ナントカ堂 2014/09/20 11:43

明代の名門(5)

郭英の名前が出てきたので、次は郭英の一族について、例により郭英は良く知られているのでその子孫を『明史』巻百三十から訳します。



(郭英の)子は十二人。鎮は永嘉公主を娶り、銘は遼府典宝となり、鏞は中軍右都督となった。娘は九人。次女は遼の郢王の妃となった。銘の子である孫娘は洪熙帝の貴妃となった。事情により銘の子のゲン(玉偏に玄)が侯を嗣いだ。宣徳年間(1426~1435)、ゲンは宗人府の官職に就けられた。ゲンは河間の民の田や小屋を奪い、さらに天津の屯田千畝を奪ったが、ゲンの家の使用人の罪としてゲンは許した。正統帝の治世の初め、永嘉公主は自分の子の珍が侯を嗣げるよう願い出た。珍は英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事を授けられた。ゲンが卒去すると、子の聡が珍と跡目争いをした。このためついには両者とも継承停止となり、聡には珍と同じく錦衣衛指揮僉事を授けられた。天順元年(1457)、珍の子の昌は詔により温情をもって侯を嗣がせることとなったが、聡がこれを争ったので取りやめとなった。昌が卒去して、子の良が嗣ぐこととなったが、聡はまた、良は昌の子では無いと言ったので、侯を嗣ぐことは停止され、指揮僉事を授けられた。良は何度も侯を嗣ぐことを願い出たので投獄されたが、まもなく釈放されてもとの官に戻された。こうした中、郭氏の一族が揃って、英の子孫を一人選んで英の爵位を嗣がせるよう願い出た。廷臣はみな、本来は良が英の嫡孫であり、侯を嗣がせるべきだと言った。詔によりこれが許された。良は正徳の初め(1506)に卒去し、子の勛が嗣いだ。



勛は凶悪な人物で知略があり、書や史を渉猟した。正徳年間(1506~1521)、両広に駐屯し、のちに三千営を統括し、嘉靖帝の治世の初めに団営を統括した。大礼の議が起こり、勛は帝の意思を察知して張ソウに賛同した。このため嘉靖帝は勛を大いに寵遇した。勛は寵遇をよいことに好き勝手に振舞った。大学士の楊一清はこれを憎み、勛が賄賂を求めたことが発覚したのを機に、営における職務を辞めさせ、太保兼太子太傅の官位を剥奪した。楊一清が罷免されると、勛は五軍営を統括し、四郊の祭壇造営の監督となった。翌年、団営を統括し、嘉靖十八年(1539)には領後府を兼ねた。嘉靖帝が天を祀るときに同行して、五代前の先祖の英が太祖の廟に配祀されることを願った。廷臣の意見は不可で、侍郎の唐胄がもっとも反対した。帝はそれらの意見を聞かず、結局、英の言うとおりに祀られることとなった。その翌年、嘉靖帝の父が尊属として太廟に祀られると、勛は翊国公に昇進し、太師を加えられた。
これ以前のこと、妖人の李福達が自ら薬物を調合して金銀を作れると言っていた。勛は李福達と親しく付き合っていた。李福達が罪に問われると、勛は厳しく取り調べることを主張した。このとき廷臣の多くが罪に問われた。この一件が片付いてから、勛はまた方士の段朝用を進めた。段朝用が言うには、自身が変化させて作った金銀を飲食の器にすれば不死となるのも可能だという。帝はますます勛を忠義者と思った。給事中の戚賢が、勛が権力を乱用して利を漁り何事にも民を虐げていると弾劾した。李鳳来らもまた同様の意見を述べた。帝が担当官に命じて調査させたところ、勛は都に千区画以上の店を持っていた。副都御史の胡守中がさらに弾劾するには、勛は叔父の郭憲に東廠の裁判を行わせて、罪無き者をほしいままに虐げているという。帝はそれらの訴えを保留した。このころ帝は言官の意見を採用して、勛に敕を賜り、兵部尚書の王廷相、遂安伯の陳譓と共同で徴兵を行うよう命じた。敕が届いても勛は実行しなかった。言官は、勛が強圧的に派閥を作っていると弾劾した。勛は「どうしてまた敕を賜りご苦労をおかけすることなどできましょう。」と弁解した。その言葉に帝は「人臣の礼に大いに外れたものだ。」と激怒した。ここにおいて給事中の高時は勛が不正に利益を得ていた件を全て告発し、さらに張延齢と交際していることを述べた。帝はますます怒り、勛を錦衣衛の獄に入れた。二十年(1541)九月のことである。
まもなく帝から鎮撫司に量刑の下問があった。鎮撫司は、勛の罪は死罪に当たると奏上した。帝は法司に再検討させた。給事中の劉大直が再調査して勛が政事を乱した十二の罪を纏めて、同時に審理することを求めた。法司は全ての報告書の罪状を審理して、勛の罪は絞殺に当たるとした。帝がさらに詳しく審議させると、法司は勅命違反の罪として勛は斬罪、妻子と田と邸宅は没収とした。奏上があったが帝はそれを手元において命令を下さなかった。帝は勛に対して寛大な処置をしようとしており、それとなく示していたが、廷臣は勛を大変憎んでおり、わからないふりをしてさらに勛を極刑にしようとした。翌年、言官が審理し、特旨により高時を二階級降格として、廷臣に帝の意向を示したが、ついに廷臣からは勛を取り成そうという者が現れなかった。その冬、勛は獄中で死んだ。帝はこれを憐れみ、法司を責めて投獄した。刑部尚書の呉山の官職を剥奪し、侍郎都御史以下の位階を各々削った。そして勛に対しては誥券のみを取り上げて財産は没収しなかった。



明の建国以来、勲臣は政事に与らなかった。ただ勛のみは恩寵に拠り介入して、権力をほしいままにし、悪事をなして罪に陥った。勛が死んで数年、その子の守乾が侯を嗣ぎ、曾孫の培民まで伝えて、崇禎の末(1644)に賊に殺された。


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