ナントカ堂 2023/06/02 00:26

耶律阿保機の養子

『遼史』の列伝はwikiに多く記事がありますが、日本語の記事が無い人もあり、そのうち今回は王郁の伝を訳します。


王郁(列伝五)

 王郁は京兆の万年の人で、唐の義武軍節度使の王処直の庶子である。伯父の王処存が義武軍節度使となり、亡くなると、三軍は王処存の子の王郜を後継ぎとし、王処直は都知兵馬使となった。
 光化三年(900)、梁王の朱全忠が定州を攻めると、王郜は王処直を沙河に遣わして防戦させた。王処直は敗れると城に入り、王郜を追放した。王郜は李克用の元に逃れ、乱兵は王処直を擁立して留後とし、人を遣わして朱全忠に臣従した。朱全忠は李克用と断交していたため、王処直を義武軍節度使とした。
 初め、王郜が亡命すると、王郁はこれに従った。李克用は娘を王郁に嫁がせ、新州防禦使とした。
 王処直は「李克用は必ずや張文礼を討ち、張文礼が滅びれば、自分は孤立して危うい」と恐れ、密かに王郁を契丹に遣わして侵攻させ、李克用を牽制しようとした。同時に王郁を後継者と認めた。王郁は李克用の元に逃げて以来、常に父に嫌われていると思っていたため、この使命を受けて大いに喜んだ。
 神冊六年(921)、王郁は上表文を呈して契丹に帰順し、一族を挙げて来降した。太祖はこれを養子とした。まもなく王郁の兄の王都が父を幽閉して、自ら留後となった。太祖は王郁を皇太子に付けて討伐に向かわせた。定州に至ると、王都は固く守って城から出なかったため、住民を攫って帰還した。
 翌年、王郁は皇太子に従って鎮州を攻撃すると、後唐軍と定州で遭遇して撃ち破った。
 天賛二年(923)秋、王郁と阿古只は燕・趙を攻略して、磁窯務を下した。
 太祖が渤海を平定するのに従軍して戦功あり、同政事門下平章事を加えられ、崇義軍節度使に改められた。
 太祖が崩御すると、王郁は妻と共に葬儀に参列し、妻が淳欽皇后に「郷里に帰りたい」と泣いて訴えたため、皇后は許可したが、王郁は言った。
 「臣はもとは後唐の国主の婿です。国主は既に弒され、帰国すれば我ら夫婦は殺されるでしょう。太后の側に仕えることを願います。」
 皇后は「漢人の中で、王郁が最も忠孝である。」と言って喜んだ。太祖が以前に李克用と兄弟の契りを結んでいたからである。
 まもなく政事令を加えられ、宜州に戻り、亡くなった。

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