ナントカ堂 2014/09/20 13:01

明代の名門(6)

建国の功臣として爵位を与えられたうち、侯爵として明末まで続いたのは他に李文忠・トウ愈・湯和の家系です。李文忠は後述するとしてトウ愈と湯和のについて記します。



『明史』巻百二十六「トウ愈伝」より



長子の鎮が嗣いで申国公に改封された。征南副将軍として永新の龍泉山の賊を討伐した。賊が再び攻めたので砦から出撃して軍功を挙げた。その妻は李善長の外孫であった。李善長が罪に問われると奸党として誅殺された。弟の銘は錦衣衛指揮僉事となり、蛮を討伐して陣中で卒去した。銘には子の源がいて鎮の跡継ぎとなった。弘治年間(1488~1505)、源の孫の炳に南京錦衣衛世指揮使を授けた。嘉靖十一年(1532)、詔により炳の子の継坤を定遠侯に封じた。五代伝わって文明の代になり、崇禎の末(1644)に流賊の難に遭って死んだ。



『明史』巻百二十六「湯和伝」より



和には五子がいた。長子の鼎は前軍都督僉事となり、雲南遠征に従って、その途中で卒去した。末の子の醴は軍功を重ねて左軍都督同知になり、五開遠征中に陣中で卒去した。鼎の子が晟で、晟の子が文瑜であり、ともに早世して、爵位を嗣ぐことができなかった。正統帝の時代に、文瑜の子の傑が爵位を嗣ぐことを願い出たが、四十年以上経っても継げなかったのであきらめた。傑には子が無く、弟の倫の子である紹宗を跡継ぎとした。孝宗が功臣の子孫を記録したときに、紹宗に南京錦衣衛世指揮使を授けた。嘉靖十一年(1532)に霊璧侯に封ぜられ、食禄は千石となった。爵位は子孫に伝えられ、孫の世隆は隆慶年間(1567~1572)に協同して南京の守備となり、兼ねて後府を統括した。のちに漕運の提督となり、軍職を四十年以上歴任した功労により、太子太保を加えられ、さらに少保に進んだ。卒去して僖敏と諡され、子孫は爵位を伝えて、明が亡ぶと断絶した。



和の曾孫の胤勣は字を公讓といった。諸生となり、詩に巧みで己の才を誇りに感じていた。巡撫尚書の周忱が胤勣に布告を作らせると、その場で数万言ある文書を作ったので、周忱は胤勣を朝廷に推薦した。少保の于謙が招いて古今の武将の軍略と戦争について尋ねると、胤勣は打てば響くようにこれに答えた。累進して錦衣千戸を授けられた。中書舎人の趙栄とともに沙漠に行って正統帝を慰問した。脱脱不花が中華の朝廷について尋ねると、胤勣は威厳を持ってこれに応答し少しも屈するところが無かった。景泰年間(1450~1457)、尚書の胡エンに推薦されて、指揮僉事の職に就けられた。天順年間(1457~1464)、錦衣の密偵が胤勣の昔の行いを収集して帝に報告したため、平民の身分に落とされた。成化の初め(1465)、もとの官職に復帰。三年(1467)都指揮僉事の職に起用され、延綏東路参将となり、分担して孤山堡を守った。孤山は敵との前線にあり、胤勣は奏上して、城を築き兵糧を集め兵を増員して守備することを願った。返答が来ないうちに敵が大規模に進攻してきた。胤勣は病気であったが、病を押して馬に乗って戦い、城は落ちて戦死した。これが帝に報告されて、先例に則って国費で祭祀が行われた。



建国の功臣の家系が爵位保持者としてあまり残っていないのは、いうまでもなく胡藍の獄で処罰されたからであり、華中や陳鏞のようにすでに死亡していた父が関与していたということで爵位没収だけという者もかなりいました。



ここで参考までに『明史』巻百三十一の「金朝興」を取り上げます。



金朝興は巣の人である。淮西が乱れたので、人々と寄り集まって砦を築き自衛した。兪通海らがすでに太祖に帰順したので、朝興もまた麾下を引き連れて帰順した。長江を渡るときにこれに付き従い、遠征には全て参加して軍功を挙げた。常州を攻め落としたとき都先鋒となり、宜興を取り戻したとき、左翼副元帥となって、武昌を平定すると、龍驤衛指揮同知に昇進し、呉を平定すると、鎮武衛指揮使に改められ、大同で勝利すると、大同衛指揮使に改められた。東勝州を取って、元の平章の劉麟ら十八人を捕らえた。
洪武三年(1370)、論功により都督僉事兼秦王左相となった。まもなく都督府事の職を解かれ、秦王の傅役に専念することとなった。四年に大軍に従って蜀を討ち。七年に総大将として黒城を攻め、元の太尉の盧伯顔、平章の帖児不花と省や院の官僚二十五人を捕らえた。そして李文忠に従って東道の兵をそれぞれ分かれて指揮し、和林を攻め取った。このことは「李文忠伝」に詳しい。



朝興は勇敢で智略もあり、向かうところわずかな兵を持って勝利を得、大軍を指揮したことがなかったが、その功は諸将を上回っていた。十一年(1378)、沐英の西征に従軍し、納鄰の七つの拠点を手に入れた。翌年に論功があって宣徳侯に封ぜられ、禄は二千石で、世襲の指揮使となった。十五年(1382)、傅友徳の雲南遠征に従い、臨安に駐留して、元の右丞の兀卜台、元帥の完者都、土豪の楊政らがともに朝興に降伏した。朝興は自分の担当地域の民を慰撫したので兵も民もみな喜んだ。進軍して会川に到着したところで卒去した。沂国公に追封され、武毅と諡された。十七年、雲南平定の論功が行われ、改めて侯の世襲の証書を賜り、禄を五百石増やされた。
長子の鎮が封を嗣いだ。二十三年(1390)、朝興が胡惟庸の一党であったことがさかのぼって罪に問われ、鎮は平衛指揮使に降格された。鎮は遠征に従軍して軍功を挙げ、都指揮使に昇進し、その後、世襲の衛指揮使となった。嘉靖元年(1522)、雲南に傅友徳・梅思祖・金朝興の廟を立てるようにとの命があり、朝興の廟の額には「報功」と記された。



金鎮はもとの侯爵までは至りませんでしたが、世襲の衛指揮使(正三品)となり、金朝興も功臣として廟を建てられ、ある程度は復権できたようです。



また廖永忠の家系は洪武帝の粛清は免れましたが、孫の鏞は都督として建文帝の軍議に参加し、さらには弟の銘とともに、学問の師であった方孝孺の遺体を引き取って埋葬して、これを弾劾され、死罪は免れたものの、爵位没収の上、一族共に辺境の武官に左遷されて没落しました。


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