ナントカ堂 2021/03/16 12:45

奚族の漢化①

まずは『宋史』巻二百六十の「米信」から。


 米信、旧名は海進、本は奚族、若いころから勇敢で弓の名手として評判で、後周の太祖が即位すると護聖軍に所属した。
 世宗の高平遠征に従軍し、功により龍捷散都頭に昇進した。
 宋の太祖が禁軍を統率すると、米信はその麾下に属した。側近くに仕えて大いに気に入られ、名を信と改め、牙校に就けられた。太祖が即位すると殿前指揮使に任じられ、直長に昇進した。

揚州を平定した際、米信は弓矢を執って太祖に近侍した。敵に騎兵の遊撃隊の将が太祖の乗る輿に迫ると、米信は矢を射て一発で斃した。その後、内殿直指揮使に昇進し、開宝元年には殿前指揮使に改められて郴州刺史を領した。

太宗が即位すると散都頭指揮使に転じ、引き続き高州団練使を領した。太平興国三年に昇格して洮州観察使を領し、四年の北漢遠征の際、行営馬歩軍指揮使に任じられて、田重進と共に行営の諸軍の監督を分担した。北漢軍が奇襲をかけると、米信はこれを打ち破り、その将の裴正を殺した。北漢を平定すると、続いて范陽を攻撃し、帰還すると功により保順軍節度使に昇進した。

このころ米信の一族の多くが塞外にいた。米信の兄の子の米全が朔州から単身来帰すると、太祖は召して会い、駅の馬を乗り継がせて代州まで行かせ、一族の者を招致するようにと、護衛の兵をつけて送り出した。その後、米全は何年も留まり、国境の警戒が厳重となって遂には戻らなかった。米信は悲憤慷慨して言った。
 「『忠孝は両立できず』と聞く。わが身を国に捧げたからには、一族の事を顧みることはできない。」
 北を向いて慟哭してから、子や甥に再びこの件について口にしないよう命じた。

 五年に郭守贇らと共に定州の駐留兵を守るよう命じられ、六年秋に定州駐泊部署に昇進し、八年に彰化軍節度使に改領となった。
 雍熙三年、幽薊遠征の際、米信は幽州西北道行営馬歩軍都部署に任じられ、新城にて契丹を破った。
 契丹が再び襲来し、宋軍がやや劣勢となると、米信は単独で麾下の龍衛兵三百を率い応戦した。敵の包囲は幾重にもなり、矢が雨の如く降り注いだ。米信は数人を射殺し、麾下の士が多く死んだ。日が暮れると、米信は大刀を持って騎兵を従え、大声で叫びながら数十人を殺したので、敵がわずかに退いた。そこへ百騎ほどで包囲を突破して助かった。
軍立違反に問われ、死に値すると議されたが、太宗は特例として赦し、右屯衛大将軍に左遷とした。翌年、彰武軍節度使として地位を戻された。
 端拱の初め(988)に新たに土地が開拓されると、米信は邢州兵馬都部署としてこれを監督し、二年に横海軍に改鎮となった。
 米信は書を知らず横暴な振る舞いが多かった。そこで太宗は何承矩をその副とし州の政務の決定権を与えた。何承矩が屯田の責任者となると、米信は遂には法を無視するようになり、兵士の宴会が催される際にも僅かな物しか出さなかった。更に私的に絹を買って、経理担当者に官物であると偽り税を逃れた。太宗は調査によりこのことを知っていた。
 四年に都に召されて右武衛上将軍となり、翌年、判左右金吾街仗事となった。同月、これまで米信は多くの下吏や兵を罪も無いのに鞭打っていた。妻の墓を造るとして、無理やり他人の墓地を買い墓を発いた。家奴の陳賛が老齢により病となると、鞭打って死に至らしめた。このため家族がこれらの件を告発した。太宗が御史に尋問を命じると、米信は全てを認めたが、結審前に卒去した。享年六十七。横海軍節度使を追贈した。子の継豊は内殿崇班・閤門祗候となった。


 このように粗暴な米信ですが、上記のように皇帝からはかなり優遇されていたようです。
 『欧陽修集』巻三十七に収められている「東莱侯夫人平原郡夫人米氏墓誌銘」は嘉祐五年(1060)のものですが、米信の孫娘の墓誌で、趙徳昭(太祖の次子)の孫の趙従恪の夫人となっており、仁宗の時代になっても一族が高い地位に居たことが伺われます。

 そして「米海岳年譜」等では、米芾はこの米信の子孫としています。(祖父の米贇が大将として元祐三年(1088年)に西夏と戦って戦死とか、父の光輔は左武衛将軍・会稽公であるとかは情報源が不明なので割愛)

 米芾は有名なので具体的にはWikipedia等をご覧いただくとして、書を知らない野蛮人の子孫が当代一の文化人となるとは驚きです。

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