ナントカ堂 2014/09/21 01:24

明代の名門(8)

靖難の変の功臣については『壬午功臣爵賞録』に恩賞を受けた人物が列挙されているのですが・・・、これって筆頭が李景隆になってるんですよ(笑)建文帝のもとで兵部尚書やってた茹常とかも懐柔するために恩賞を与えたので入っていて、ちょっとどうなのかなこれは。

それはさておき、ここで靖難の変の功臣で後世まで爵位を伝えた家を見てみましょう。

『明史』巻百四十五から、靖難の功第二の朱能の家系を、朱能自身はwikiに記されているので子の朱勇の代から訳します。

子の勇が嗣いだ。元勲の子として特に目をかけられて、都督府の統括や南京の留守を歴任し、永楽二十二年(1424)に北征に従軍した。宣徳帝が即位すると、朱高煦の乱を鎮め、兀良哈討伐に従った。張輔が兵権を解かれると、詔により勇がこれに代わった。勇は南北の諸衛は軍事・辺境防衛・輸送が錯綜して処理しきれないので、南軍は輸送、北軍は辺境防衛に専念することを願い出た。さらに「都の軍は遠方で守備につくことが多く、十分に役目が果たせないので、精兵十万を選んで増員していただきたい。」と言い、さらに公・侯・伯・都督の子弟を教練することを願い出て、全て聞き入れられた。正統九年(1444)、喜峰口を出て、朶顔の諸部を討ち、富峪川に着いたところで帰還した。その先に進まなかったことを兵部尚書の徐晞に弾劾されたが、詔により不問とされ、続いて論功により、太保を加えられた。
勇は顔が赤くひげは巻き毛で、容貌魁偉であった。勇気と知略に足らないところがあり、士大夫を敬い礼遇していた。十四年(1449)帝に随行して土木に行き、戦鷂児嶺で敵を迎え撃ったが、自身が伏兵にかかって死んだため、麾下の兵五万騎が全て壊滅した。于謙らが勇の罪を遡って論議し封を取り上げた。景泰元年(1450)、勇の子の儀が葬祭を行うことを願い出たが、帝は、勇が大将として軍を壊滅させ、このため国は辱められ、先帝は敵の手に落ちたことをもって許可しなかった。その後、爵位継承を願い出ると、礼部尚書の胡エンがこれを後押しし、皇太子が立てられたことによる恩典として嗣ぐことを許され、毎年の禄は千石に減らされた。天順の初め(1457)、勇は平陰王に追封され、武愍と諡された。儀とその子の輔はともに南京の守備となった。
さらに三代伝わって希忠となった。希忠は嘉靖帝が承天に行幸するのに付き従い、行在所の左府の政務を司った。衛輝に着いたとき、夜中に行宮で火事になり、希忠は都督の陸炳とともに帝の左右に付き従って建物から出た。これより帝の寵遇を被り、直接西苑に出入りするようになった。後府・右府を統括し、神機営を従え、十二団営及び五軍営の提督となり、累進して太師を加えられ、毎年の禄を七百石増やされた。帝に代わって郊天の儀を行うこと三十九回、数え切れないほどの褒美を賜った。卒去して定襄王に追封され、恭靖と諡された。万暦十一年(1583)、給事中の余懋学の提言により、さかのぼって王爵を剥奪された。弟の希孝もまた都督となり太保を加えられ、卒去して太傅を追贈され、忠僖と諡された。
希忠の跡は五代伝わって曾孫の純臣の代となった。純臣は崇禎帝の時代に信任され、李自成が都まで迫ると、帝は純臣を内外の諸軍の総大将と太子の補佐役に任命したが、その敕が純臣に渡されないうちに、城が陥落して、純臣は賊に殺された。

この他に靖難の功臣で爵位を賜り、世襲の爵位とは別に明末まで代々将軍や総督などの上級の武官を歴任した者は陳珪・鄭亨・徐忠・張信・郭亮・徐祥・李濬・張玉・譚淵・孫巖・趙彝・李彬・張興・陳志などの一族です。
このうち趙彝の一族が記述が手短で面白いので挙げます。

『明史』巻百二十六三十四「趙彝伝」

趙彝は虹の人である。洪武帝の時に燕山右衛百戸となり、傅友徳の北征に従って、宣府・万全・懐来を守備し、永平衛指揮僉事に抜擢された。靖難の変で燕軍に降ると、各地で戦ってみな功があり、累進して都指揮使となった。永楽帝が帝となると、忻城伯に封ぜられ、禄を千石とされた。永楽八年(1410)、宣府を鎮守した。北征に従軍し。兵糧を盗んだとして投獄されたが、のちに釈放された。まもなく呂梁洪の流れが急となって通れなくなったので、彝に徐州を鎮守させて処理を行わせた。彝は再び勝手に運搬夫を殺して官の食糧を盗んだので、都御史の李慶に弾劾された。帝は法務官に命じて審理させたが、まもなく釈放された。洪熙帝が即位すると都に呼び戻され、宣徳の初め(1426)に卒去した。子の栄が嗣ぎ、数代伝えて之龍の代になった。崇禎の末(1644)、共同して南京を守備し、大清の兵が江南まで下ると、之龍は出迎えて降伏した。

これだけだと面白くはないのですが、この最後の趙之龍が『清史稿』巻二百四十八に伝が立てられているのです。

趙之龍は江南の虹県の人である。崇禎帝の時代に忻城伯として南京を鎮守した。福王が立つと皆で推戴して、政治に関与した。予親王の軍が南京に着くと、魏国公の徐允爵、保国公の張国弼、隆平侯の張拱日、臨淮侯の李祖述、懐寧侯の孫維城、霊壁侯の湯国祚、安遠侯の柳祚昌、永昌侯の徐宏爵、定遠侯の鄧文囿、項城伯の常応俊、大興伯の鄒存義、寧晋伯の劉允極、南和伯の方一元、東寧伯の焦夢熊、安城伯の張国才、洛中伯の黄九鼎、成安伯の郭祚永、フ馬の斉賛元、大学士の王鐸、尚書の銭謙益、侍郎の朱之臣・梁雲構・李綽らとともに出迎えて降った。趙之龍に世職の三等阿思哈尼哈番を授け、徐允爵らは全員そのまま放置し登用しなかった。

おそらくは居並ぶ名門のお歴々は地位を保証してもらえると思ったのでしょうが、命も財産も取られなかっただけましなのではないでしょうか。一応は三等の阿思哈尼哈番=男爵という貴族の端くれとなった趙之龍も複雑な心境だったと思います。

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