ナントカ堂 2021/07/26 20:05

張浚と曲端

 張浚って朱熹の友人だから良い様に書かれてますが、曲端にやった事って、秦檜が岳飛にやった事とあまり変わりませんよ。
 曲端があまり日本で知られていないので簡単に説明しますと、初めは対西夏のため起用された武官で、北宋が滅んだ後も陝西で勢力を保ち、何度も金軍を撃退しています。ここに乗り込んできた張浚が、この兵力を使って北伐を企図して、現状維持が精いっぱいだと言う曲端と対立。曲端を解任して自ら総大将となった張浚が金に戦いを挑んで惨敗、これが富平の戦いです。これで陝西に維持できていた宋の勢力も壊滅してしまいます。
 『宋史』巻三百六十九の「曲端」の最後の方を見てみましょう。


 同年秋、兀朮が江・淮に攻め入る様子を見せたため、張浚はその鋭鋒を挫くことを協議した。曲端は言った。
 「平原は広野で、馬で突撃する敵に有利です。また我が軍は今まで水戦の訓練をしたことがありません。金軍には勢いがあり、これにそのまま当たるのは困難です。今は兵を訓練して馬と草と準備し現在の領土を確保する以外ありません。十年待てば戦える状態となるでしょう。」
 曲端は既に張浚とは対立していて、張浚は前々から疑念が積み重なっていた。そこで遂に彭原の件で曲端を軍職から解任して、祠官とした。その後、更に海州団練副使に降格し、万州に配流した。

 同年、張浚は富平の戦いで敗れ、趙哲を誅し、劉錫を降格にした。張浚は人心を得ようとして富平の戦いを起こしたが、涇原の軍勢が最も力を発揮し、潰走した後も、真っ先に自分たちで集結した。これも全て以前の総大将であった曲端の訓練に拠るものである。そこで曲端を左武大夫として復帰させ、興州に住まわせた。

 紹興元年(1131)正月、曲端は栄州刺史・提挙江州太平観となり、閬州に移った。このとき張浚は宣撫司を興州から閬州に移し、再び曲端を用いようとした。呉玠は曲端に怨みがあったため、「曲端が再び起用されれば、必ずや張公の不利となるでしょう」と言い、王庶もまた呉玠に乗って離間を図った。張浚は二人の讒言を容れ、また曲端が制御しにくいことを恐れた。曲端が以前に作った詩に「関中で事を興さないのであれば、かえって長江に行き釣り舟でも浮かべよう。」とあった。王庶は張浚に「これは主上を誹謗する意味だ。」と告発した。ここに曲端は恭州の獄に送られた。

 武臣の康隨なる者は以前曲端に逆らって背を鞭打たれたため、曲端を激しく怨んでいた。張浚は康隨を提点夔路刑獄とした。これを聞いた曲端は「私の死は決まった。」と言い、何度も「天よ、天よ」と呼びかけた。曲端は「鉄象」という名の馬を有していて、日に四百里駆けた。ここに至り「鉄象惜しむべし」と何度も言い、牢に入れられた。康隨は獄吏に命じて縛り上げさせると、口を固定して火で炙る○問をした。曲端が喉の渇きを訴えると酒を飲ませた。曲端は体中の九つの穴から血を流して死んだ。享年四十一。陝西の士大夫で惜しまぬ者は無く、兵も民もみな宋に失望し、叛いて去った。張浚はまもなく処罰され、曲端は追復されて宣州観察使となり、「壮愍」と諡された。

 曲端は将としての知略があり、才能を発揮する場を得て、予想以上の功績を上げた。しかし気が強く才能を自負して尊大に振舞ったため、自ら災いを招いたのである。

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