ナントカ堂 2024/01/06 00:08

クビライと死刑

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
新年の挨拶が遅れてしまいましたが、何しろ1/4まで仕事だったものでして。
初詣は元旦に日の出前に行ってからの出勤で、土曜日も仕事です。

 まあそれはそれとして早速今回の本題に。
『元史』巻四の「世祖紀一」にはクビライの即位前のこととしてこのような記述があります。

 壬子の歳、帝(クビライ)は桓・撫間に駐屯していた。
 このころ憲宗は断事官の牙魯瓦赤や不只児らに天下の財政を任せていた。
 ある日、燕に視察に来て、一日に二十八人を殺した。そのうちの一人は馬泥棒で、杖刑に処されてから釈放されたが、たまたま環刀を献じた者が居たため、不只児は釈放した者を追いかけて連れ戻すよう命じ、自らの手で試し斬りした。帝はこう言って責めた。
 「死罪は必ずや詳しく調べてから執行すべきである。今日一日で二十八人殺したが、必ずや無実の者が多く居るだろう。既に杖刑に処されたのに更に斬ったのは、何の刑なのか。」
 不只児は震え上がって答えることができなかった。

 『元史』でも「世祖紀」だけの特徴なのですが、内乱を制して年の初めからクビライの治世となった中統二年以降、必ずその年に死罪となった人数の記述があります。
 例えば中統二年から至元元年だけを見てみても、その年の終わりにはこう記されています。

中統二年
この年、天下の戸は百四十一万八千四百九十九。死罪に処した者は四十六人。
中統三年
この年、天下の戸は百四十七万六千一百四十六。死罪に処した者は六十六人。
中統四年
この年、天下の戸は百五十七万九千一百一十。税は糸七十万六千四百一斤、鈔四万九千四百八十七錠。死罪に処した者は七人。
至元元年
この年、真定・順天・洺・磁・順徳・大名・東平・曹・濮州・泰安・高唐・済州・博州・徳州・済南・濱・棣・淄・莱・河間で大水があった。諸王には例年通りに金・銀・幣・帛を賜った。戸は百五十八万八千一百九十五。死罪に処した者は七十三人。

 このように年末の記述には異同はありますが、死罪に処した数は必ず記しています。
 『元史』本紀は実録を抄出したものと思われますが、クビライの治世には死罪を重視して慎重に行っていたため特記事項として必ず記載していたのではないでしょうか。特に中統四年に死罪になった者が七人なのは、あれほどの人口を抱えている前近代の国家としては少なく思います。

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