ナントカ堂 2022/07/26 23:56

錦衣衛は皇帝の親衛隊であり

 錦衣衛は皇帝の親衛隊であり、皇帝の意志が悪ならば忖度して悪となり、時としてこれに歯止めをかけようとします。以下その例。


 宋忠はどこの人かは分からない。洪武末に錦衣衛指揮使となった。
 ある百戸が罪無くして死刑になりかけ、宋忠が上疏して救った。御史がこれを越権として弾劾すると、洪武帝は言った。
「宋忠は率直で隠すところなく、人の命のために願い出た。何の罪があるというのか。」
 結局、百戸は赦されたが、続いて僉都御史の劉観が弾劾したため、宋忠は鳳陽中衛指揮使に左遷された。
 三十年、平羌将軍の斉讓が西南夷を平定に向かったが戦果が無かった。宋忠は参将となり、将軍の楊文に従って討伐した。凱旋すると、錦衣衛に復帰した。
(『明史』巻百四十二、このあと靖難の変で建文帝側に付いて戦死)


 陸炳は錦衣衛の長を最も長期間務めた。厳嵩と付き合いがあったが、士大夫を敬愛し、世宗の時代に詔により投獄された者も、たびたび執り成して身を守ったため、士大夫は恩義に感じていた。
 その没後に官爵を剥奪されたが、遂には冤罪は晴らされ、子孫は官職を世襲することができた。

 張居正が生きていた時、同鄉の麻城の劉守有が錦衣衛の長で、深く信頼されていた。
 台臣の傅応楨や劉台らが張居正を弾劾して却って窮地に陥ったが、劉守有の奔走で命が助かった。
 奪情の件で五君子が前後して張居正を弾劾し、廷杖に処されたが、劉守有は事情を知り、杖刑を行う者に言い含めておいたため、杖に打たれて死ぬことを免れた。
 劉守有は後に東廠の張鯨に連座して罷免され、帰郷することとなったが、子孫は栄えている。(『万暦野獲編』巻二十一「陸劉二緹帥」)



 駱養性、字は泰如、京師の人で、崇禎帝の時代に大金吾となった。
 熊魚山と姜如農の二人が直言を以って罪に問われ、錦衣衛の獄に下された。
 ある日の深夜、身分の低い宦官が崇禎帝の直筆の書状を持って来て、駱養性に「熊魚山と姜如農を殺すように」と伝えた。駱養性はおよそこのように返答した。
 「言官が有罪であれば法に則り処罰すべきであり、そうすれば天下の人々も納得するでしょう。今、深夜に一片の紙切れを臣に送って二人の諌官を殺そうとしている。臣は敢えてこの詔には従いません。」
 この返答を聞いた崇禎帝は怒りを収め、二人は死を免れた。
 駱養性は順治年間(1643~1661)にはまだ健在で、宋荔裳が会ったことがある。(『池北偶談』巻五「駱金吾」)

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