ナントカ堂 2014/09/21 20:47

明代の名門(10)

正統帝時代の元老に張輔と陳懋がいました。
張輔は張玉の子で、張玉はwikiに略伝があるので、その子供たちの附伝と張輔の伝を訳します。

『明史』巻百四十五「張玉伝」
子は三人いて、長子は輔、次子はゲイ(車偏に兒)。三子は軏、従子は信である。輔には別に伝がある。

ゲイは功臣の子として神策衛指揮使となった。正統五年(1440)、英国公で兄の輔が、ゲイが墳墓を守る者を殴り、先代の玉に対してまで多くの不敬な言葉を吐いたと訴えた。帝は錦衣衛に命じて事実を調査させ、ゲイを拘禁したが、まもなく釈放された。三度昇進して中府右都督となり宿衛を統括した。景泰三年(1452)、太子太保を加えられた。正統帝が復位すると、軏が帝を擁立した功により、ゲイもあわせて文安伯に封ぜられ、食禄を千二百石とされた。天順六年(1462)に卒去。侯を追贈され、忠僖と諡された。子の斌が嗣いだが、呪詛の罪に問われ爵位を剥奪された。
軏、永楽年間(1403~1424)に宿衛に入り、錦衣衛指揮僉事となった。宣徳帝が高煦を討伐するのに従い、また成国公の朱勇が長城を越えて氈帽山に行ったのに従った。正統十三年(1448)、副総兵として麓川を討伐し、帰還してからまた貴州の叛逆した苗を討った。功を重ねて前府右都督となり、京営の兵を束ねた。景泰二年(1451)、驕慢で放蕩に耽ったので投獄され、まもなく釈放された。景泰帝が危篤になると、石亨・曹吉祥とともに南城で上皇を出迎えた。太平侯に封ぜられ、食禄は二千石とされた。于謙・王文・范広の死には、軏が強く推し進めたことである。賄賂を受けて政治を乱し、権勢は石亨に次いだ。天順二年(1458)に卒去して、裕国公を追贈され、勇襄と諡され、子の瑾が嗣いだ。成化元年(1465)、「奪門」の功が再検討され、侯を取り上げられて指揮使を授けられた。

信は建文二年(1400)に郷試第一に挙げられた。永楽年間(1403~1424)に刑科都給事中を歴任し、たびたび献言を行った。工部右侍郎に抜擢されて、開封における黄河決壊の視察を命じられ、魚王口から中ラン故道までの二十里ほどを開削するよう進言した。詔により協議したことが「宋礼伝」に詳しい。浙江の防波堤を作るため遣わされ、あることが罪に問われて交阯に流された。洪熙の初め(1425)、都に呼び戻されて兵部左侍郎となった。帝はかつて英国公の輔に「兄弟で恩典を加えるべき者がいるか?」と尋ねた。輔はひれ伏してこう言った。「ゲイと軏は陛下の恩をこうむって近侍となり、ともに身に過ぎた贅沢をしております。ただ従兄で侍郎の信は賢明にしてお使いいただけるかと存じます。」帝は信を召しだして会ってみると「これが英国公の兄か。」と言い、武官の冠を被らせて、錦衣衛指揮同知に改め、世襲とした。このころは建国からまだ年月が経っていなかったので、武官の官位が高かったためにそうしたのである。信は官職に就いている間、寛大さで賞賛された。宣徳六年(1431)、四川都指揮僉事に異動となり、蜀にいること十五年で致仕した。

次は『明史』巻百五十四「張輔伝」

張輔、字は文弼、河間王の玉の長子である。靖難の変が起こると、父に従って力戦し、指揮同知となった。玉が東昌で戦死すると、輔がその職を嗣いだ。夾河・藁城・彰徳・霊璧の戦いに従軍し、全てにおいて軍功を挙げた。永楽帝が都に入るのに従い、信安伯に封ぜられ、禄は千石とされ、世券を与えられ、妹は帝の妃となった。丘福と朱能は、輔の父子はともに功績が多大であり、帝妃の一族ということで故意に恩賞を薄くするべきではないと言った。永楽三年(1405)、新城侯に進封され、禄三百石を加えられた。
このとき安南の黎季リがその主を弑して、自らを太上皇と称し、子の蒼を帝に立てた。このため殺された王の孫の陳天平がラオスから逃げて来た。黎季リは偽って帰国するよう願い出たので、帝は都督の黄中に兵五千を指揮させて陳天平を送り、前大理卿の薛ソウを補佐とした。黎季リは芹站に伏兵を置いて陳天平を殺し、薛ソウもまた死んだ。帝は激怒し、成国公の朱能を征夷将軍、輔を右副将軍とし、豊城侯の李彬ら十八人の将軍、兵八十万を指揮させた。そして左副将軍・西平侯の沐晟と合流して、道を分かれて進軍し討伐に向かった。兵部尚書の劉俊が参謀となり、行部尚書の黄福と大理寺卿の陳洽が兵糧輸送を担当した。
四年(1406)十月、朱能が陣中で卒去したため、輔が代わりに軍を指揮した。憑祥から進軍し、坡塁関を越え、国境から安南の山川を遥拝した。そして黎季リの二十の罪を問う文書を安南に送り、進軍して隘留・鶏陵の二関を破り、芹站に進んでそこにいた伏兵を敗走させて新福に到着した。沐晟軍もまた雲南から来て白鶴に陣を敷いた。安南には東西二都があり、宣・トウ・タ・富良の四江の天険を恃みとしていた。賊は江南北岸に柵を立て、その中に船を集めていた。多邦隘に築城し、城柵の間に橋のように艦船を九百里以上連ね、その兵力は七百万で、天険により、疲弊した輔の軍を破ろうとしていた。輔は新福から三帯州に軍を移し、船を造って進軍し攻め落とそうとした。このとき帝のもとに朱能が卒去した報せが届き、敕により輔を将軍に任じ、別に帝よりの言葉として、李文忠が開平王の常遇春に代わって指揮を執った故事に倣うこと、冬でまだ瘴気が盛んにならないうちに賊を滅ぼすことを伝えた。十二月、輔の軍は富良江の北に着いた。驃騎将軍の朱栄を遣わして嘉林江の賊を破り、沐晟の軍と合流して進軍し多邦城を攻めた。このとき他の城を攻めようとしているそぶりをして賊を油断させ、都督の黄中らに決死の士を指揮させて、各人にかがり火と銅製のラッパを持たせ、夜四鼓(午前3時ごろ)に何重もの堀を越えて、雲梯を城壁に架けた。都指揮の蔡福が先頭に立って登り、兵士が蟻のように城壁について城壁の上に上がって、ラッパを吹き、一万のかがり火を一斉に挙げ、城壁の下にいた兵が騒ぎ立ててこれに続いて進軍して城に入った。賊は象を駆り立てて応戦した。輔は獅子を描いたものを馬に被せて象を抑え、左右から神機火器を発した。象はみな反転して逃げ走り、賊は壊滅した。そこで賊の主将二人を斬って傘圓山まで追撃し、江に沿って設置されていた木柵を全て焼いた。捕らえて斬ったものは数知れなかった。進軍して東都を落とし、下級役人や民を集め、投降した者を慰撫したので、来帰する者は日に一万を数えた。別将の李彬と陳旭を遣わして西都を取り、さらに兵を分けて賊の援軍を破った。黎季リは宮殿や倉庫に火をかけて海上に逃亡した。三江の州県はみな風になびくように降伏した。
翌年春、輔は清遠伯の王友らに注江を渡らせ、籌江・困枚・万劫・普賴の諸寨をことごとく攻略させ、三万七千以上の首を斬った。賊将の胡杜は盤灘江で船を集めた。輔は降将の陳封にこれを襲わせて敗走させ、全ての船を獲得した。ここに東潮・諒江の諸府州は平定された。続いて黎季リの水軍を木丸江で撃破し、一万の首を斬り、将校百人以上を捕らえ、溺死者は数え切れないほどであった。さらに膠水県の悶海口まで追撃して帰還した。そして鹹子関に城を築き、都督の柳升にこれを守らせた。その後、賊は富良江から入ったので、輔は沐晟とともに両岸から迎え撃ち、柳升らが水軍で側面を突いたので、賊を大いに破り、数万の首を斬って、江の水は赤くなった。勝に乗じて賊を追い詰めた。このとき雨が降らなかったので水が浅く、賊は船を棄てて陸を逃走した。官軍が至ると、突如大雨が降って水位が上がったので、河を渡ることができた。五月に奇羅海口に到着し、黎季リとその子の蒼、並びに偽太子・諸王・将相・大臣らを捕らえ、檻に入れて都に送った。安南は平定され、府州四十八、県百八十、戸三百十二万を得た。陳氏の末裔を求めたが得られなかったので、結局、交阯布政司を設置し、その地を内地に属した。唐が亡びてより、交阯は蛮族の手に落ちて四百年以上、ここに至り再び版図に入った。帝は詔により天下にこのことを告げ、諸王・百官は表を奉じて祝賀した。
六年(1408)夏、輔は展開した軍を纏めて都に戻った。奉天殿で二度帝による宴が催され、帝は『平安南歌』の賦を作った。輔は英国公に進封となり、毎年の禄を三千石として、世券を与えられた。その年冬、陳氏の旧臣の簡定が叛旗を翻した。帝は沐晟に討伐を命じたが、生厥江で連敗した。翌年春、再び輔に征虜将軍の印を帯びさせ、軍を指揮させて討伐に向かわせた。このとき簡定はすでに越上皇を僭称して、別に陳季拡を皇として立て、その勢力は多大なものであった。輔は叱覧山に着くと木を切って船を造り、あわせて諒江の北にいた避難民を呼んで生業に復帰させた。そして慈廉州に進軍し、喝門江を破り、広威州の孔目柵を攻め落とし、鹹子関まで行くと賊と遭遇した。賊は六百以上の船で、江東の南岸を有していた。輔は陳旭らを率いて小舟で戦った。風向きに乗って火を放ち、賊帥二百人以上を捕らえ、全ての船を得た。そこから太平海口まで追撃すると、賊将の阮景異が三百艘で迎え撃ったので、これもまた大いに破った。このときになって陳季拡は自らを陳氏の子孫であると言い、使者を遣わして安南王の位を継ぐことを認めてもらえるよう求めた。輔は言った。「以前に安南全土で陳王の子孫を捜し求めたがこれに応じるものはいなかった。今そのように言うのは偽りであろう。私は命を奉じて賊を討つのであり、その他のことは知らぬ。」そして朱栄、蔡福らに歩兵と騎兵で先に進ませ、輔は船団を率いてこれに続いた。黄江から神投海に着き、清化で合流してから、道を分かれて磊江に入り、美良山中で簡定を捕らえた。そしてその一党とともに都に送った。八年(1410)正月、軍を進めて賊の残党を討ち、数千人を斬って、京観(死体の山)を築いた。このとき陳季拡はまだ捕らえていなかった。帝は沐晟を留めて陳季拡を討たせることとし、輔は軍と共に帰還させた。輔は興和で帝と謁見し、帝は宣府・万全の兵の訓練と、北征の物資輸送の監督を命じた。
このとき陳季拡は降伏を願い出ていたが、実際には悔い改める心無く、輔が帰ったのに乗じて土地を攻め取り元のようにしてしまった。沐晟はこれを抑えることができなかった。このころ交阯人は中国の圧制に苦しめられ、下級役人や兵が交阯人の生活に介入してかき乱していたので、続々と立ち上がり賊に味方し、様子を見ては服従したり叛逆したりしたので、将帥はますます消極的な戦い方をするようになっていった。九年(1411)正月、輔に、沐晟と協力して討伐するよう命じた。輔は到着すると自分の指揮に従うよう宣言した。都督の黄中はもともと驕慢で軍律を破っていた。輔がそのことで黄中を責めると不遜な態度であったので、軍律により斬った。将士は恐怖で息がせわしなくなり、以後あえて命令を聞かないような者はいなくなった。その年七月、賊帥の阮景異を月常江で破り、船百以上を獲得し、偽元帥の鄧宗稷らを生け捕りにして、さらに阮景異には属さない賊の首領数人を斬った。ここで瘴気が激しくなったので兵を休ませた。翌年八月、賊を神投海で討った。このとき賊は四百艘以上で三隊に分かれて勢いづいて攻め寄せた。輔はその中核を突いたので、中央の賊は退いた。左右の隊はそのまま進み、官軍と絡み合うようにして死を賭して戦った。卯の刻から巳の刻(午前6時~10時)まで戦って賊を大いに破り、渠帥七十五人を捕らえた。乂安府に進軍すると、賊将で降伏する者が相次いだ。
十一年(1413)冬、輔は沐晟と順州で合流し、愛子江で戦った。賊は象を前面に駆り立てた。輔は兵に、一本目の矢は象使いに当て、二本目の矢は象の鼻に当てるよう命じた。象は自陣に逃げ帰り、味方を踏みにじった。裨将の楊鴻、韓広、薛聚らがその勢いに乗じて続いて進み、矢を雨のように降らせたので、賊は大敗し、その帥五十六人を捕らえた。愛母江まで追撃すると賊軍は全て降伏した。翌年正月、政平州まで進むと、賊が暹蛮・昆蒲の諸柵に駐屯しているとの報せが入った。そこで輔は兵を率いてそちらに向かった。そこは崖に沿った小道しかなく、騎兵では進むことができなかった。輔は将校とともに山中の竹林を進んだ。夜四鼓(午前3時ごろ)に賊の巣窟にたどり着き、阮景異、鄧容らをことごとく捕らえた。陳季拡はラオスに逃亡したので、指揮の師祐に兵を指揮させて捜索させた。師祐は三関を破り、ついに陳季拡とその妻子を捕らえて都に送った。賊は平定され、将としての権限により、賊から取り上げた占領地に、升・華・思・義の四州を設置し、衛所を増設して、降伏した者を官職に就け、軍を留まらせて守らせ、自身は帰還した。十三年(1415)春に都の到着すると。交阯に戻って交阯総兵官として鎮守するよう命じられた。賊の残党の陳月湖らがまた乱を起こしたので、輔はことごとくこれらを討ち平らげた。十四年冬に都に呼び戻された。
輔はおよそ四回交阯に赴き、その間に郡邑を設置し、駅伝と運搬の地点を増設して、行政は大いに整備された。交阯人はただ輔のみを畏れた。輔が帰還して一年にして黎利は反し、数度に渡り将が遣わされて討伐したが戦果がなかった。宣徳帝の代になって、柳升が戦死し、王通が賊と結びついてあわただしく引き揚げてきた。朝廷では交阯を放棄することが協議で決まり、輔はこれに反対したが聞き入れられなかった。
洪熙帝が即位すると、輔は中軍都督府の政務を執り、太師に昇進して、両方の俸禄を支給された。まもなく輔の太師の俸禄は北京の倉から支給することとなった。このころ百官の俸禄米はみな南京で支給されていたので、このことは特別な恩典であった。永楽帝の喪の満二十七日の日、帝は素冠と麻衣で朝廷に現れた。群臣はみな礼服を着ており、輔と学士の楊士奇の服だけが帝と同じであった。帝は「輔は武臣であるのに、六卿よりも礼を知っている。」と言って嘆き、輔をますます信任するようになった。まもなく知経筵事を命じられ、『明太宗実録』を監修した。
宣徳元年(1426)、漢王の高煦が謀叛を謀り、諸功臣に内応を誘った。そして密かに夜中に輔の元へ人を遣わした。輔はこれを捕らえて帝に報告したので、謀叛の計画がすべて判明した。そこで輔は兵を率いてこれを討つことを申し出た。帝は自ら兵を率いて討伐することを決め、輔には側近くに同行するよう命じた。謀叛が平らげられてから、輔は禄三百石を加えられた。輔の威名はますます盛んになり、それ以後長らく兵権を握った。四年(1429)、都御史の顧佐が、功臣が政変に巻き込まれること無く子孫に至るまで安泰であるよう進言したので、詔により輔の府の政務を解いて、朝夕に側近くに侍らせ、軍と国政の重大事についてともに協議した。そして光禄大夫・左柱国・朝朔望に位階を進められた。正統帝が即位すると、翊連佐理の称号が加えられ、知経筵として今まで通りに『実録』を監修した。
輔は武勇に長け謹厳で、軍を統率すると整然となった。その様はそびえる山のようであった。三度交南を平定し、その威名は海の外にも聞こえた。四朝に仕えて帝室と婚姻により結びついたが、細心の注意を払って帝を敬い慎み深く、蹇義・夏元吉・三楊(楊士奇・楊栄・楊溥)とともに心を合わせて政治を補佐した。二十年以上に渡り世の中が安泰であったのは、輔の力があったからである。王振が権力をほしいままにすると、文武の大臣は王振の機嫌を窺ってひれ伏し、ただ輔のみが対等の礼を行った。也先が攻め込んでくると、王振が正統帝の親征を主導した。輔はこれに随行したが、王振は輔に軍政に関与させなかった。輔は老いていたので、黙々としてあえて何も言うことは無かった。土木に至り難に遭って死んだ。享年七十五。定興王に追封され、忠烈と諡された。
子の懋は九歳で公を嗣いだ。成化帝が西苑で騎射を閲覧したとき、懋は三発続けて的に当てたので、金帯を賜った。営府の統括を歴任し、累進して太師を加えられた。辺境防衛についての改良すべき点を進言し、京営の兵を使って圓通寺を建造させることを諌めて中止させた。弘治年間(1488~1505)、御史の李興と彭程が投獄されたので、懋は無罪を説いて両名を救った。また真武観の造営中止や、宦官で機織をさせられている者に役の免除して元の職務に戻らせることなどを願い出た。正徳帝が即位すると、帝はつまらぬ者たちと遊んでいたので、懋は文武の大臣を率いて諌めた。その言葉はみな切実で誠実なものであった。しかし懋の性格は派手好みであり、また兵士の数を大幅に減らしたのでしばしば糾弾された。公を嗣いで六十六年、兵権を握って四十年、帝からの寵遇は勲臣の筆頭であった。正徳十年(1515)に卒去した。父と同じ享年七十五であった。寧陽王を追贈され、恭靖と諡された。万暦十一年(1583)朱希忠とともに」王号を削られた。孫の侖が嗣ぎ、爵位を伝えて世沢の代になり、流賊が都を落としたときに殺害された。

『明史』巻百四十五「陳亨伝」

陳亨は寿州の人である。元末に揚州の万戸となり、濠で太祖に従って、鉄甲長となり千戸にされた。大将軍の徐達の北征に従って東昌を守った。敵数万に包囲されると、亨は固く守り、遊撃隊を出して敵を誘い破った。また降伏していない諸城を降らせるのにも従軍し、洪武二年(1369)に大同を守備し、功を重ねて燕山左衛指揮僉事となった。数度長城を越えての遠征に従い、北平都指揮使に昇進した。建文帝が即位すると、都督僉事に抜擢された。
靖難の変が起こると、亨は劉真・卜万とともに大寧を守った。のちに松亭関から出て沙河に駐留し、遵化を攻撃しようと計画したが、燕軍が来ると松亭関まで下がって守った。このとき李景隆の率いる五十万の軍がまさに北平を攻めようとしていた。北平の勢いは弱く、大寧行都司所は興州・営州の二十以上の衛を従えて、これらの衛はみな西北の精鋭であり、朶顔・泰寧・福余の三衛は元の降将が率いる蒙古の騎兵でもっとも驍勇なものであった。そして卜万は李景隆と合流しようとしていた。永楽帝はこれを懼れて、(卜万が燕と内通しているとの偽の書状で)亨を騙し、亨は卜万を牢に入れた。永楽帝はその間に劉家口から間道を抜けて速やかに大寧を攻めた。亨と劉真は松亭関から引き返して救援に向かったが、その途中で大寧が陥落したとの報せが届いた。そこで指揮の徐理、陳文らと燕に降ることを計画し、夜二鼓(10時頃)に劉真の陣を襲撃した。劉真は単騎で広寧まで逃亡し、亨は麾下の兵を率いて降伏した。永楽帝は諸軍及び三衛の騎兵をことごとく味方につけ、寧王を連れて帰った。これより多くの場面で三衛の兵が敵陣を突き攻め落とした。永楽帝が天下を取れたのは、大寧の勝利から始まったことである。
亨と徐理は燕軍に降ると、各地で南軍を破るのに従った。白溝河の戦いでは亨は瀕死の重傷を負った。その後、済南を攻め、ホウ山で平安と戦い大いに破った。傷が悪化したため、輿で北平に戻り、都督同知に昇進した。永楽帝は北平に戻ると、自ら亨を見舞い労わった。その年の十月に亨は卒去し、永楽帝は自ら祭文を作って弔った。そして即位すると、涇国公に追封し、襄敏と諡した。長子の恭が都督同知を嗣いだ。

末の子の懋は初め舎人として従軍し、功を立てて指揮僉事となった。亨の兵を指揮して功が多く、累進して右都督となった。永楽元年(1403)、寧陽伯に封ぜられ、禄は千石とされた。六年(1408)三月、征西将軍の印を帯び、寧夏に鎮守して、よく投降してきた兵を慰撫した。翌年秋、故元の丞相のサン卜及び平章・司徒・国公・知院の十人あまりが、各々の麾下を率いて相次いで来降した。その後、平章の都連らが叛いて去り、懋はこれを黒山まで追って捕らえ、その麾下の人や家畜を取り上げた。このため侯に昇進し、禄二百石を増やされた。八年(1410)北征に従い、左掖を統率した。十一年(1413)、寧夏の辺境を巡察し、まもなく山西・陜西の二都司と鞏昌・平涼の諸衛兵を率いて宣府に駐屯するよう命じられた。翌年、北征に従い、左哨を統率した。忽失温と戦い、成山侯の王通と先陣を争い、都督の朱崇らがその勢いに乗って、大勝利を収めた。翌年、また寧夏に鎮守した。二十年(1422)、北征に従い、御前精騎を率いて、屈裂河で敵を破った。さらに別働隊五千騎を率いて河に沿って東北に行き、敵の残党を捕らえて、山沢に隠れる敵を掃討した。帰還して、武安侯の鄭亨が率いる輜重が先行し、懋は隘路で伏兵となって待ち伏せた。敵は輜重隊の跡をつけてくると、伏兵が立ち上がって縦横無尽に討ち、敵の過半が死んだ。都に戻って、龍衣玉帯を賜り、懋の娘を冊立して麗妃とした。翌年、陜西・寧夏・甘粛の三鎮の兵を率いて、阿魯台討伐に従軍し先鋒となった。さらに翌年、また先鋒となり、北征に従った。
永楽帝が楡木川で崩御したとき、六軍は外にあって都の守備が弱かったので、洪熙帝は懋と陽武侯の薛禄を召して、精鋭三千騎で急ぎ戻らせ都を守らせた。太保を加えられ世襲の侯とされた。
宣徳元年(1426)、楽安討伐に従軍し、帰還して寧夏を鎮守した。三年(1428)、奏上して霊州城に移り、ここで黒と白の二匹の兎を得て献上した。宣徳帝はこれを喜び、自ら描いた馬の絵を賜った。懋は鎮所にあること久しく、その威名は漠北にとどろいていた。恩寵を恃んで勝手に振る舞い、膨大な財を民から搾り取った。しばしば弾劾されたが、帝はこれを曲げてこれを赦し、担当官にその不当に得た財の没収を命じたが、懋自身がすでに使い果たしてしまったと説明したため、詔により将来手柄を立てて償うことにして赦した。
正統帝が即位すると、張輔とともに朝廷の会議に加わり政治を行うよう命じられた。のちに平羌将軍として甘粛に出向して鎮守した。その冬、敵が鎮番に攻め込んだ。懋は兵を出して救援し、敵は囲みを解いて去った。懋は斬った敵と戦利品の数を帝に報告した。このとき参賛侍郎の柴車は、懋が軍律を破ったため敵の進攻を招いたこと、報告した捕虜の数に老人や子供が含まれていること、都指揮の馬亮らの手柄を横取りして恩賞を得ようとしたことを弾劾して、懋を斬罪にするよう進言した。詔により死を免じて禄を取り上げることにした。しばらくして禄は戻され、朝廷の行事への参加も許された。十三年(1448)、福建の賊の鄧茂七が反乱を起こした。都御史の張楷が討伐したが戦果が無く、詔により、懋に征南将軍の印を帯びさせ、総兵官に任じて、京営と江浙の兵を指揮させ討伐に向かわせた。浙江まで来ると、兵を分けて海への出口を押さえようと言う者がいた。懋は「それは賊にわれらを死に至らしめるようなものだ。」と言った。翌年、建寧を攻めた。鄧茂七はすでに死んでおり、賊の残党は尤渓と沙県に集まっていた。諸将は皆殺しにしようとしたが、懋は「それでは賊は決死の覚悟をしてしまう。」と言い、招撫するよう命じたので、賊の残党は多くが降伏し、残った者を道に分かれて追捕したので、ことごとく平定された。その後、沙県の賊は再び火の手の如く広まり、長らく収まらなかった。このころ正統帝で北で捕らえられ、景泰帝が立って、軍を率いて戻るよう詔があった。このとき言官により弾劾されたが、賊平定の功により不問に付された。太保を加えられて中府を統括し、宗人府の政務もともにみた。正統帝が復位すると禄二百石を増やされた。天順七年(1463)に卒去した。享年八十四。濬国公を追贈され、武靖と諡された。
懋はひげが整い偉大な風貌で、声は大鐘のように響いた。度量が広く、士大夫を敬い礼した。「靖難」の功臣で天順まで生きていた者は他に無く、ただ懋のみが久しく禄位を得ていた。何度も廃されては復帰し、最終的に功名を得たまま終わった。
長子の晟は罪を犯したので、弟の潤が嗣いだ。潤に卒去し、弟の瑛が嗣ぎ、禄を半減されて侯を嗣いだ。十六年経って晟の子の輔がすでに成長したため、輔に爵位を嗣がせるよう命じられ、瑛は代わりに勲衛となった。輔はのちに事件を起こして侯を失い、卒去して子がいなかった。このため瑛の孫の継祖に侯を継がせ、爵位を伝えて明が亡ぶまで続いた。

土木の変も過ぎた頃になると、靖難の変で自ら命がけで戦った経験の有る重臣が消え去り、工部尚書の李友直や、兵部尚書の徐晞、蘇州知府の況鍾のような吏員出身者も高官になることが無くなり、廟堂は、現場を経験せずに勉強に集中してきた科挙合格者で固められるようになり、明朝の気風もこのあたりから変わって行ったように思われます。

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