康兆の変
よく「康兆が穆宗を廃したために遼の侵攻を招いた」と言われ、『遼史』などにもそう書かれていますが、『高麗史』巻四の顕宗元年五月甲申条にはこう記されています。
五月甲申、尚書左司郎中の河拱辰と和州防禦郎中の柳宗を遠方の島に流した。
河拱辰が嘗て東女真を討って敗れたことを、柳宗は恨みに思っていた。ちょうど女真人九十五人が来朝して和州館に至ったため、柳宗はこれを皆殺しにした。このため両名とも流罪となった。女真がこれを契丹に訴えると、契丹主は群臣に「高麗の康兆は主君を弑した。大逆である。問罪の兵を発するべきである。」と言った。
大義名分は弑逆なのでしょうが、直接的には女真人に泣きつかれたのが原因かと思われます。