。

上記の陳洽は同じく『明史』巻百五十四に伝があります。ここで戦死するあたりを抜書きしてみます。

成山侯の王通に征夷将軍の印を持たせて討伐に向かわせ、陳洽はその軍の補佐となった。宣徳元年九月、王通が交阯に到着し。十一月に応平に進軍、寧橋に至った。陳洽と諸将は、地形が険阻で悪く、伏兵がいる恐れがあるといって、ここで軍を留めて敵を偵察すべきだといった。王通は聞き入れず、兵を率いて川を渡り、ぬかるみにはまった。ここに伏兵が立ち上がり、官軍は大敗した。陳洽は馬を走らせ敵陣に突っ込み、深手を負って馬から落ちた。側仕えの者が助け起こして戻ろうとすると、陳洽は目を見開いてこう叱りつけた。「私は国家の重心として、四十年も禄を食んでいる。国に報いるのは今日このときである。義により生きていられようか。」そうして刀を振るうと敵を数人殺し、自刎して死んだ。このことが報告されると、帝はこう言って嘆いた。「重臣の身で国のために殉じる者は、一代にどれほどいようか。」そして少保を追贈し、諡を節ビンとして、その子の枢を刑科給事中とした。

明代は武官が強いから、相手が侯爵で将軍だと、文官だと軍政トップの兵部尚書でも制止できなくてどうしようもないんですよね。しかもこの後もグダグダなのに大した処分を食らってないし。
それにしても文官が地形や伏兵の有無を判断してるのに、武官が気にせず進んで、文官が奮戦して戦死しているのに、武官が逃げ出して、あべこべじゃないか(笑)

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