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ナントカ堂 2024/03/26 22:03

王雱

 日本語版のウィキペディアの「王雱」の項を見ると「野史記載」という箇所が書きかけのようなのですが、私はウィキペディアに書き込むやり方がよく分からないのでここに描きます。
 以下出典は『東軒筆録』巻七から。

 王安石の次子の王雱は太常寺太祝となったが、もともと心の病があった。
 同郡の龐氏の娘を妻とし、翌年、子が一人生まれたが、王雱はその顔が自分に似ていなかったため、様々な手段を用いて殺そうとし、遂には自分自身が心臓が止まって死んだ。妻とは毎日喧嘩をしていた。
 王安石は「我が子が正気を失い、妻には罪が無い」と考えて、離婚させようと考えていたが、悪評が立つのを恐れて、他に婿を選んで嫁がせた。

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ナントカ堂 2024/03/19 22:12

後周の世宗は狭量なのか

『宋史』の一番初め、「太祖紀一」を改めて読んでみたらこのような事が書かれていました。


 顕徳三年、宣祖(宋の太祖・太宗の父)は揚州平定の際に督軍となり、寿春で(後周の)世宗と合流した。
 寿春の餅屋の餅が薄くて小さかったため、世宗は怒り、十数人を捕えて殺そうとした。宣祖が強く諌めたため釈放した。


 他にも本紀に漏れた逸話もあるのに、何でこんな話を入れたのかは知りませんが、世宗は心狭すぎでしょ。

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ナントカ堂 2024/03/05 14:02

張茂則の孫娘

 つい先日、『宋史宦者伝』の修正を出したのに、また新たに修正を出すのは心苦しので、ここに書き込みます。

 張茂則は割と有名人らしく、ネット検索すると色々記事が出るので、本人については割愛します。
 先日修正分には、『元祐党人伝』から下記の記事を加えました。


 張巽は開封の人で、父の張茂則は『宋史』宦者伝に伝がある。元豊年間に左蔵庫副使となった。
 父の張茂則が宿衛と宮省にて四代の皇帝に仕えて清廉で慎ましく忠実に務めたことに報いるために、元豊八年に張巽を西上閤門副使とした。
 紹聖年間に客省副使に改められたが父の罪に連座して皇城副使に改められて鄧州都監として地方に出され、崇宝三年に党籍に入れられた。


 『范太史集』巻四十八を見ていたらこのような記事がありました。


『右監門衛大将軍妻寿安県君張氏墓誌銘』
 君張氏、曽祖父の永和は贈太尉、祖父の茂則は入内内侍省都都知・寧国軍節度観察留後、父の巽は客省副使、母は寿昌県君の高氏。十九歳で右監門衛大将軍の士宥に嫁いだ。
 貞淑で容姿に優れ、祭祀を行って礼に違うことなく、家をよく治めて寡婦の姑に朝夕怠りなく仕えた。
 元祐五年三月戊辰に二十二歳で亡くなった。娘が一人いたが夭逝した。(後略)


 この巻四十八は「皇族墓誌銘」と題されており、張茂則の家系が皇族と通婚する格式を持っていたことが分かります。

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ナントカ堂 2024/02/07 22:24

恵民薬局

 『宋史』と『明史』は食貨志が全て訳されているのに『元史』の食貨志は一部しか訳が無いのが残念なところです。なかなか面白い記事が散見されるわけですが。
 前回、クビライの民衆のための政策を見ましたが、他にも貧民のために恵民薬局を設置しています。「食貨志四」の「恵民薬局」の項に以下のように記されています。


 周官に「医師」あり、医学分野の行政を管掌した。国に病人や負傷者が居た場合、医者を派遣して治療させたため、民は早死にしなくなった。
 元は恵民薬局を設立し、官より鈔を給して元本とし、毎月その利子で薬を準備した。良医を選んで管理させ、貧民を治療させた。これは周官が「医師」を設けた美事を更に深めたものである。

 太宗九年に初めて燕京など十路に局を置き、奉御の田闊闊、太医の王璧、斉楫らを局官とし、銀五百錠を元本として利子を運営費に充てた。
 世祖の中統二年に再び王祐に命じて開局した。四年に上都にも局を置き、中統鈔百両ごとに一両五銭の利息を得た。至元二十五年、元本が失われたため全廃した。成宗の大徳三年になってから、旧例に準拠して、各路に設置した。
 局は全て各路の正官が管理した。良医を配して、上路に二名、下路・府・州には各一名。支給する鈔は民戸の多寡により差を付けた。

腹裏、三千七百八十錠。
河南行省、二百七十錠。
湖広行省、千百五十錠。
遼陽行省、二百四十錠。
四川行省、二百四十錠。
陝西行省、二百四十錠。
江西行省、三百錠。
江浙行省、二千六百十五錠。
雲南行省、真𧴩一万千五百索。
甘粛行省、百錠。

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ナントカ堂 2024/01/06 00:08

クビライと死刑

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
新年の挨拶が遅れてしまいましたが、何しろ1/4まで仕事だったものでして。
初詣は元旦に日の出前に行ってからの出勤で、土曜日も仕事です。

 まあそれはそれとして早速今回の本題に。
『元史』巻四の「世祖紀一」にはクビライの即位前のこととしてこのような記述があります。

 壬子の歳、帝(クビライ)は桓・撫間に駐屯していた。
 このころ憲宗は断事官の牙魯瓦赤や不只児らに天下の財政を任せていた。
 ある日、燕に視察に来て、一日に二十八人を殺した。そのうちの一人は馬泥棒で、杖刑に処されてから釈放されたが、たまたま環刀を献じた者が居たため、不只児は釈放した者を追いかけて連れ戻すよう命じ、自らの手で試し斬りした。帝はこう言って責めた。
 「死罪は必ずや詳しく調べてから執行すべきである。今日一日で二十八人殺したが、必ずや無実の者が多く居るだろう。既に杖刑に処されたのに更に斬ったのは、何の刑なのか。」
 不只児は震え上がって答えることができなかった。

 『元史』でも「世祖紀」だけの特徴なのですが、内乱を制して年の初めからクビライの治世となった中統二年以降、必ずその年に死罪となった人数の記述があります。
 例えば中統二年から至元元年だけを見てみても、その年の終わりにはこう記されています。

中統二年
この年、天下の戸は百四十一万八千四百九十九。死罪に処した者は四十六人。
中統三年
この年、天下の戸は百四十七万六千一百四十六。死罪に処した者は六十六人。
中統四年
この年、天下の戸は百五十七万九千一百一十。税は糸七十万六千四百一斤、鈔四万九千四百八十七錠。死罪に処した者は七人。
至元元年
この年、真定・順天・洺・磁・順徳・大名・東平・曹・濮州・泰安・高唐・済州・博州・徳州・済南・濱・棣・淄・莱・河間で大水があった。諸王には例年通りに金・銀・幣・帛を賜った。戸は百五十八万八千一百九十五。死罪に処した者は七十三人。

 このように年末の記述には異同はありますが、死罪に処した数は必ず記しています。
 『元史』本紀は実録を抄出したものと思われますが、クビライの治世には死罪を重視して慎重に行っていたため特記事項として必ず記載していたのではないでしょうか。特に中統四年に死罪になった者が七人なのは、あれほどの人口を抱えている前近代の国家としては少なく思います。

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