ナントカ堂 2015/09/21 00:18

宦官の家の使用人

宦官が権勢を振るって、一族どころか家の使用人まで要職に就けるとなると、その者はろくでもない人間、というイメージがありますが、宦官だって数多くいる使用人から人物を見て抜擢しているわけであり、宦官が粛清されると連座して一掃されてしまい、その一党は全否定されてしまうので、どの程度の人物であったかは量りがたいものがあります。
そんな中から運よく粛清を免れた劉玉について『明史』巻百七十五より見て行きましょう。(劉玉が仕えた曹吉祥についてはwikiに記事があるのでそちらをご覧ください)


劉玉、字は仲璽、磁州の人である。生来膂力があり、曹吉祥の家の使用人となった。麓川遠征に従軍して、副千戸を授けられ、軍功を重ねて都指揮僉事となった。天順元年(1457)、「奪門」の功により都督僉事に昇進し、まもなく右参将となり、潯州を守備した。慶遠蛮が博白に攻め入り、広東の寧川にまで及んだので、劉玉は左参将の范信とともに迎撃して破った。まもなく貴州を分担して守ることとなり、方瑛に従って東苗を討ち、干把豬を滅ぼした。西堡の苗族を討ち、その首魁の楚得を捕らえた。数度に渡る戦いで千の首級を挙げ、根拠地を破壊して帰還した。凱旋すると右副総兵となって貴州を鎮守した。曹吉祥が誅されると、劉玉はその部下であったので斬るべきであるとされたが、遠方にいて陰謀に関与していなかったので、死を免れ、左遷されて海南副千戸となった。
天順六年(1462)、帝が谷登を甘粛副総兵にしようとしたところ、李賢が、谷登は任に耐えず、劉玉が経験も能力もあると言った。そこで再び登用されて都督僉事・右副総兵となり、涼州に鎮守した。咎ソウ族が叛乱を起こしたので、兵を合わせて平定し、都督同知に昇進した。
成化四年(1468)、満俊が固原で乱を起こしたので、白圭は劉玉を総兵官に推挙した。劉玉は左右参将の夏正、劉清を従え兵を七つに分けて討伐に向かった。劉玉は総督の項忠とともに石城に到着したとき、賊はすでに官軍を数回破っていた。このとき毛忠が死に、劉玉もまた包囲された。流れ矢が当たり、力戦してようやく包囲から脱出した。対峙すること二ヶ月、大小百十回戦い、ついに乱を平定した。左都督に昇進して、右府の政務を執った。劉玉が自ら以前の西堡の功を訴えたので、俸禄を百石増やして、耀武営を統括するよう命じた。六年(1470)、左副総兵となり、朱永に従って延綏に遠征した。五月、河套部が攻め込んできたので、劉玉は兵を率いてこれを退けた。翌年に卒去して、固原伯を追贈された、諡は毅敏。

劉玉は下僕から身を起こしたが、その勇気と決断力は人より優れ、よく兵士を慰撫して、向かう所必ず勝利した。満俊は、叛逆すると石城の天険に拠り、何度も官軍を破ったが、劉玉は力を尽くして戦った。論功に及び、ただ一階級昇進したのみであったので、当時の人はその恩賞の薄さを残念に思った。子の劉文が指揮使を継いだ。

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