ナントカ堂 2015/09/25 02:23

傅友徳

wikiを始め、私がざっと見た限りでは傅友徳はなんで殺されたのかが分からないとありますのでここに述べましょう。
『明史』には「賜死」つまり自殺を命じられた。とあり、『太祖実録』には本来これくらいの地位の人には卒伝があってしかるべきなのに無く、ただ卒したとのみあります
ただ『名山蔵』や『国榷』には死んだときの状況が記されています(『名山蔵』は明末に完成、『国榷』も大部分が明代に編まれており、明代の史観で書かれ、明末清初に散逸する以前の文書群を見て編まれたものです)
ほぼ同内容なのでここでは『名山蔵』巻五十七から訳してみます



藍玉が誅されると、傅友徳は自分は功が多いので問題ないと考えていたが内心では恐れていた。定遠侯の王弼が傅友徳に「主上はもう先が短く早晩われらを絶やすつもりであろう。われらは合従連衡すべきだ。」と言った。太祖はこれを耳にした。ちょうど冬の宴があり、従者が食べ物を片付けたが、一品だけ片付け忘れた。そこで太祖は不敬であると傅友徳を責め、その上で「汝の二人の子を連れて来い。」と言った。傅友徳が宴会の場から出ると、衛士が出てきて、太祖が、「二人の子を手に携えて(手を繋いで)来るように」と言ったと伝えた。しばらくして、傅友徳が二人の子の首を手に持って入ってきた。太祖は驚いて「どうしてそんなことをしたのか、人としてよくそのようなことができるものだ。」と言った。傅友徳は袖の中から匕首を出すと「われら父子の首が欲しいだけであろう。」と言って自刎した。太祖は怒ってその家族を遼東と雲南の地にばらばらに移住させた。王弼もまた自害した。



『名山蔵』は満洲族を貶める記述があるので清代には禁書で焼却処分にされていたため『明史』の編纂官が目にしなくても仕方ないと思いますが『国榷』なら閲覧できたはずなので、傅友徳の死をぼかすことで太祖が見境無く粛清を行ったように印象付けようとしたのでしょうか
太祖の粛清に関しては『明史』の記述は所々怪しく、例えば『明史』巻百三十二に



九月になって詔を下した。そこにこうある。「藍賊は乱を起こそうとして計画が漏れ、族誅となった者は一万五千人。今後胡党、藍党は赦して不問とする。」



とあり、これが万単位の大粛清の根拠の一つとなっていますが、『太祖実録』巻二百二十九にはそのような記述がありませんし、『皇明異典述』の「誅公侯二特詔」に



明朝では勲臣・大将で藍玉のような輩を誅したが、どれも詔で天下に示したことは無かった。詔を頒布したのはただ、忠国公の石亨、太傅・咸寧侯の仇鸞のみである。



とあって、王世貞がこれほど有名な事件について詔があったかどうか間違えるとは思われず、この詔というものは偽文書でしょう
これも、前王朝をなるべく悪く印象付けようという正史の特性によるものでしょう


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