ナントカ堂 2014/09/21 01:47

明代の名門(9)

武将として優れているだけでなく、内政も任されたのが顧成や陳セン(玉偏に宣)の一族です。

『明史』巻百四十四「顧成伝」

顧成、字は景韶、その先祖は湘潭の人である。祖父は操舟を生業とし、長江・淮河間を往来して江都に居を定めた。成は小さな頃から立派な体格で、並外れて膂力もあり、馬上で槍を操るのを得意とし、いれずみをして周囲と異なっていた。太祖が長江を渡ると来帰し、武勇をもって帳前の親兵に選ばれ、太祖が外出するときには日傘を捧げ持った。太祖に付き従っていたとき、太祖の舟が浅瀬に乗り上げたので、成が舟を担ぎ上げて進んだ。鎮江攻略に従ったとき、勇士十人とともに転戦し鎮江城に入ったところを捕らえられた。十人は皆殺されたが、成は暴れまわって縄を千切り、刀を持っていた者を殺してその場を抜けて帰ってきた。そして味方の先導となって城を攻め、勝利して百戸を授けられた。大小数十戦、皆功あり、堅城衛指揮僉事に昇進した。蜀討伐に従い、羅江を攻め、元帥以下二十人あまりを捕らえ、進軍して漢州を降した。蜀が平定されると成都後衛に改められた。洪武六年(1373)、重慶の妖賊の王元保を捕らえ、八年に貴州の守備となった。このころ群蛮は叛服常無く、成は毎年出兵してことごとく平定した。その後、潁川侯の傅友徳が雲南に遠征するのに従い先鋒となり、普定を攻め落としたとき一番の手柄を上げた。成はそこに留められ柵を立てて守備した。そこへ蛮が数万で来攻し、成は柵から出て、自ら数十から百人ほど殺し、賊を敗走させた。賊の残党はまだ城の南に残っていた。成は捕虜を斬るときそのうちの一人だけを「私は夜二鼓(10時頃)にそちらに行きお前たちを殺す。」と言って解き放った。夜二鼓になって、角笛を吹き炮を打ち鳴らすと、賊はこれを聞いてみな走り去り、兵器やよろいなど数え切れないほど獲得した。こうして成は指揮使に昇進した。諸蛮で普定の管轄区域にいた者はことごとく平定された。十七年(1384)、阿黒、螺??などの十以上の寨を平定した。翌年、成の奏上により、普定府は廃止され、その管轄区域は三州、六長官司に分割されて、成は貴州都指揮同知に昇進した。太祖は成に、賄賂を受けたり天子が使うべき玉器を勝手に使っているようだが、長年の功労により不問とすると諭した。二十九年(1396)右軍都督僉事に昇進し、征南将軍の印を帯びた。何福が水西蛮を討伐したので、成は水西の酋長の居宗必登を斬った。翌年、西堡、滄浪の諸寨の蛮が乱を起こしたので、成は指揮の陸秉とその子の陸統に命じて二道に分かれて討伐させ平定した。成は貴州にいることおよそ十年以上、討ち平らげた諸苗の洞寨は百数箇所、全てにおいてその首魁を誅殺し、その麾下を慰撫した。その恩恵と信頼は大いに広がっていったので、蛮人はこれに懐き服従した。その年の二月、都に召還された。
建文元年(1399)、左軍都督となり、耿炳文が燕軍を防ぐのに従い、真定で戦って捕らえられた。燕王はその縛めを解くと「これは天がなんじをわれに授けたもうたのだ。」と言って北平に送り、世子を補佐させて留守を守らせた。南軍が城を包囲すると、防衛及び兵の配備は全て成が決定した。燕王が即位すると、論功により、鎮遠侯に封ぜられ、食禄は千五百石、世券を与えられた。そして貴州を鎮守するよう命じられた。
永楽元年、成は上書して、西北の国境警備を厳重にすることと、早めに皇太子を決めることを乞うた。帝はこのことを褒めて返信した。六年(1408)三月、都に呼び出され、金帛を賜り貴州に戻った。思州宣慰使の田チンが思南宣慰使の田宗鼎とともに挙兵した。詔により、成は兵五万でこれを鎮圧し、田チンらを捕らえた。ここにおいて思州・思南は分割されて州県が設置され、貴州布政司が設けられた。その年の八月、台羅苗の普亮らが乱を起こした。詔により、成は二都司三衛の兵を率いて討ち平らげた。
成はひととなり忠謹で、書や史を渉猟した。北平に到着すると、多くの作戦を立てたが、兵を指揮することはついには引き受けること無く、兵器を渡されても受け取らなかった。再び貴州を鎮守し、しばしば播州・都インの叛逆した諸蛮を平定し、その威により南中を鎮めたので、地元民は生祠を建てて成を祀った。都に呼び出されると、太子を補佐して国政を監督するよう命じられた。成はひれ伏してこう言った。「太子は仁愛と聡明さを兼ね備え、廷臣はみな賢者です。太子を助け導くことは愚かなる臣の及ぶところではありません。任地に戻り蛮に備えることをお許しください。」このころ跡継ぎの地位を巡って群小の謀があり、太子は不安に思っていた。成は文華殿に行き、太子に挨拶した機会にこう言った。「殿下はただひたすらに陛下を敬い、民に心を配られますように。全ては天が決めることで、小人が何をしようと気にするほどのことではありません。」十二年(1414)五月に卒去した。享年八十五。夏国公を追贈され、武毅と諡された。
成には八子がいた。長子の統は普定衛指揮となり、成が燕に降ったため誅殺された。
統の子の興祖が侯を嗣いだ。洪熙帝が即位すると、広西の蛮が叛いた。詔により、興祖が総兵官となって討伐することとなった。潯州・平楽・思恩・宜山の諸苗を立て続けに討伐し、降附する者がはなはだ多かった。宣徳年間(1426~1435)、交阯の黎利がまた叛き、隘留関を攻め落として丘温を包囲した。このとき興祖は南寧にいて、兵を擁しながら救援に向かわなかった。このため呼び出されて錦衣衛の獄に入れられた。翌年になって釈放された。正統の末(1449)、北征に従い、土木の変に遭って、脱出して帰ってきて、死刑を検討された。也先が都城まで逼ると、地位を戻されて、副総兵に任命され、城外で敵を防いだ。都督同知を授けられ、紫荊関を守備した。景泰三年(1452)、賄賂を受けたことが罪に問われてまた投獄されたが、まもなく釈放された。皇太子擁立の恩賞として伯爵を与えられ、天順の初め(1457)に侯に戻されて、南京の守備となった。卒去して孫の淳が嗣いだ。孫は卒去して、子がいなかった。

従弟の溥が嗣いで、五軍右掖を統括した。弘治二年(1489)、平蛮将軍を拝命して湖広に鎮守した。着任すると、苗人の中の悪党の首魁を捕らえて斬った。五年(1492)十月、貴州の都イン苗のメ富架が乱を起こして、自らを都順王と称し、テンと蜀の道を封鎖した。詔により、溥が総兵官となり、兵八万を率いて討伐することとなった。五路に分かれ日時を決めて同時に進軍し、メ富架父子を誅殺して、一万ほどの首を斬った。太子太保を加えられ、禄を二百石増やされた。都に呼び出されて団営の提督となり、前軍都督府の政務を執った。十六年(1503)に卒去し、襄恪と諡された。溥は清廉で法を遵守した。卒去した日、いつも持っていた袋の他は何も財産を持っていなかったので、英国公の張懋が金を出して棺を買った。
子の仕隆が爵位を嗣いで、管神機営左哨となった。仕隆はそこで兵士の心を掴んだ。正徳の初め(1506)、漕運総兵として出向し、たびたび兵士の給与を増やすよう願い出た。淮安を鎮守すること十年以上、清廉潔白で評判となった。正徳帝が南巡すると、江彬の横暴がはなはだしく、役人たちは辱められたが、ただ仕隆だけは江彬に屈しなかった。嘉靖の初め(1522)、湖広に移鎮となり、まもなく都に呼び戻され、南巡のときの帝の警護の功績により、太子太傅を加えられ、中軍都督府の政務を司った。錦衣千戸の王邦奇なる者が、大学士の楊廷和と兵部尚書のを怨んで、「哈密での失策はこの両人が原因です。」と上疏した。帝は怒り、楊廷和の子供たちや婿を逮捕させた。このとき給事中の楊言が上疏してこれを救ったが、勅命に逆らったとして五府九卿で審議された。仕隆はこう言った。「廷和は国の根本を守った功績があります。邦奇は小人にして、辺境のことにかこつけて陛下を惑わし、国体を傷つけました。」詔により仕隆は叱責され、病を理由に営務を解かれた。卒去して、太傅を追贈され、栄靖と諡された。
子の寰が嗣ぎ南京の守備となった。詔を奉じて裁判を行い、冤罪が晴らされることが多かった。十七年(1538)漕運総兵官となり、翌年、献皇后を埋葬するための葬列が承天に向かい、この葬列を避けるために漕舟の期限に遅れた者が三千人いた。その上、長江の南北で災害が多かったため、寰は、被災地の漕運を一年間停止し、都の官人には禄米の代わりに銀を支給することを願い出たので、軍民ともに助かった。さらに漕政における問題を七箇条上書して、あわせて施行された。漕運にたかる害虫どもは寰を邪魔に思い、ついには悪い噂を広めたので、給事中の王交に弾劾された。調査したところ無実であることが分かり、再び淮安に鎮守することとなった。このときちょうど安南で騒乱が起こり、両広に移鎮となった。
莫宏ヨクは安南都統使の莫福海の子である。福海が死んだとき、莫宏ヨクは幼は幼かったので、その権臣の阮敬と一族の莫正中が交戦して、国内は乱れ、莫正中は欽州に逃げてきた。このとき隙に乗じて安南を取ろうという話が持ち上がり、寰と提督侍郎の周延が作戦を立てて朝廷に願い出た。そこで宏?に都統使を継ぐよう命じ、安南は遂に平定された。嘉靖三十年(1551)のことである。続いて桂林・平楽の叛いた瑤人を討ち平らげた。寰はまた淮を鎮守するよう命じられ、倭寇を防ぐのに功があった。都に戻って総京営となり、太子太保を加えられた。再び漕運の提督として出向し、呼び戻されると、高齢を理由に辞任を願い出た。隆慶五年(1571)、特に京営総督を授けられたが、まもなく休職を願い出た。万暦帝が即位すると、左府の統括を命じられた。しばらくして致仕し、少保を加えられた。万暦九年(1581)に卒去し、太傅を追贈され、栄僖と諡された。
溥から寰に至るまでの三代は、みな寛大で清廉、慎み深く文芸に明るかった。仕隆と寰の二代は漕運の総督としてともに職務に励んだ。三代経って孫の肇跡の代になって、都が陥落し、賊に殺された。

『明史』巻百五十三「陳セン伝」

陳セン、字は彦純、合肥の人である。父の聞は義兵千戸として太祖に帰順し、累進して都指揮同知となった。センは父の職を代行し、父が罪を問われて遼陽の守備兵に左遷されると、センは宮殿まで出向いてひれ伏し父の代わりとなることを願い出た。このため詔により父子ともども許した。センは若い頃から大将軍の徐達に従って陣中におり、雁を射て賞賛された。しばしば南蛮遠征に従軍し、さらに越ケイ遠征にも従って、建昌の叛逆した蛮の月魯帖木児を討ち、梁山を越えて天星寨を平定し、寧番の諸蛮を破った。また塩井を征し、卜水瓦寨に進攻した。このとき賊の勢いは盛んであり、センは中軍の将であったが、賊に数重に包囲された。センは馬を下りて賊を射た。足を負傷し、傷を布で巻いて戦い、巳の刻から酉の刻(10時~18時)まで持ちこたえ、陣形を保ちつつ帰還した。さらに賈哈剌討伐に従軍し、敵の隙を突いて打沖河を渡り、間道を見つけ、浮橋を作って軍を渡した。渡り終えると浮き橋を撤去し、兵士にもはや引き返せ無いことを示し、連戦して賊を破った。さらに雲南の兵と合流して百夷を征伐して功があり、四川行都司都指揮同知に昇進した。
建文の末(1402)、右軍都督僉事に昇進し、燕軍が逼ると、水軍の総指揮を命じられて長江上で防衛した。燕軍が浦口まで来ると、センは水軍ごとで迎えて降伏した。こうして永楽帝は長江を渡った。帝が即位すると、平江伯に封ぜられ、食禄は千石とされて、誥券を賜り、世襲の指揮使とされた。
永楽元年(1403)、センは総兵官に任命されて、海運の総督となった。粟四十九万石以上を北京と遼東に輸送し、直沽に百万倉を建設し、天津衛を築いた。これ以前は、漕船が海上を進むと、島民は漕運の兵を恐れて多くの者が物資を隠していたが、センは島民に交易を呼びかけ公平に取引を行ったので、人々の交易が便利になった。漕船が帰還する途中、沙門島で倭寇に遭遇したので、金州の白山島まで追いかけてその船をことごとく焼き尽くした。
九年(1411)、センは豊城侯の李彬とともに浙・ビンの兵を統率して海賊を捕らえるよう命じられた。このとき高波のため、海門から塩城までのおよそ百三十里の防波堤が破損していたため、センに命じて四十万の兵で堤防を修築させた。このため防波堤は一万八千丈以上になった。翌年、センはこう進言した。「嘉定は海が迫った地であり、長江の流れがぶつかる場所です。海船はここに停泊しますが、拠るべき高い山も広い丘もありません。青浦に百丈四方、高さ三十丈以上の土山を築き、航海の目印とするよう願います。」完成すると、宝山の名を賜り、帝自らその文を書き記した。
宋礼が会通河を開削すると、朝廷では海上輸送を停止して運河で輸送することが決定された。そこでセンに漕運の管理が任された。朝議により運河用の小船二千艘あまりが建造され、初めは二百万石を輸送し、漸次五百万石に増やされて、国家の需要を満たした。このころ江南の漕船は、淮安まで来ると陸に荷物を陸揚げして大きな土手を上がり、淮を越えて清河で下ろしていたため、この労賃が巨額に上っていた。十三年(1415)、センは故老の言を採用して、淮安城から西の管家湖まで二十里を開削して清江浦とし、湖水を淮まで導き、間に四箇所水門を作って合図と共に開けて水を流した。さらに湖の周囲十里に、陸から縄で船を引っ張るための堤を築いた。これにより漕船は直接黄河まで達するようになり、費用が省かれ問題が無くなった。その後、センは徐州から済寧河までを浚った。さらに呂梁洪で水の流れが悪かったので、西にもう一つ水路を掘り、二箇所水門を作って水を溜め、船が通れるようにした。さらに沛県のハ陽湖、済寧の南旺湖に長い堤を築き、泰州の白塔河を大江に流れるようにした。また高郵湖に堤を築き、堤の内部に四十里の水路を掘って、漕船が風や波を避けられるようにした。また淮から臨清まで、水の勢いに合わせて四十七の水門を作り、淮河沿いに四十区画の常備用の倉庫を作り、徐州・臨清・通州にまで倉庫が設置されて、輸送に便利となった。漕船が浅瀬に乗り上げないよう、淮から通州まで五百六十八の宿舎を置いて兵を常駐させ、船を導いて浅瀬を避けるようにした。また河の堤に沿って井戸を掘り木を植えて、行きかう人の利便を図った。センが計画したことは全て緻密で将来を見通したものであり、運送と河の管理を担当して三十年、遣り残したことがなかった。
洪熙帝が即位した九月、センは上疏して七事を述べた。一つ目は、南京は国家の根本であるので守備を厳格にすることを願うということ。二つ目は、登用するに当たっては地位にこだわらず実力に拠るべきで、朝臣より公正な者を選んで国内を巡察させるべきこと。三つ目は、国家の食糧輸送において、湖広・江西・浙江や蘇・松の諸府はともに北京から遠く、往復すれば翌年になってしまい、上においては公租がなかなか届かず、下においては農事の妨げになるので、淮・徐などの地点から先は官の兵に命じて都まで輸送するように命じ、また快船や馬船の積載量は五、六十石以下とし、軍用船のみを使う。担当官で軍と民の受け渡しをごまかし、民を集めて使い、飢え凍えるような事態に至らしめたものは罷免としていただきたいということ。四つ目は、教職の多くにふさわしくない者がいるので、選考して不適格な者を斥け、優秀な者を選んで生員に補充し、また軍中の子弟にも学校に入るよう命じていただきたいということ。五つ目は、軍隊内で逃亡者がいるので、老齢や病気の者は子弟がこれに代わり、逃亡者は捜査して捕らえ、家が断絶したものは調査して除籍すること。六つ目は開平などは辺境防衛の要地で、兵糧が不足しがちであるので、精鋭だけを選び出して守備の任務に就かせること。七つ目は、漕運を担当する兵は、毎年北上して、帰ってくるとすぐに船を修理しなければならず、一年中苦労が絶えないので、当該の衛所では余裕を持たせ、それ以上の雑役を課して苦しめないようにすることを、帝の直々の命として禁止していただきたいということ。帝はこの奏上をご覧になって「センのいうことは全て的を射たものである。」と言い、担当官に速やかに実行するよう命じた。そして敕が下されて褒め称えられ、続いて券を賜り、世襲の平江伯とされた。
宣徳帝が即位すると、淮安の守備を命じられ、漕運の監督は元のままとされた。宣徳四年(1429)にセンはこう言上した。「済寧以北、長溝から棗林までの水路が詰まっております。十二万人で底を浚えば、半月で処理ができます。」帝はセンに長年苦労かけたことを思い、尚書の黄福を派遣して共同で処理させた。六年(1431)、センはこう進言した。「毎年の食糧輸送に軍から十二万人出ておりますがこれが連年の労苦となっております。そこで蘇・松の諸郡と江西・浙江・湖広から別に民を選び出し、また各地の衛所から兵を選び出して、合わせて二十四万人で分担して区域ごとに順次受け渡して輸送するさせるよう願います。また江南の民は臨清・淮安・徐州まで食糧を輸送すると往復で一年かかり、農業ができなくなります。一方で、湖広・江西・浙江および蘇・松・安慶の兵士は、毎年空船で淮安まで行って食糧を積みます。もし江南の民に食糧を集めさせて付近の衛所に納めさせ、軍でこれを船に積んで都まで輸送させ、輸送時の損耗のために民が割り増しで納めていた米と運搬の費用を兵に与えれば、兵にも民にも利益となるでしょう。」帝は黄福と侍郎の王佐に協議させてこれを行わせた。民が輸送していたものを、兵が労賃を受けて運ぶ方式はここから始まったのである。センは八年(1433)十月に在任中に卒去した。享年六十九。平江侯に追封され、太保を追贈されて、恭襄と諡された。
生前のこと、センが黄河を工事したこと感謝して、民が清河県に祠を建てた。正統年間(1436~1449)、担当官に命じて春秋に祭祀を行わせた。
孫の予は字を立卿といい、書を読み身を慎む人物であった。正統の末(1449)、福建の沙県で賊が蜂起し、予は副総兵として、寧陽侯の陳懋に従って二手に分かれて討伐して平らげ、侯に進封された。也先が進攻すると、臨清に出て守備し、出城を作って、兵を訓練し民を安心させたので混乱は起こらなかった。翌年、都に呼び戻されると、父老が宮殿まで来て留任を願ったので、これを聞き届けた。景泰五年(1454)、山東で飢饉が起こると、詔を奉じて救済した。まもなく南京の守備となり、天順元年(1457)に都に呼び戻されて、毎年の禄を百石増やされた。七年(1463)に卒去。イ国公を追贈され、荘敏と諡された。
子の鋭が伯を嗣いだ。成化の初め(1465)、三千営と団営を分担して管理した。まもなく平蛮将軍の印を帯びて、両広の総指揮官となった。淮陽に移鎮して、漕運の総督となり、淮河の河口に石造りの水門を、済寧に淮河を南北に分ける二つに水門を造った。堤防を築き泉を掘り、直すべきを直し廃すべきを廃した。総漕の任にあること十四年、その間に数十回上奏を行った。日本の貢使が民の男女数人を買って連れ帰ろうとして淮安を通った。鋭はこれを留めて貢使に渡さず、金を払って買い戻し家に帰した。淮・揚で飢饉と疫病が発生したとき、かゆを炊いて薬を施したので、多くの者が生き残ることができた。弘治六年(1493)、張秋で黄河が決壊したので、敕を奉じて堤防を修復し、都に戻って、禄二百石を増やされ、累進して太傅兼太子太傅を加えられた。十三年(1500)、火篩が大同に攻め込んだ。鋭は総兵官として将軍の印を帯びて救援に向かった。撃退した後に兵を擁してその地に勢力を張っていたため、給事中や御史の弾劾を受けて、禄を取り上げられて隠居した。その年のうちに卒去した。
子の熊が嗣いだ。正徳三年(1508)、漕運の総督として出向した。劉瑾が賄賂を求めたとき、熊はこれに応じなかった。劉瑾はこれを根に持ち、熊を罪に陥れて詔により投獄し、海南衛の守備兵として流し、誥券を没収した。熊は金に汚かったので、淮南にあって大いに民の災いとなり、劉瑾に陥れられたのに、同情する人はいなかった。劉瑾が誅殺されると、赦免されて都に戻り爵位を戻された。卒去して、子がいなかった。
再従子の圭が嗣いだ。推薦されて両広を鎮守した。封川の賊が蜂起すると、圭は諸将を率いて討伐し、首領を捕らえて、数千人を捕らえたり斬ったりしたので、太子太保を加えられた。また柳慶と賀連山の賊を平らげたので、太保を加えられ、一子に蔭位が与えられることとなった。安南の范子儀らが欽・廉に攻め込み、黎岐の賊が瓊厓に攻め込んで、互いに連携して攻め寄せた。圭は書状を安南に送って利害を説き、范子儀を捕縛させ、速やかに兵を出して黎岐を攻め、敗走させた。論功によりさらに一子に蔭位が与えられることとなり、毎年の禄を四十石増やされた。圭はよく士卒と苦楽をともにし、賊の所在がわかると、速やかによろいを身につけ先頭に立って城壁を登った。深い森も急な崖も、瘴気に当てられてもものともしなかったため向かうところ敵なしであった。エツにあること十年、群小の賊を殲滅して数え切れないほどの勝利を収めた。都に呼び戻されると後軍府を統括した。圭の妻の仇氏は、咸寧侯の仇鸞の妹であったが、圭は仇鸞を深く憎んでいた。このため仇鸞は嘉靖帝に圭の欠点を訴えたので、あやうく罪に落とされるところであった。仇鸞が失脚して帝はますます圭を重用し、京営の兵の統括を命じた。紫荊関に蒙古軍が攻め込むと、圭は出撃を申し出て盧溝に陣を張り、賊を撃退して盧溝に留まった。翌年、賊がまた古北口に入った。会議である者が、九つの門に陣を置いて備えるべきだと言ったが、圭はいたずらにこちらを弱く見せるため無意味だとして、また出撃して賊を退けた。都の外城建築の監督となり、太子太傅を加えられた。卒去して、太傅を追贈され、武襄と諡された。
子の王謨が嗣いだ。僉書後軍となり、両広に出向して鎮守した。賊の張璉が乱を起こして、数郡を奪い皆殺しにした。王謨は提督の張?討とともに平定し、三万以上を捕らえ斬ったので、論功により太子太保を加えられ、もう一子に蔭位が与えられることとなった。万暦年間(1573~1620)淮安に出向して鎮守し、漕運を統括し、のちに都に戻って前軍府の政務を執った。卒去して、少保を追贈され、武靖と諡された。明末まで爵位を伝えて、明が亡ぶと爵位は絶えた。

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