ナントカ堂 2014/02/25 23:37

海陵王(2)

海陵王が非難されるべきは大粛清を行ったことにあります。
海陵王の父の宗幹の代から太宗系とは対立しており、熙宗の前で宗磐に刀を突きつけられることもありました。
宗磐はその後、謀叛を起こそうとして誅殺されましたが、その弟らは熙宗に優遇されたため、海陵王が即位したときには、宗本が領三省事として中央政府を押さえていたほか、太宗系が東京留守・北京留守・中京留守を占めており、(以上『金史』巻七十六による)やろうと思えばいつでも海陵王を倒せる状況にありました。
その上、窮鼠猫を噛むような状況で追い詰められてやったとはいえ、海陵王は直接皇帝を殺したため、これを討つのに大義名分も十分でした。
結局、太宗系では海陵王に味方した烏帯のみが残りましたが、司空・左丞相兼侍中となった烏帯は、ある日朝礼に出て、雨が降りそうだから中止だろうと無断で帰り、百官もこれに従いました。
その後出てきた海陵王は朝礼に誰もいないのを見て、皇帝の権威が無視されたことと、官僚が自分よりも烏帯に従っていることで、これを排除することに決め、暗殺しました。
烏帯の猛安謀克はその子の兀答補が継ぎ、兀答補はのちに同知大興尹となりました。(以上『金史』巻百三十二による)
ここで問題なのは烏帯の妻を後宮に入れて貴妃にしたことで、この他にもたびたびこのようなことをして非難を浴びているのですが、あるいは保護する意味合いでもあったのかもしれませんが、ここが儒家の倫理観から隋の煬帝よりも悪いと言われる点です。
天祚帝の子孫を滅ぼしたのは、実際に契丹人の撒八が天祚帝の子孫を擁立して大規模な反乱を起こしたことによります。
決して肯定できないことではありますが、日本でも尼子氏の新宮党事件や頼朝が兄弟と平氏を滅ぼしたりしていますし、粛清自体は歴史的にはそれほど珍しくないと思います。



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