ナントカ堂 2023/12/03 16:23

李愍(隋末唐初の宦官)

『両唐書宦官伝』から。『全唐文補遺』所収の李愍の墓誌の訳です。




 君の諱は愍、字は強、隴西の成紀の人で漢の飛将軍の末裔である。大業年間に元徳太子のもとに出仕して、雍州の新豊県に居を定めた。(元徳太子は煬帝の長男で早世)
 君は主に忠実に仕えたが、隋は徳を失い国中が戦乱に巻き込まれた。われらが太宗は民の塗炭の苦しみを見かねて自ら甲冑を身に着けて立ち上がり、自らに矢や石を受けながらも五年間戦い続けた。公は人物を見る目があったためこれに身を投じ太宗を助けた。
 東都の王世充や黎陽の李密らは所詮井の中の蛙であり、公は太宗の幕僚としてこれらを平定した。武徳元年(618、唐の初めの年)に太宗の東征に従い、策を立てて勲功第一となった。詔に曰く。
 「三川平定の際、強らが自らの命も顧みずに戦ったので敵を打ち破り勝利した。」
 そして上儀同となった。公はその後も寝食も忘れて戦い、五年には東郡を平定した。詔に曰く。
 「公らは敵をなぎ払い勝利を収めた。ここに功を賞して褒賞を賜る。」
 上大将軍となり、続いて内侍省寺伯に任命された。貞観元年(627、太宗即位の年)、太宗は配下として戦った旧臣の功労に報い、公は朝散郎・守内謁者監となった。十五年に内給事となり、十七年には上柱国を加えられた。
 公は代々越嶲に住み、酋長の末裔である。貞観年間に太宗が旧臣に南夷を慰撫させようと考えたため公が遣わされた。公は父老には親しく、下吏や豪族には厳格に接し、清廉な者には手を執って交流し、秩序を乱す者には法を以って正した。こうして西南にて成果を挙げ太宗から高く評価されたが、貞観二十三(649)年三月二十三日に病のため崇仁坊の邸宅で薨去した。享年六十二。先に死んでしまった良き友に太宗は哀悼し僚友は心を痛めた。


 晩年について良さげに書かれていますが、おそらくは軍功のある宦官を扱いかねて南方に追いやったのではないでしょうか。正史の類には大功ある李愍についての記述は残されていません。
 北魏の時代には封爵された者も多かった宦官ですが、唐初に宦官を押さえ込む方針が採られたため、以後玄宗の時代になるまでの百年間宦官はさほど目立った活躍は見られません。

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