童貫の経済政策
経済政策・・・と言うか失策で、意気込みは良いのですが対策がまずかったというか・・・
以下『宋史』より
巻百八十「食貨下二」
童貫は錫を混ぜた銭と鉄銭を並行して流通させようとした。(中略)当時、関中銭(鉄銭)の価値は甚だ軽く、錫を混ぜた銭を高額貨幣として流通させようとしたが、実際には鉄銭と同様に見なされ、物価は日に日に上がっていった。
巻百八十一「食貨下三」
政和七年、山西の塩の販売を行うことになり、童貫が関河の宣撫使であったため管掌することとなった。詔により現地に視察に行き、全て官で買い取り、都では価格を抑え、外国に担当官が売ることに決まった。(中略)重和二年、損失が数百万貫となり、更に鈔の価値が下落して塩を買い取ることができなくなった。三省が報告し、童貫は塩の担当を辞した。
巻三百十七「銭即」
童貫が陝西の宣撫使となり裁量を委ねられた。このころ長安では物価が高騰していたため、童貫は抑えようとした。計司が童貫の意を汲んで、市での価格を四割減とし、違反者を重刑に処すとした。このため民は物を売るのを止めた。徐処仁はこれに反対して処罰された。また均糴法を実施し、民から粟を買い取る際に高額の代価を払うこととしたが、給料の代わりに田を与えられている者は下は蕃兵や射士に至るまで負担を押し付けられたため、関内は騒然とし、反乱が起こりかけた。