ナントカ堂 2014/09/22 01:24

明代の名門(12)

ここでは蒙古人や西域人で爵位を受けた人について記しましょう。

『明史』巻百五十六「呉允誠伝」

呉允誠は蒙古人である。名は把都帖木児で、甘粛の塞外の塔溝の地に住み、官職まで平章となった。>永楽三年(1370)、仲間の倫都児灰とともに妻子及び部落五千、馬やラクダ一万六千を率いて、宋晟の仲介で来帰した。蒙古人が同じ名の者が多かったため、帝は姓を賜って区別していた。尚書の劉儁が洪武の故事に倣うよう進言したので、官庁から物資が支給されるよう割符が与えられた。呉允誠は姓名を賜って右軍都督僉事を授けられ、倫都児灰もまた柴秉誠の姓名を賜って後軍都督僉事を授けられ、その他の者にも官を授け冠と官服を賜り、地位に応じて家畜や紙幣などを賜った。允誠は配下とともに涼州に住んで農耕・牧畜を行うこととなった。宋晟は呉允誠らを来帰させた功績により、西寧侯に封ぜられた。これより降附する者が増え、辺境は日に日に安泰となった。これは允誠より始まったことである。
七年(1374)に亦集乃へ敵情視察をして、哈剌ら二十人あまりを捕らえ、都督同知に昇進した。翌年、帝が長城を越えて出征するのに従い、本雅失里を破り、右都督に昇進し、まもなく左都督に進んだ。宦官の王安とともに闊脱赤を追撃し、把力河でこれを捕らえ、恭順伯に封ぜられ、食禄は千二百石、世券を与えられた。
允誠には三子がいた。答蘭・管者・克勤である。允誠は二子とともに従軍し、妻と管者は涼州に留めた。蕃人の虎保らが允誠の麾下を利で誘ったり脅迫して、叛き去ろうとした。允誠の妻は管者と謀って、配下の将で都指揮の保住、卜顔不花らを呼び出してその一党を捕らえて誅殺した。帝はこれを喜び、敕を下して褒め称え、練り絹・紙幣・羊・米などを大量に賜り、管者に指揮僉事を賜った。保住には楊効誠の姓名を賜り、指揮僉事を授けた。韃靼可汗が鬼力赤に弑され、その麾下の民は四散した。答蘭は別立哥とともに、自分たちが長城を越えて四散した者たちを助ける許可を求め、出征して軍功を立てた。別立哥は柴秉誠の子である。
帝が瓦剌に遠征したとき、允誠父子は皆これに従軍した。軍が帰還すると、涼州に居住して辺境を警備するよう命じられた。允誠が卒去すると、国公を追贈され、忠壮と諡された。
允誠の没後、答蘭は克忠と名を改めるよう命じられ、爵位を継いだ。克忠は阿魯台への二度目の遠征に従軍し、三度目の遠征にもまた従軍した。兄弟はみな軍功を立てた。洪熙元年(1425)、妹が永楽帝の妃であったので、克忠は侯に昇進した。このとき管者はすでに功を積んで都指揮同知となり、広義伯に封ぜられていた。克忠はかつて副総兵巡辺の官職に就けられていたが、正統九年(1444)、兵を束ねて喜峰口から出て、兀良哈に遠征して功があり、太子太保を加えられた。
土木の変で、克忠は弟の克勤の子で都督の瑾とともに後方を守備した。敵が突撃してくると数度に渡り戦ったが勝てなかった。敵兵は山上に拠り、矢や石を雨の如く飛ばしたので、官軍は多くの死傷者を出していままさに全滅しそうであった。そこで克忠は馬を下りて矢を射、矢が尽きてもなお数人を殺し、克勤とともに陣中で戦死した。フン国公を追贈され、忠勇と諡された。克勤は遵化伯を追贈され、僖敏と諡された。
瑾は捕らえられ、のちに逃げ帰り、侯を嗣いだ。正統帝はかつて瑾に甘粛を守らせようとしたが、瑾は「臣は外人です。もし臣を辺境守備に用いれば、外国は中国を軽んじるでしょう。」と言って辞退した。帝はその言葉をよしとして取りやめた。曹欽が謀叛を起こすと、瑾は従弟の琮とともに異変を聞きつけ、長安門を叩いて帝に報せた。長安門が閉ざされたので、曹欽は侵入することができず放火した。瑾は五、六人の騎兵を率いて曹欽と戦って戦死し、涼国公を追贈され、忠壮と諡されて、世券を与えられた。
三代後が曾孫の継爵であり、南京の守備となった。子の汝胤、孫の惟英と爵位を継ぎ、継爵とともに三代揃って京営の軍政を統括した。崇禎の末、都城が陥落し、汝胤の弟で勲衛の汝徴は妻と娘と共に首を吊って自害した。

管者が卒去すると、子のキが嗣いだ。管者の妻の早奴もまた知略があり、かつて自ら入朝して良馬を献上したことがあり、朝廷ではその忠誠が篤いと認めていた。キが卒去すると、管者の弟の克勤の子である琮が嗣いで、寧夏の鎮守となった。成化四年(1468)、満四が反乱を起こした。琮はこの乱に連座し、かつ戦いに臨んで先に退却したので、投獄されて死罪を検討されたが、辺境守備兵に左遷され、爵位を取り上げられた。

『明史』巻百五十六「薛斌伝」

薛斌は蒙古人で、本名は脱歓喜である。父の薛台は、洪武年間(1368~1398)に帰附して薛の姓を賜り、累進して燕山右護衛指揮僉事となった。斌はその職を嗣いで、永楽帝の挙兵に従い、累進して都督僉事となった。北征に従って功があり、都督同知に昇進した。永楽十八年(1420)、永順伯に封ぜられ、禄は九百石で、世襲の指揮使となった。
斌が卒去したとき、子の寿童は五歳であったので、従父の貴が寿童を連れて洪熙帝に謁見し、洪熙帝の命により伯を嗣ぎ、名綬を賜った。寿童は成長すると勇猛で戦いを得意とした。正統十四年(1449)秋、成国公の朱勇らとともに鷂児嶺で敵と遭遇した。戦い敗れ、弦は切れて矢が尽きてもなお手で矢を投げて敵を討った。敵は怒り、手足をばらばらにして殺した。殺してから敵は斌がもとは蒙古人であったことを知り、「この者はわが同類である。勇気と強さはこのようでなくてはならぬ。」と言うと互いに泣き合った。寿童は武毅と諡された。子の輔、孫の勲は続けて伯を嗣ぐことを許され、勲の子の璽は与えられていた券文の通り指揮使を嗣いだ。

貴、もとの名は脱火赤、斌の弟である。舎人として燕王の旗揚げに従い、何度も燕王を危機から救い、。累進して都指揮使となった。二度北征に従軍して都督僉事となり、永楽二十年(1422)に安順伯に封ぜられ、禄は九百石とされた。宣徳元年(1426)、侯に進み、禄三百石を加えられて、世券を与えられた。卒去して、濱国公を追贈され、忠勇と諡された。子が無く、従子の山が指揮使を継いだ。天順に改元された際、復辟に功績があったので、山の子の忠に伯を嗣ぐよう命じた。卒去して、子の瑤が嗣いだ。弘治年間に瑤が卒去して、子の昂が降襲して指揮使となった。

『明史』巻百五十六「毛勝伝」

毛勝、字は用欽、初名は福寿、元の右丞相の伯卜花の孫である。伯父の那海は洪武年間(1368~1398)に帰附し、靖難の功により都指揮同知となった。子が無く、勝の父の安太が跡を嗣いで羽林指揮使となった。子の済が嗣いだが、子が無く、勝が嗣いだ。済の北方征伐時の軍功が評価され、都指揮使に昇進した。勝はかつて長城の外に逃げ帰っていたが、まもなく自分から帰ってきた。
正統七年(1442)、麓川遠征の功により、都督僉事に抜擢された。靖遠伯の王驥が、在京の番将・舎人から選抜して、雲南の苗人を捕らえることを求めた。そこで勝に命じて、都督の冉保とともに六百人を指揮させ向かわせた。その後、再度麓川遠征が行われると、二人を左右の参将に任命した。賊が平定され都督同知に昇進した。
十四年(1449)夏、也先が中国に攻め込もうと謀った。勝は平郷伯の陳懐らとともに京軍三万を率いて大同に駐留した。陳懐は敵と遭遇して戦死し、勝は危機を脱して帰還した。武清伯の石亨の推薦により、景泰帝は勝を左都督に昇進させ、三千営の訓練の指揮官とした。
貴州の苗人が叛乱を起こし、詔により勝が討伐に行くこととなった。まだ出発しないうちに也先の軍が都に逼った。勝は彰義門の北で守備し、撃退した。二日後、兵を率いて西直門外に行き、都督の孫トウを包囲していた敵を打ち破った。翌日、都督の武興が彰義門で戦死すると、敵は勝ちに乗じて兵を進めた。勝は都御史の王竑とともに速やかに救援したので、敵はついに引き下がった。勝はこれを紫荊関まで追撃し、多くを斬ったり捕虜とした。戦闘が終わると、勝は左副総兵として河間と東昌の降夷を率いて貴州に赴くよう命じられた。賊の首領の韋同烈は香ロ山で乱を起こした。勝は総兵の梁カン、右副総兵の方瑛らとともに、総督の王来に従って道に分かれて進み挟み撃ちにすることとなり、勝は重安江から進んで賊を大破した。山の下で軍を合流させ、四方を取り囲んで攻めたので、賊は追い詰められ、韋同烈を縛って降伏した。
軍を引き返して湖広の巴馬など諸所の叛乱を起こした賊を討ち、二十以上の寨を攻め落とし、賊の首領の呉奉先ら百四十人を捕らえ、千以上の首を斬った。このため南寧伯に封ぜられ、世券を与えられた。また名を改めると願い出たので許可した。その後、勝は騰衝に異動して守備した。金歯の芒市の長官である刀放革は密かに麓川の賊の遺児の思卜発と結んで変を起こそうとしていた。勝は計略によりこれを捕らえた。
巡按御史の牟俸が勝の暴虐不法数十件を弾劾し、その上、「勝はもともと降人であり、狡猾で制しがたく、今またいくつかの外夷と通じているので、放置すれば後々辺境で害をなす。」と言上した。巡撫に詔を下し真相を調べさせたが、結局は不問に付された。天順二年(1458)に卒去し、侯を追贈され、荘毅と諡された。
子の栄が嗣いだ。石亨の一党として罪に問われ、罰の代わりに広西で軍功を立てるよう命じられた。成化の初め(1465)、貴州に異動して守備し、まもなく両広に移った。卒去して子の文が嗣いだ。弘治の初め(1488)に共同で南京の守備に就いた。爵位を伝え、明が亡んで断絶した。

『明史』巻百五十六「焦礼伝」

焦礼、字は尚節、蒙古人である。父の把思台は洪武年間(1368~1398)帰附して通州衛指揮僉事となった。子の勝が嗣ぎ、義栄の代になって子が無かったため、勝の弟の謙が嗣いだ。謙は功を重ねて都指揮同知となった。卒去したとき、子の管失奴が幼かったので、謙の弟の礼が仮にその職を継いで遼東を守備した。
宣徳の初め(1426)、礼が職を管失奴に返還しようとしたとき、宣徳は礼が辺境守備に尽くした功労を思い、もとの官職に留まるよう命じ、管失奴には別に指揮使を授けた。礼はまもなく長年の功労により都指揮同知に昇進した。正統年間(1426~1449)、功を重ねて右都督となった。正統帝が土木の変で捕らえられると、景泰帝は礼を左副総兵に任じて寧遠を守らせた。まもなく也先が都まで逼ると、詔により礼は寧遠の兵を率いて都に駆けつけた。也先が引き揚げると礼は寧遠に戻って守備した。景泰四年(1453)、賊二千騎あまりが興水堡に攻め込んだ。礼はこれを討って敗走させた。璽書により褒め称えられ、左都督に昇進した。
天順帝が復辟すると、礼は辺境を守備して功があるとして、都に召されて拝謁し、東寧伯に封ぜられ、世襲とされ、多くの物を賜って、任地に戻された。兵部は礼の年齢が八十になろうとしているので単独で職務を果たすのに無理があるとして、奏上して都指揮の鄧鐸を寧遠に遣わし協同で守備することとした。まもなく礼は、鄧鐸が自分を欺き侮るとして交代させるよう奏上した。そこで都指揮の張俊を鄧鐸と交代させた。天順七年(1463)、寧遠に駐屯したまま卒去した。侯を追贈され、襄毅と諡された。
礼は度胸も知略もあり、騎射を得意として、少ない手勢でよく多くの敵を討った。寧遠を守備すること三十年あまり、士卒は礼に用いられることを楽しみ、辺境は安寧・静謐であった。
孫の寿が爵位を嗣ぎ、卒去して子が無く、弟の俊が嗣いだ。成化の末(1487)に、甘粛や寧夏などに異動し、弘治年間(1488~1505)、南京前府を統括し、長江の提督を兼ね、出向して貴州・湖広に駐屯した。俊は若い頃商売をしていたので、高貴な身分になっても士にへりくだることができたが、交渉はまるで下手であった。俊が卒去すると、子の淇が嗣いだ。淇は京営を分担して統括したが、正徳年間(1506~1521)、劉瑾に賄賂を贈ったので、両広に出されて駐留した。翌年卒去して、弟の洵が嗣いだ。洵は爵位を嗣いだとはいえ、財産は全て淇の妻が所有した。生母が卒去して葬儀を出せず、悲しみと憤りのため病気となって卒去した。子が無く、またいとこの棟が嗣いだ。嘉靖年間(1522~1566)、五軍営の提督となり、中府の統括を兼ねた。十年勤めて、湖広の総兵に改められた。卒去して太子太保を追贈され、荘僖と諡された。爵位を伝え、明が亡んで断絶した。

『明史』巻百五十六「毛忠伝」

毛忠、字は允誠、初名は哈喇で、西陲人である。曽祖父の哈喇歹は洪武の初め(1368)に帰附し、歩兵から身を起こして千戸となり戦死した。祖父の拝都は哈密遠征に従い、これもまた戦死した。父の宝は驍勇をもって総旗に官職を得て、永昌百戸になった。
忠は官職を継いだとき二十歳であった。膂力は人より優れ騎射を得意とした。永楽帝の北征に常に従い、宣徳五年(1430)、曲先の叛徒討伐で功があった。八年(1433)、亦不剌山征伐で、偽少師知院を捕らえた。九年の脱歓喜山、十年の黒山の賊の討伐で、ともに酋長を捕らえ、それぞれ一階級昇進し、指揮同知を歴任した。
正統三年(1438)、都督の蒋貴が朶児只伯を討伐するのに従い、先頭に立って敵陣を攻め落とし、多くの戦果を挙げたので、都指揮僉事に抜擢された。十年(1445)、辺境守備の功労により、同知に昇進して、このときになって毛姓を賜った。翌年、総兵官の任礼に従って、沙洲衛都督の喃哥の部落民を捕らえ、長城の内側に移住させた。この功により都指揮使に昇進した。十三年(1448)、兵を率いて罕東に行き、喃哥の弟で祁王を僭称していた鎖南奔とその配下の部族生け捕りにしたため、都督僉事に抜擢され、このときになって忠という名を賜った。まもなく右参将に任命され、共同で甘粛を守った。
景泰の初め(1450)、侍郎の李実が漠北に使者として赴き、帰還して、忠がしばしば瓦剌に使者を送って通じていると報告した。詔により忠は捕らえられ京に送られた。都に着くと、兵部はその罪を検討して極刑にするよう帝に進言した。景泰帝はそれを許さず。降格して、処罰の代わりに福建で功を立てることとした。こうして福建に遣わされたが俸禄はいぜんのままであった。甘粛の守臣に命じて忠の家族を都に移住させた。これ以前のこと、忠が沙漠に遠征したとき、番僧の加失領真を捕らえて正統帝に献じたが、帝はこれを赦して誅殺しなかった。後に加失領真は瓦剌に逃亡して也先に登用された。忠は加失領真を憎んでいたので、加失領真は自分に害が及ぶ前に落としいれようと、ついには忠が也先と内通しているとの噂を流したのである。朝廷ではこのことに気づかなかったが。正統帝だけは也先のもとにいたのでこのことを知っていた。このため正統帝が復辟すると、忠は都に呼び戻された、そして忠が福建でたびたび賊を討ち取る功を挙げていたので、都督同知に抜擢し左副総兵に任命して、甘粛を鎮守させることとした。忠が謁見したとき帝は最大限慰め、玉帯と金糸で織った蟒衣を賜った。
天順二年(1458)、賊が大挙して甘粛に攻め込んだ。巡撫のゼイ釗が諸将の失態の罪を弾劾した。兵部で協議した結果、忠の今までの功績は罪を償うに足るとして不問とされた。三年(1459)、番を鎮圧し賊を破った功により、左都督に昇進した。五年(1461)、孛来が数万騎を西寧・荘浪・甘粛の諸道に分けて攻略させ、涼州に入った。忠は一昼夜全力で戦い、矢が尽き疲労困憊した。賊はますます数を増してきたので、軍中はみな顔色を失った。忠はますます意気を上げて将士を激励したので、再び死力を尽くして戦った。賊は結局勝てないと判断し、しかも明の援軍が到着したので、包囲を解いて退却した。忠はついに全軍がまとまった状態で帰還した。七年(1463)、永昌・涼州・荘浪の塞外の諸番がしばしば国境を侵犯したので、忠は総兵官の衛穎とともに分担して討伐した。忠はまず破巴哇の諸大族を撃ち破り、サンサや馬吉思などの諸族で、他の将が撃ち破れないものを、忠がまた行って撃ち破った。論功があって、忠は禄を百石増やされただけで、衛穎は世券を得た。忠は不服を申し立て、結局、伏羌伯に封ぜられた。
成化四年(1478)、固原の賊の満四が石城に拠って叛いた。詔により忠は兵を引き連れて移動し討伐することとなった。忠は総督の項忠らと賊の巣窟を挟み撃ちにした。忠は木頭溝からそのまま炮架山の下を攻撃し、多くの場所で敵を斬ったり捕らえたりした。このため賊はやや退いた。忠は矢や石が飛んでくるのをものともせず山北・山西の両峰を立て続けに奪取した。項忠らの軍もまた山の東の峰を占拠した。官軍が石城の東と西の二門までたどり着くと、賊は大いに追い詰められ、お互いに泣きあった。そこへ突如深い霧がたちこめ、他の官軍はこれを軍を動かさないようにとの合図ののろしだと判断した。そこで賊は力を合わせて忠を攻めた。忠はとめどなく力戦したが、流れ矢に当たって卒去した。享年七十五。従子の海、孫の鎧も忠を救おうとして前に出てまた戦死した。
忠は将として紀律に厳しかったがよく兵士を慰撫した。卒去すると、西陲人は弔問する者が列を成した。帝は戦死したことを聞くと、侯を追贈して、武勇と諡し、世券を与えた。弘治年間(1488~1505)、担当官の進言に従い、蘭州に忠義坊を設置して、忠の郷里でその功労を表彰した。また巡撫の許進の進言に従い、甘州城の東に武勇祠を建て、春秋に祭礼を行わせた。
孫の鋭が伯爵を継いだ。成化年間(1465~1487)、南京の共同守備役となり、弘治の初め(1488)、湖広に出向して鎮守し、両広に転任となった。蛮賊を平定して功を重ね、全てにおいて璽書により賞賛された。九年(1496)、広西で賊を打ち破り、毎年の禄を二百石を増やされた。言官が、鋭が広州に邸宅を築き、私に大船を建造して異国の商人と通商していると弾劾した。帝はこれを不問に付した。思恩の土官の岑濬が叛いたので、鋭は総督の潘蕃とともに討伐して平定した。その後さらに平賀県の僮人の賊を討伐し、官を加えられて太子太傅となった。正徳三年(1508)、劉瑾が尚書の劉大夏を殺そうとして、劉大夏が田州で起こった反乱に対して処置を誤ったと弾劾した。このため田州鎮圧に従軍した鋭も詔により投獄された。罪状が確定して、鋭は加官ならびに毎年の禄五百石を取り上げられた。その後、鋭は劉瑾に賄賂を贈って漕運の総督に起用された。翌年、劉瑾が誅殺されると、鋭も弾劾されて罷免された。六年(1511)、群盗の劉宸らが畿内を荒らしまわった。朝廷では鋭に宦官の谷大用とともに賊を討つよう命じたしかし率いた京軍はみな驕惰で戦いに不慣れであった。翌年正月、長垣で賊と遭遇し、戦って大敗し、鋭は負傷して将の印をなくし、ちょうど許泰の援軍が到着したので、どうにかその場を免れた。言官が交々弾劾したので召還されたが、谷大用が同じ罪に当たるので、結局処罰されなかった。嘉靖帝が即位すると再び起用されて湖広を鎮守し、任地に三年いて卒去した。太傅を追贈され、威襄と諡された。
子の江、漢が跡を継ぎ、漢は嘉靖年間(1522~1566)に南京左府を統括し長江の提督となった。漕運の総督に改められたが、まだ赴任しないうちに、給事中の楊上林が漢の汚職を弾劾したため、詔により官職を取り上げられ喚問された。卒去して子が無く、従子の桓が嗣いだ。桓が卒去して、子の登が嗣いだ。万暦年間(1573~1620)、中軍府の政務を二十年にも渡り取り仕切った。さらに子孫に爵位を伝え、明が亡ぶ前で続いた。

『明史』巻百六十六「陳友伝」

陳友、その先祖は西域より入り、全椒に定住した。正統の初め(1436)に千戸の官職に就き、累進して都指揮僉事となった。連年瓦剌への使者となった功労により、また昇進して都指揮使となった。九年(1444)に寧夏遊撃将軍に任命されて、総兵官の黄真とともに兀良哈を攻撃して、多大な戦果を上げ、都督僉事に昇進した。まもなく長城を出て招諭したので答哈卜ら四百人が来帰した。
景泰帝が即位(1450)すると、都督同知に昇進し、湖広や貴州の苗族を討伐した。まもなく左参将に任命されて、靖州を守備した。景泰二年(1450)、王来らとともに香爐山の賊を攻撃し、万潮山から入って大いに破り、湖広に留まって守備した。論功により、右都督に昇進した。四年春、苗族五百人あまりの首を斬ったと朝廷に報告し、五年にはさらに三百人あまりの首を斬ったと報告した。しかし都指揮の戚安ら八人が戦死したので、兵部省は首を斬った功が虚偽ではないかと疑い、指揮の蔡昇もまた友の報告が虚偽であると奏上した。そこで総督の石璞に調査を命じたところ、斬ったり捕らえたりした者がわずか三、四十人で、将士千四百人を失ったとして、処罰すべきであると報告した。詔を下して、友は賊を殺して償うよう命じられた。
天順元年(1457)、方瑛が天堂の諸苗を討伐するのに従い、大いに戦果を上げた。左副総兵に任命されて湖広を鎮守するよう命じられた。その後、また方瑛とともに蒙能の残党を破り、都に呼び出されて、武平伯に封ぜられ、世券を与えられた。孛来が辺境を脅かすと、遊撃将軍に任命され、安遠侯の柳溥らに従って防衛した。そして都指揮の趙瑛らを率いて戦い、敵を破って敗走させた。敵が鎮番に再び侵入してくると、また撃退し、百六十人を捕らえた。まもなく将軍の印を与えられて総兵官に任命され、寧夏の賊を討伐した。これ以前のこと、賊が大挙して甘・涼に侵入し、柳溥と総兵の衛穎らは防ぎきれず、ただ友だけが多少の戦果を収めた。ここに至り、巡撫のゼイ釗が諸将の失態を列挙した報告書を送った。兵部省は友の免罪を願い出た。詔により、友は柳溥らとともに許され、呼び戻されて侯に昇進し、のちに卒去した。
爵位を子に伝え、孫の綱の代の弘治年間(1488~1505)に、友に諡を追贈することを願い出た。そこで詔によりベン国公を追贈され、武僖と諡された。綱は爵位を子の勲と熹に伝えた。嘉靖年間(1522~1566)、吏部が、友の苗討伐の功は多くがでたらめであるので、爵位継承を停止するよう求めたが、帝は聞き入れなかった。熹の子の大策がまた侯を嗣ぐことができ、明が亡ぶに至り断絶した。

『明史』巻百七十三「施聚伝」

施聚、その先祖は沙漠の人で、順天の通州に住んだ。父の忠は金吾右衛指揮使となり、北征に従軍して陣没し、聚がその職を継いだ。宣徳年間(1426~1435)、遼東の防衛の備えをし、累進して都指揮同知となった。曹義の推薦により、都指揮使に昇進した。曹義は兀良哈と戦ったが、聚はその全てに従軍した。也先が都に迫ると、景泰帝は詔を出して聚と焦礼に都に来て側近くで守るよう命じた。聚は慟哭し、即日兵を率いて西に向かった。部下が牛肉と酒を勧めると、聚はそれを振り払ってこう言った。「天子の安否が不明なのだ。ご馳走を食べる気分ではない。」賊が撃退されると遼東に戻った。聚の勇敢さが称えられて左都督になった。正統帝を復辟させた恩賞として伯に封ぜられた。曹義の死後二年(1462)で卒去した。侯を追贈され、威靖と諡された。曹義から三代を経て棟の代になり、聚より四代を経て瑾の代になった。吏部はともに爵位を継承させるのは適当ではないと言ったが、嘉靖帝は特別に継承を許し、爵位を伝えて明が亡ぶまで至った。

ここに挙げたのは世襲の爵位を持った家系のみです。世襲の爵位を持っているものは漢人も全て含めて数十人で、この他に蒙古系で世襲武官となり各地の衛所で地位を得ていた者は数多くいました。大元を継承する世界帝国を自認していた大明帝国は、当時知られていた世界全てを包含するものであり、さまざまな民族を取り込み漢化して吸収する国家であったのです。

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