ナントカ堂 2021/06/20 23:15

宋代の張飛?

 中国版のwikipediaである維基百科に「有宋朝張飛之風」とありますが、部下に乱暴して自業自得の張飛と比べるとあまりにも可哀そう。以下『宋史』巻二百五十九から。


 張瓊は大名の館陶の人で、代々牙中の軍人であった。張瓊は若い頃から勇猛で弓矢を得意とし、太祖の麾下に属した。
 後周の顕徳年間(954~960)、太祖が世宗の南征に従軍し、十八里灘の砦を攻撃中に軍船に包囲された。敵の一人が鎧を着て盾を持ち鼓を打ち鳴らしながら騒ぎ立てて前に出た。兵たちが敢えてこれに当たろうとしない中、太祖は張瓊に射るよう命じた。張瓊は一発で斃し、南唐軍は退いた。

 寿春攻撃の際、太祖は皮船に乗って城の壕に入った。そこへ突如、城壁の上から車弩が放たれた。矢の大きさは屋根の垂木ほどもあった。張瓊は急ぎ身を挺して太祖を覆い、矢は張瓊の股を貫いた。一旦死んだようになったが息を吹き返し、鏃は髀骨まで刺さって堅く抜けなかった。張瓊は杯に酒を満たして飲むと、骨が破れて鏃が出た。血が数升流れたが平然としていた。太祖はこれを頼もしく思い、即位すると禁軍の総大将に抜擢した。その後、累進して内外馬歩軍都軍頭となり、愛州刺史を領した。

 太宗が殿前都虞候から開封尹になると、太祖は言った。
 「殿前の衛士は狼虎のごとき者たちで普通の人間ではない。張瓊でなければ統率できない。」
 即座に張瓊を代わりの都虞候とし、嘉州防禦使に昇進させた。

 張瓊は生来粗暴で、多方面で軋轢を生んだ。このころ史珪と石漢卿が重用されていたが、張瓊は二人を「占いの老婆のようなもの」と軽侮していた。二人は深く怨み、「張瓊は勝手に官馬に乗り、滅ぼした李の下僕だった者たちを自分のものにし、部曲を百人以上抱えて権勢を振るい、禁軍の兵はみな恐れています。」と告発し、更に「太宗が殿前都虞候だった時の事を誹謗している」と讒言した。

 建隆四年(963)秋、郊祀が行われるに当たり、都を平穏な状況にしておきたいと考えた太祖は、張瓊を呼び出して訴えの件を問い質した。張瓊は認めなかったため、太祖は怒り、打つよう命じた。石漢卿は即座に鉄棒を振るうと乱打した。張瓊が気絶したので引きずり出し、太祖は御史に調査を命じた。張瓊は免れないことを知り、明徳門まで行くと、帯を解いて母に遺品として贈った。判決が下り、都城の西の井亭で自害するよう命じられた。まもなく太祖は、張瓊の家には財産は無く、下僕も三人しかいないことを知り、大いに後悔した。そして石漢卿を責めて言った。
 「汝は張瓊が下僕を百人有していると言ったが、それはどこにいるのか。」
 石漢卿は言った。
 「張瓊の下僕は一人で百人力です。」
 太祖は遺族を優遇し、子がまだ幼かったため、兄の張進を龍捷副指揮使とした。

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