ナントカ堂 2014/09/18 23:55

明代の名門(1)

『明史』巻百二十五の「徐達伝」に



洪武の諸功臣、ただ徐達の子孫だけに二系統の公がいて、両京に分かれて住む。魏国公の子孫は賢者が多かったが、定国公は代々の皇帝より常に倍の恩寵を受けていた。嘉靖年間に詔により、爵位を継がせるべき家系を整理した際、定国には見るべき功がないという者があったが、結局は爵位を取り上げられることは無かった。



とあります。wikiには徐達と徐輝祖の伝が既にあるので、「徐達伝」よりそれに続く部分を訳してみましょう。

(徐達の)子は四人。輝祖、添福、膺緒、増寿である。長女は文皇帝の后、その次は代王の妃、その次は安王の妃である。



輝祖、初名は允恭。身長は八尺五寸、才気があり、武勲のある家の出であったため左軍都督府の官職に就けられ、達が薨去すると爵位を嗣いだ。皇太孫の諱を避けて輝祖という名を賜った。たびたび陝西・北平・山東・河南に出向して軍務に就いた。元の将の阿魯帖木児は燕府に属していたが、謀叛の志があったため、捕らえて誅殺した。帰還して中軍都督府を統括した。建文の初めに太子太傅を加えられた。燕王の子の高煦は輝祖の甥であった。燕王が挙兵すると、高煦は都に勾留されそうになり、輝祖の名馬を盗んで逃げた。輝祖は大いに驚き、人を遣わして追わせたが追いつけなかった。これが帝の耳に入り信頼されるようになった。しばらくして、山東への援軍の指揮を命じられ、斉眉山で燕の兵を破ったので、燕人は大いに懼れた。そこへ突如として詔が下って召還され、諸将の軍勢は孤立し、相次いで敗北した。燕兵が長江を渡ってもなお、輝祖は兵を率いて力戦した。永楽帝が都に入ると、輝祖は一人、父の祠を守って出迎えなかった。ここにおいて輝祖の罪についての調査書が作成されたが、その調査書には、徐達が建国の功績があり賜った鉄券に死罪を免除するとの文言があると記されていた。永楽帝は激怒して、爵位を剥奪し自宅に幽閉した。輝祖は永楽五年(1407)に卒去した。万暦年間に建文の忠臣が記録され、南都の廟に祀られることになると、輝祖はその筆頭となった。後に太師を追贈され、諡は忠貞とされた。
輝祖が死んだ翌月、永楽帝は群臣にこのような詔を下した。「輝祖は斉泰や黄子澄などの輩と共謀して社稷を危うくした。朕は中山王の大功あることを思い、曲げてこれを赦すこととする。いま輝祖は死んだが、中山王の跡を絶やしてはならぬ。」そこで輝祖の長子の欽に爵位を嗣がせた。九年(1411)、欽と成国公の勇、定国公の景昌、永康侯の忠らはともに横暴な言葉を言ったと官に弾劾された。帝は勇らを諭し、欽には学問を学ばせた。十九年(1421)朝廷に参内すると、突然辞任して帰った。帝は怒り、罷免して庶民の地位に落とした。洪熙帝が即位するとまた元の爵位に戻され、子の顕宗・承宗に伝えられた。承宗は天順の初め(1457)に、南京の守備を任され、併せて中軍府を統括した。公平にして清廉でよく兵士に気を配っていたため、賢明な人物として名声があった。卒去して子のフ(人偏に甫)が嗣いだ。フ、字は公輔、慎重な性格で、容姿も挙措も優れていた。このころ南京の守備は体制が最も充実していた時期で、懐柔伯の施鑑がフと共同で守備していたが、施鑑がフの上の地位にいた。フはこれを不服として朝廷に言上したので、詔により爵位をもって序列を決めることとし、これを法で定めた。弘治十二年(1499)、給事中の胡易と御史の胡献が災異をもって諌言し投獄された。フは上表して両名を救った。正徳年間(1506~1521)、上書して帝が狩りをして遊んでいることを諌めたが、その文言は切実で実直なものであった。かつて無錫の民と田の所有で争いとなり、劉瑾に賄賂を贈ったので、当時の人にこれをそしられた。フは爵位を嗣いでから五十二年にして卒去し、太傅を追贈され、荘靖と諡された。孫の鵬挙が爵位を嗣いだが、妾を寵愛して勝手に夫人に封じて、その妾との間の子を嫡子に立てようとしたため、禄を取り上げられた。爵位は子の邦瑞、孫の維志、曾孫の弘基に伝えられた。承宗より弘基に至るまで六代、みな南京を守備して、軍を指揮し南京の行政を行った。弘基は累進して太傅を加えられ、卒去して、荘武と諡され、子の文爵が爵位を嗣いだ。明が亡んで、爵位を取り上げられた。
増寿は父の引き立てにより仕官して左都督になった。建文帝が燕王の謀叛を疑ったとき、増寿にそのことを尋ねた。増寿はひれ伏してこう言った。「燕王は先帝の兄弟であり、その富と地位はすでに極まっております。どうして謀叛など起こしましょうか。」燕の軍が挙兵すると、増寿は都の実情を何度も燕に報せた。帝はこれに気づいたがまだ詰問しなかった。燕軍が長江を渡るに至って、帝は増寿を召しだして詰問した。増寿は何も答えず、帝は宮殿内で自ら剣を手にして増寿を斬った。燕王は宮殿に入ると、その遺体を撫でて声を上げて泣いた。燕王が即位すると、増寿は武陽侯に追封され、諡を忠愍とした。続いて定国公に進封され、禄は二千五百石とした。子の景昌が嗣いだが、驕慢でたびたび弾劾され、永楽帝はしきりに景昌を諭した。永楽帝が崩御すると、景昌は自宅で喪に服し葬儀に出なかったため、冠と官服を取り上げられ禄を停止されたが、まもなく元通りとされた。三代爵位を嗣いで玄孫の光祚の代になり、軍府の長官を歴任して太師を加えられ、爵位を嗣いでから四十五年に卒去し、栄僖と諡された。位は子から孫の文璧まで伝わり、文璧は万暦年間(1573~1620)に後軍府を統括した。文璧は小心にして帝に対して親のように謹み畏まった。しばしば帝に代わって郊天の儀式を執り行い、太師を加えられた。しばしば上書して、跡継ぎの決定、礦税の停止、囚人の恩赦を願い出た。爵位を嗣いで三十五年に卒去し、康恵と諡された。文璧より爵位を伝えて曾孫の允禎の代になり、崇禎の末(1644)に流賊に殺された。



長男の家系が功臣の筆頭として南京の留守居役兼軍のトップ、四男の家系がより親しまれて皇帝の膝元にいて軍の高官を歴任。
皇族を抜かせば徐達の子孫が明代随一の名門といえるでしょう。


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