後周の世宗は狭量なのか
『宋史』の一番初め、「太祖紀一」を改めて読んでみたらこのような事が書かれていました。
顕徳三年、宣祖(宋の太祖・太宗の父)は揚州平定の際に督軍となり、寿春で(後周の)世宗と合流した。
寿春の餅屋の餅が薄くて小さかったため、世宗は怒り、十数人を捕えて殺そうとした。宣祖が強く諌めたため釈放した。
他にも本紀に漏れた逸話もあるのに、何でこんな話を入れたのかは知りませんが、世宗は心狭すぎでしょ。
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ナントカ堂 2024/03/19 22:12
『宋史』の一番初め、「太祖紀一」を改めて読んでみたらこのような事が書かれていました。
顕徳三年、宣祖(宋の太祖・太宗の父)は揚州平定の際に督軍となり、寿春で(後周の)世宗と合流した。
寿春の餅屋の餅が薄くて小さかったため、世宗は怒り、十数人を捕えて殺そうとした。宣祖が強く諌めたため釈放した。
他にも本紀に漏れた逸話もあるのに、何でこんな話を入れたのかは知りませんが、世宗は心狭すぎでしょ。