ナントカ堂 2019/12/08 12:40

金興慶/恭愍王と同性愛

 金就礪一族の最後は、『高麗史』巻百二十四 嬖倖二から金興慶ですが、その前に。

 松原國師氏の<図説>ホモセクシャルの世界史に


 新羅を滅ぼした高麗のいく人かの王も男色を好み、美男子を宮中に囲った。中でも一番名高いのは恭愍王の「子弟衛」であろう。恭愍王は少なくとも五人以上のお気に入りの若者を「子弟衛」に任じて、君側に侍らせ性愛の相手としていた。(p.370)


とありますが、この子弟衛について
『高麗史』巻四十三の恭愍王二十一年冬十月甲戌朔条に

 子弟衛を設置し、年若く美貌の者を所属させ、代言の金興慶にこれを統括させた。これより洪倫・韓安・権シン・洪寬・盧センらを寵愛して、常に寝室に侍らせた。
 王は生来色を好まず、公主が生きていたときも後宮に行くことは希であった。公主が薨去すると、諸妃を後宮に入れてもそれぞれ別宮に住まわせて日夜近づかず、公主を想っては悲しみ、遂には心の病となり、常に自ら婦人のように化粧した。
 先に後宮の下女に布で顔を覆わせ、金興慶や洪倫らを召すと乱交させて、王は隣の部屋の穴から覗き見ていた。そして心動かされると、洪倫らを寝所に引き込み、男と女であるかのように営んだ。それが数十人交替してようやく止んだ。
 この日より、王は日が暮れてから起き、あるいは意に適った者には多大な褒美を与えた。王は跡継ぎがいないことに悩み、洪倫や韓安らに諸妃を強○させ、それで男子が生まれて自分の子とすることを望んだ。定妃・恵妃・慎妃は死を賭して拒んだ。
 後に益妃の宮に行ったとき、金興慶・洪倫・韓安らに益妃と通じさせようとしたが、益妃は拒んだ。王が剣を抜いて斬ろうとしたため、益妃は懼れて従った。これより金興慶らは王の命と偽って何度も宮を行き来した。

とあり、巻四十四の二十二年春正月乙丑条に

 人事があって頭裏速古赤と子弟衛は全員異例の昇進をした。卿大夫の子弟で若く美しく壮健な者は常に禁中に侍り、頭裏速古赤と号した。子弟衛と共に寵愛された。

同年十月乙亥条に

 王自ら正陵を祀り、酒宴を催して楽しみ、夜になって陵の前に泊まった。百官が軍装をして付き従い、子弟衛はみな紅衣を着て黒い馬に乗り先導した。


とあります。
では金興慶伝を簡単に見ていきましょう。


 金興慶は侍中の金就礪の曾孫で、頭は良いが誠実さは無かった。
 恭愍朝に選ばれて于達赤(親衛隊)となった。
 王は金興慶を見ると喜び、内速古赤(近習)として寵愛した。常に寝所に侍り、一度も休沐を許されず、数月間で異例の昇進をして三司左尹となり、左右衛上護軍に転じ、日ごとに寵愛が深まっていった。

(権勢を笠に着ての横暴な振る舞いが列挙されていますが略)

 恭愍王が弑されて辛グが即位すると、右司議の安宗源・門下舎人の金濤・補闕の林孝先・正言の盧嵩・閔由誼らが上言した。「(以下弾劾文、略)」
 辛グは処分を保留したが、台省が再三処分を求めたため、金興慶は彦陽に流されて除名され、家財没収となった。他も全員免官となった。
 洪倫らが謀叛を企てていると聞いた呉献は、これを金興慶に報せたが、金興慶は「洪倫らは王に寵愛しているため王は信じず、却って自分が殺される」と恐れ、他に言わなかった。
 謀叛が起こると、呉献は詳細を崔瑩に話した。崔瑩は呉献を、金興慶の配所に遣わして対面させた。
 金興慶は言った。「乳臭い奴め。私が先王に推薦したのに、却って私に噛み付こうというのか。」
 呉献は言った。「私が洪倫らの謀叛の計画を貴公に告げたのは、恩に報いようとしたからだ。」
 金興慶は答えることができず、遂に誅された。

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