ナントカ堂 2019/12/14 17:06

洪奎

 金興慶は嬖倖伝に入れられていますが、金興慶と共に寵愛された洪倫は、恭愍王を殺害したため叛逆伝に入れられています。
 洪倫も金興慶と同様に功臣の子孫で、林惟茂を殺して武臣政権を終わらせた洪奎が高祖父です。
 以下に『高麗史』巻百六から洪奎の伝を見ていきましょう。


 洪奎、初名は文系、南陽の人で、父の洪縉は同知枢密院事であった。
 洪奎は生来恬淡寡欲で人と馴れ合わなかった。元宗の時代に御史中丞となった。
 林衍が死んで子の林惟茂が権力を引き継ぐと、洪奎は、林惟茂の姉の夫であったため、林惟茂は事あるごとに洪奎・宋松礼と協議した。洪奎と宋松礼は表向きは従っていたが内心は常に憤っていた。
 王が元から帰国しようとするのを林惟茂が拒んだため、内外騒然となった。
 王は李汾成を遣わして、密かに洪奎にこう伝えた。「卿は代々の高官の家の出である。情勢を見て義を結集し、社稷を利してこそ、先祖への面目が立とう。」洪奎は再拝すると李汾成に「明朝、府の門外で私をお待ちください。」と言った。
 そこで洪奎は宋松礼と計画を立て、三別抄を集めると大義を説いて味方につけ、林惟茂を捕らえて市で斬った。行宮にて王に拝謁し、世子に従って元に行くと、皇帝は錦袍と鞍馬を賜って功を称え、高麗にて一品職に任じられるよう命じた。このため左副承宣となった。
 しかし国事を見るに日に日に悪化していき、同僚も阿諛追従する者たちであったため、同席することを恥じ、願い出て辞職した。枢密院副使に昇進となったが辞退して受けなかった。このときまだ四十歳になっていなかった。
 忠烈王と公主は、良家の娘を選んで皇帝に献上しようと考えた。洪奎の娘も選ばれ、高官たちに賄賂を贈ったが免れなかった。
 洪奎は韓謝奇に言った。「私は娘に剃髪させようと思うがどうだろうか。」韓謝奇は言った。「貴公に難が及ぶかもしれない。」洪奎は聞かず、結局、娘を剃髪させた。
 公主はこれを聞くと激怒し、洪奎を捕縛させると○問させて家財を没収し、娘も捕らえて尋問させた。娘は言った。「私は自分で髪を切ったのであり、父は何も知りません。」公主は娘を地面に固定させると、鉄鞭で乱打し、全身隈なく打ったため、娘は父がやったことだと認めた。
 宰相が言った。「洪奎は国に大功があります。微罪で重刑に処すべきでは在りません。」中賛の金方慶も、病を理由に赦すよう求めたが容れられず、洪奎は海島に流された。まもなく洪子藩が強く求めたため家産は返還されたが、公主の怒りは解けず、娘を元使の阿古大に賜った。翌年、都に呼び戻されて僉議侍郞賛成事・判典理司事となり、致仕した。このとき王が教書を賜った。「(これまでの感謝の内容、略)」
 後に中賛致仕を加えられ、続いて判三司事・守司徒・領景霊宮事とされ、忠宣王の初年に僉議政丞・益城君・知益城府事、忠粛三年に推誠陳力定安功臣・南陽府院君・商議僉議都監事となり、卒去して匡定と諡された。
 子は戎、娘は一人、明徳太后である。

 洪戎は忠粛王の時代に三司使となった。後妻は万戸の黄元吉の娘で、美しかった。洪戎は常に閨房を閉め、親戚であっても会うこと許さなかった。
 洪戎は忠恵王の舅となった。洪戎の没後、内竪の崔和尚が黄氏の美しさを褒めたため、忠恵王は夜中にその家に行き私通した。王は金銀器・綵帛・紵布・米・豆を賜り、黄氏もまた家で宴を開いて王を迎えた。王は罹患中で、王が行った先々の婦人は多くが淋病となった。黄氏もまた病となったため、王は医僧の福山に命じて治療させた。
 戎の先妻は密直の羅裕の娘で、子はシュ(さんずいに樹のつくり)・彦博・彦猷の三人。黄氏の子は子は二人、一人は彦脩で、もう一人の名は記録に無い。
 シュは僉議商議・三司右使・南陽君にまで至り、忠恵王の後三年に卒去した。毎日酒に酔い、蓄財や名利は考えなかった。彦博には別に伝がある。彦猷は重大匡・南陽君、彦脩は検校参知門下府事となった。

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