ナントカ堂 2022/08/15 01:05

奢香夫人

 今回は手抜きになってしまいますが、日本語のwebで奢香夫人の記事に乏しいため、『全訳国初群雄事略』から、『炎徼紀聞』巻三の奢香夫人の伝の訳を転載します。


 奢香は貴州宣慰使の靄翠の妻である。靄翠の先祖の火済は、蜀漢のとき、左丞相の諸葛亮が山を切り開き道を通して孟獲を捕らえたときに功があり、羅甸国王に封ぜられた。唐の阿珮、宋の普貴、元の阿画はともに歴代建国時に帰順して爵を継ぎ、水西に居住して、大鬼主と号した。靄翠は元に仕えて四川行省左丞兼順元宣慰使となっていた。
 洪武四年(1371)、同知の宋欽とともに帰順すると、洪武帝はこれを高く評価し、靄翠を貴州宣慰使、宋欽を宣慰同知として、各々の領民を支配することを認めた。藹翠の軍は飛びぬけて強く、四十八部に分けて、部ごとに大頭目を置いて統率させた。
 このとき都督の馬燁が貴州に鎮守していたが、殺戮を以って羅甸人たちを屈服させたので、羅甸人たちはこれを畏れて馬閻王と呼んだ。
 靄翠が死んで奢香が代わりに立ったころ、馬燁は羅甸人を全て滅ぼそうと考えた。ちょうど奢香に微罪があったので、馬燁はこれを審理するとして、奢香を檻に入れて連れて来させ、裸にして鞭打った。そうすることで羅甸人たちを激怒させて反乱を起こさせようとしたのである。果たして羅甸人の間では反乱を起こそうとの空気が沸々と沸いてきた。このとき宋欽もまた死んだ。その妻の劉氏は知略があり、奢香の領民の羅甸人たちにこう言った。
 「落ち着きなさい。私が汝らのために天子に訴える。天子が聞き入れないなら、そのときに反乱を起こしても遅くないであろう。」
 そこで羅甸の民は収まった。劉氏は急ぎ洪武帝に拝謁すると今回の件を話した。帝が尋ねると、劉氏はこう答えた。
 「羅甸の蛮族は義に服し、馬を貢ぐようになって七、八年が経ちます。何も罪はありません。馬都督は理由も無く騒乱を起こそうとしていますが、一旦不満が爆発してしまったなら、おそらく馬都督は、私たちが放置していたためと言うでしょう。そこで命を懸けてこのように言上するのです。」
 帝は納得し、後宮に帰ると皇后にこの話をし、それからこう言った。
 「朕は馬燁が忠義者で清廉であることは良く知っている。ただ、一人を守るために一地域の安定を引き換えにはできぬ。」
 そして皇后に、劉氏を後宮に召すよう命じた。皇后は劉氏に「汝は私のために奢香を呼び寄せることができるか?」と尋ねた。劉氏は「できます。」と言い、奢香にすぐに来て拝謁するよう手紙を送った。
 奢香は息子の嫁の奢助とともに急ぎ都に来て帝に拝謁し、代々土地を守ってきた功績と馬燁の罪状を自らの口で述べた。帝は言った。
 「汝らはそれほど馬都督に苦しめられているのか。私が汝らのために馬都督を排除しよう。ところで汝は何を以って私に報いてくれるのか?」
 奢香は叩頭して言った。
 「聖恩を蒙ったなら、子孫に命じて羅甸人を抑えて叛乱が起こらないようにいたします。」
 帝が言った。
 「それは汝の職務であろう。それが報いたと言えるのか?」
 奢香が言った。
 「貴州の東北には細い道があって、そこから蜀に入れますが、長い間塞がっています。願わくば陛下のために山を切り開き駅伝を通して、往来に役立てたいと思います。」
 帝はこれを受け入れ、馬燁を朝廷に呼び出して審議することとした。馬燁は初め、どうして呼び出されたのか分からなかったが、省の境を出たところで理解し、大いに恨んでこう言った。
 「誰が馬閻王と言ったかは知らぬが、あの小娘二人を生き埋めにしてやる。なぎ払われ根絶やしにされて血の海の中で後悔しろ。」
 馬燁が拝謁すると、太祖はその罪状を列挙した。馬燁は一言も答えること無く、口を開くと一番に「臣自身が長い間賊の首領だったようですな。」と言った。太祖は怒り立ち上がって、馬燁を斬り、その頭を奢香に示してこう言った。
 「私は汝のために心を押し殺して害を除いた。」
 奢香たちは叩頭して感謝した。そして奢香を「順徳夫人」、劉氏を「明徳夫人」に封じた。皇后は奢香たちのために宴を開き、自身は遠慮して出席しなかった。奢香たちが帰ろうとすると多くの褒賞を贈り、道中の役所に敬意を表して兵を整列させて迎えるよう命じた。
 帰国した奢香は、帝の威光を以って羅甸の民を説得したため、民たちは冷静になり、従うようになった。奢香は赤水と烏撒の道を烏蒙まで通し、龍場に九駅を設置して、代々馬の餌を供給することした。

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