ナントカ堂 2014/09/20 19:09

明代の名門(7)

太祖には二人の甥がいました。姉の子の李文忠と兄の子の朱文正です。
太祖は早くに一家離散を経験し家族愛に飢えていたので、旗揚げしてこの二人の甥が駆けつけたことをうれしく思ったことでしょう。
またこの二人もその期待に十分こたえるほどの才能の持ち主でした。

李文忠についてはwikiにもあり良く知られているので省きますが、その子の李景隆については微妙に違っているので、『明史』巻百二十六から、李景隆以降を訳してみます。

文忠には三子がいた。長子は景隆、次子は増枝、第三子は芳英といい、みな帝から名を賜ったものである。増枝は初め父の功績により官職が与えられ、のちに前軍左都督に抜擢された。芳英は中都正留守となった。

景隆、小字は九江である。書を読んで典故に通じた。長身で眉目秀麗、眼光鋭く立派な体格であった。朝礼があるごとにその挙措は完璧で、太祖はしばしばこれに目をかけた。十九年(1386)に爵位を継ぎ、しばしば湖広・陝西・河南に出向して訓練し、西番から馬を購入した。昇進して左軍都督府の政務を掌り、太子太傅を加えられた。
建文帝が即位すると、景隆は腹心として親任され、命じられて周王を捕らえた。燕の兵が挙兵し、長興侯の耿炳文が燕討伐に失敗すると、斉泰・黄子澄らは共に景隆を推薦した。そこで景隆が耿炳文に代わって大将軍となり、将兵五十万を率いてすることとなった。景隆は通天犀帯を賜り、帝自らが推輪(訳注:臣下に対する最高の礼として車を押すこと)して、長江のほとりまで見送り、出陣先での一切の権限を委ねられた。景隆は貴公子で兵の用い方を知らず、ただ自らを尊大に振舞って、宿将は意見を聞き入れられないことが多く不快に思った。景隆は徳州まで急行すると、兵を合流させ、そこから進んで河間に陣を張った。燕王はこれを聞いて喜び諸将に「李九江はただの着飾った少年だ。組しやすい。」と語った。そして世子に命じて北平を守備させ、城を出て攻撃することの無いよう戒めてから、自らは兵を率いて永平を助け、大寧に急行した。景隆はこれを聞くと、進軍して北平を包囲した。都督の瞿能が張掖門を攻め、突破できそうになったとき、景隆は瞿能が軍功を立てることを嫌って攻撃を止めさせた。燕軍は大寧を攻め落とすと、引き返して景隆を攻撃した。景隆は何度も大敗して徳州に逃亡し、諸軍はみな壊滅した。翌年正月、燕王が大同を攻めると、景隆は軍を率いて紫荊関を出て救援に向かったが、成果が無いまま帰還した。帝は景隆の権威がまだ軽いために諸将を纏めきれないものと思い、宦官を遣わして璽書をもたらし皇帝の象徴の黄色の鉞・弓・矢を賜り、討伐に励ませた。この使者が長江を渡ったときちょうど風雨があって船が壊れ、賜り物が全て失われたので、帝は改めてこれらを賜った。四月、景隆は徳州で兵を集めて必勝を誓い、真定で武定侯の郭英、安陸侯の呉傑らと合流して、合計六十万の軍で進軍して白溝河に陣取った。そして燕軍と連戦して、再び大敗し、璽書や斧鉞をことごとく放り出して、徳州に逃げ、さらに済南に逃げた。この戦いで官軍は死者数十万人を出し、南軍はついに燕軍を支えきれなくなった。ここでようやく帝は詔を出して景隆を召還した。黄子澄は景隆を推薦したことを後悔し憤り、景隆が朝廷に列席したところを捕らえると、景隆を誅殺し天下に謝ることを願い出た。燕軍が長江を渡ると、帝はどうしてよいかわからなくなった。このとき方孝孺は再び景隆を誅殺することを願い出た。帝はどちらのときも景隆を不問とした。そして帝は景隆と尚書の茹ジョウ・都督の王佐を燕軍の元に行かせて土地を割譲して講和することを求めた。燕軍が金川門に陣を張ると、景隆は谷王とともに開門して出迎え降伏した。
燕王が皇帝に即位すると、景隆に奉天輔運推誠宣力武臣・特進・光禄大夫・左柱国を授け、毎年の禄を千石増やした。朝廷に大事があると、景隆はなおも首班として朝議を仕切ったので、諸功臣はみな不平に思った。永楽二年(1404)、周王が、建文帝の時代に景隆が自宅で賄賂を受け取ったことを告発し、刑部尚書の鄭賜らもまた景隆がふたごころを抱いて、建文帝の旧臣を迎えて養い、謀叛をたくらんでいると弾劾した。このときはそれを追求しないようにとの詔が出された。この件が収まってから、成国公の朱能、吏部尚書の蹇義と文武の群臣が、景隆とのその弟の増枝が謀叛を企んでいると弾劾した。六科給事中の張信らもまた同様の弾劾を行った。そこで詔により勲号を取り上げ、朝廷への出仕を差し止め、曹国公の身分で自宅に謹慎させて、長公主の祭祀を奉じさせた。亡くなってから、礼部尚書の李至剛らが再びこう進言した。「景隆は家にいる間、自らは座ったまま朝廷よりの監視人からひれ伏して謁見する礼を受けており、それは君臣の礼のごときもので大いに道に外れた行いです。増枝は多くの荘園を設立して、従僕を雇いその数はおよそ千百人ほどで、何を考えているのか分かりません。」ここにおいて景隆の爵位を剥奪して、増枝と妻子数十人を自宅に幽閉し、その財産を没収した。景隆はかつて十日間絶食したが死なず、永楽末(1424)に卒去した。
正統十三年(1448)に詔が下り、ここにようやく増枝らは自宅の門を開いて自由に出入りできるようになった。弘治の初め(1488)、文忠の子孫を調べ、景隆の曾孫のセンを南京錦衣衛世指揮使とした。センが卒去して子の濂が嗣ぎ、濂が卒去して子の性が嗣いだ。嘉靖十一年(1532)詔により性を臨淮侯に封じ、禄を千石とした。翌年に卒去し、子が無かったので、濂の弟の沂に封を嗣がせた。沂が卒去すると子の庭竹が嗣いだ。たびたび軍府の長官となり、長江の提督となって、平蛮将軍の印を帯びて、湖広に鎮した。庭竹が卒去すると子の言恭が嗣いで、南京の守備となった。指揮官として都の営所に入り、累進して少保を加えられた。言恭、字は惟寅。学問を好み詩を得意とし、その作風は簡素であった。子の宗城は若い頃から文才によりを名が知られていた。万暦年間に倭が朝鮮を攻めたとき、兵部尚書の石星は朝貢国について取り仕切っていたが、才により宗城を推薦した。宗城は都督僉事を授けられ、正使に任命され、決定権を委ねられて日本に向かった。指揮の楊方亨が副使となった。宗城は朝鮮の釜山まで来ると、倭の兵がどんどん増えて行き、道路も混乱状態で、その上、使者の両名に危害を加えるとの話しも聞かれた。宗城はこれを恐れて、服を変えて逃げ帰った。楊方亨は海を渡って倭に辱められた。宗城は投獄され辺境に兵として送られそうになったが、その子の邦鎮が侯を嗣ぐことになった。明が亡んで爵位断絶となった。

次は『明史』巻百十八から朱文正を

靖江王の守謙は太祖の従孫であり、父の文正は南昌王の子である。太祖が旗揚げしたとき、南昌王は既に死んでおり、妻の王氏が文正を連れて太祖を頼ってきた。太祖と高后はわが子のようにかわいがった。成長すると伝や記を渉猟し、勇気と知略に溢れ、長江を渡って集慶路を取った。軍功を挙げると枢密院同僉を授けられた。落ち着いたときに太祖が「どれか欲しい官職はあるか?」と尋ねた。文正が答えた。「叔父上が大業を成し遂げられたなら、どうして富貴など気にいたしましょう。爵や賞を先に身内に与えてしまえば、どうやって人々を心服させられますか?」太祖はその言葉を喜び、ますます文正を愛した。
太祖が呉王となると、文正は大都督に任命され、内外の諸軍事を任された。江西が再び鎮定されると、洪都は重要拠点で西南の守りでもあり、肉親で重臣でなければ守備できないと考え、文正に趙得勝らを統率させこの地を鎮守させ、儒士の郭之章と劉仲服を参謀とした。文正は城を増築し池を浚い、山寨に籠もっていまだ帰順しない者を招諭した。命令は明確で厳粛であったので、遠近となく震え畏れた。まもなく陳友諒の水軍六十万が洪都を包囲した。文正はしばしばその鋭鋒を退け、堅守すること八十五日、破壊されて復旧した城壁が数十丈にも及んだ。陳友諒は近隣の吉安と臨江を攻めて、その守将を捕らえて城壁の下まで連れてきたが、城内は動揺しなかった。太祖が自ら兵を率いて来援したので、陳友諒は囲みを解いて退き、彭蠡で太祖と互いの進路を妨害して戦った。陳友諒は略奪した兵糧を都昌に置いていたが、文正は方亮を遣わして陳友諒の舟を焼いた。糧道が断たれたので陳友諒はついに敗退した。文正はまた何文輝らを遣わし、まだ降っていない州県を討ち平らげた。江西が平定されたのは文正の功に拠るところが大きかった。
太祖は都に戻り、廟に報告してから酒を飲んで、常遇春や廖永忠、諸将士に多大な金帛を賜った。そして文正が前に言ったことの意を汲んで、今後、功を立ててから恩賞を与えようと考えた。しかし文正は恩賞への不満に耐え切れず、もともと気の短い性格であったので、ここに至り不満を爆発させ、ついには節度を失い、小役人の衛可達に命じて部下の子女を奪わせた。按察使の李飲冰が、文正が驕慢にして太祖を怨んでいることを奏上したので、太祖は使者を遣わして譴責した。文正がこれを懼れたので、李飲冰はますます勢いづいて、文正が謀叛の志を持っていると言った。太祖はその日のうちに舟に乗って洪都城の前まで来て、人を遣わし文正を呼んだ。文正が突然のことにあわてふためき城を出て迎えると、太祖は何度も「汝は何をしようとしているのか?」と言った、そして文正を舟に乗せて連れ帰り、文正が悪事をやめることを望んだ。高后が「この子は性格が剛胆なだけで他意はありません。」と必死にとりなした。そこで免官して桐城に流した。文正はまもなく卒去した。李飲冰は他の事件で誅された。
文正が流されたとき、守謙はわずか四歳であった。太祖はこの子の頭を撫でてこう言った。「子よ、恐れることはない。汝の父に必要以上に厳しくしたため、私には憂いだけが残った。私は汝の父のことで汝を斥けるようなことは決してしない。」そして宮中で育てた。守謙は幼名を鉄柱といい、呉元年(1367)に諸子に名を付けたことを廟に報告した際、イ(火偏に韋)と名を改めた。洪武三年(1370)、名を守謙に改め、靖江王に封じた。禄は郡王と同じとし、官属は親王の半分として、老儒の趙クンを長史に任命して傅役とした。成長すると藩王として封地の桂林に赴かせた。桂林は元の順帝が即位前に住んでいた所であり、ここを改めて王宮とし、感謝の上表文を送った。太祖が守謙の家臣にこのような書状を送った。「従孫は幼くして西南の遠方を鎮守する。これを善導せよ。」守謙はこの書状のことを知り、かえって小人とつきあうようにした。このため地元のエツ人の間に怨嗟の声が広がった。都の呼び出されてこれを改めるよう諭されたが、守謙はこれを怨む詩を作った。太祖は怒り、廃して庶人とした。鳳陽に居ること七年、再び爵位を戻され、雲南に赴き鎮守した。このとき守謙の妃の弟である徐溥を同行させ、書状を賜り戒めたが、その書状は極めて真摯なものであった。守謙の横暴さは以前のままで、都に呼び出されて、また鳳陽に住まわされた。そこでさらに牧の馬を強奪したので、都で禁錮された。洪武二十五年(1387)卒去。子の賛儀は幼かったので世子とした。

洪武三十年(1397)春、賛儀は晋・燕・周・楚・斉・蜀・湘・代・粛・遼・慶・谷・秦の十三王のもとにあいさつ回りに遣わされ、湘・楚から蜀に入り、陜西を経て、河南・山西・北平を巡り、東は大寧・遼陽まで行き、山東より帰った。親類との繋がりを感じ、山川の険阻なのを知って、苦労を体験するようにとの太祖の考えによるものである。こうして賛儀は慎み深く学問を好むようになった。永楽元年(1403)再び藩王として桂林に赴き、蕭用道を長史とした。蕭用道は賛儀をよく輔導し、賛儀もまた蕭用道に対し礼をもって敬った。六年(1408)に薨去し、諡を悼僖とした。

賛儀の子で荘簡王の佐敬が跡を嗣いだ。初め銀印を賜っていたが、宣徳年間に金塗りに改められた。正統の初め(1436)、弟で奉国将軍の佐敏と互いに讒訴しあい、大学士の楊栄まで謗った。帝は怒り、両名の使者を追放した。成化五年(1469)に薨去した。子の相承が先に卒去していたので、孫で昭和王の規裕が嗣いだ。弘治二年(1489)に薨去し、子で端懿王の約麒が嗣いだ。約麒は孝行で慎み深いことで有名であった。正徳十一年(1516)に薨去し、子で安粛王の経扶が嗣いだ。経扶は学問を好み徳を修め、『敬義箴』を記した。嘉靖四年(1525)に薨去し、子で恭恵王の邦苧が嗣いだ。邦苧は巡按御史の徐南金と互いに讒訴しあったので、邦苧の俸禄を取り上げ、部下の将校を処罰した。隆慶六年(1572)に薨去し、子で康僖王の任昌が嗣いだ。万暦十年(1582)に薨去し、子で温裕王の履燾が嗣いだ。二十年(1532)に薨去して子が無く、従父で憲定王の任晟が嗣いだ。三十八年(1610)に薨去して、子で栄穆王の履コが嗣いだ。薨去して、子の亨嘉が嗣いだ。亨嘉は李自成が都を攻め落とすと、広西で自ら監国を称し、巡撫の瞿式耜に誅殺された。このとき唐王の聿鍵が福建にいて、誅殺したことが報告された。

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