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2019年 11月の記事 (9)

ナントカ堂 2019/11/27 00:56

明代宦官で気になる書籍・論文

今回は手短に
明代宦官についてはまだまだ先になると思いますが

『明代宦官文学与宮廷文芸』
宦官の作った詩文や戯曲、史書について

『咸陽世家宗譜』
鄭和の養子の子孫の現代に至る系譜

「明代宦官与清真寺」
明代の西域系宦官とイスラム信仰

「明末奉教太監ホウ(广に龍)天寿考」
『永暦実録』等儒者視点では悪党とされているホウ天寿が
現地にいたイエズス会士の記録では誠実な人物とされている

あと、曹吉祥の謀叛の加担者に達官(モンゴル系)が多いとか
『今言』にある
即内臣、如王岳、徐智、范亨、懷恩、覃昌、鎮守陝西晏宏、河南呂憲、皆忠良廉靖、縉紳所不及也。
(内臣(宮中宦官)では王岳・徐智・范亨・懐恩・覃昌、鎮守(太監=地方監軍宦官)では陝西の晏宏、河南の呂憲はみな忠良で清廉で、縉紳も及ばない。 )
とか

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ナントカ堂 2019/11/23 23:05

金就礪/武臣政権後も家系が残った武臣

 先日、武臣政権の中堅クラスの生き残りである趙仁規の家について述べましたが、今回は金就礪について。

 『高麗史』巻百三の金就礪の本伝には「父の富は礼部侍郎」とありますが、『高麗史』巻二十/明宗十六年十二月辛丑条に「上将軍の崔世輔を同修国史に、将軍の崔連と金富を礼部侍郎にした。」とあり、本来は武臣であったものが文職を帯びたものです。
 金富について『高麗史』にはこの二箇所しか触れられていませんが、『櫟翁稗説』前集二には癸巳の乱のときのエピソードが載せられています。梅山秀幸氏訳の『櫟翁稗説・筆苑雑記』の「武将の情けを見せた陳俊と金富(p.69~71)」から、金富に関する箇所を以下に引用します。


 金甫当が兵を起こして、毅宗の復位を謀ったものの、失敗してしまい、文士たちは虱潰しに探されて殺害された。中央と地方の人心は、朝な夕なにいったいどうなることかと、恐々とするばかりであった。
 郎将の金富が鄭仲夫と李義方に、
 「天の意志を知ることができず、人の心を推し量ることができない。われわれは今、力を恃んで、義理を考えずに、ソンビたちを草木のように殺しているが、天下にどうして金甫当のような者がまた現れないであろうか。われわれの中に息子や娘がいる者がいれば、むしろ文官たちの家と婚姻を結び、彼らを安心させる方が、われわれの世を長く保つことになるのではないだろうか」
 といったので、みながそのことばに従うようになった。そうして後、この禍は収まっていったのである。
(中略)
 金富の息子の金就礪とセン(人偏に全)は二代にわたって首相となり、その後にも今に至るまで、高い地位につく者たちが多い。


 また本人の墓誌には、祖父の彦良は金吾衛摂郎将、母は検校将軍校郎将の宋世明の娘とあります。
 では『高麗史』巻百三から金就礪の伝を見ていきましょう。


 金就礪は彦陽の人で父の富は礼部侍郎である。金就礪は蔭位により正尉に任じられ、選ばれて東宮衛に入り、累進して将軍となり、東北界に鎮守して、大将軍となった。康宗の時代に塞上を巡撫して辺境の民から畏愛された。
 高宗の三年、契丹の遺種の金山王子と金始王子が河朔の民を脅かし、自ら大遼の收国王を称し、元号を天成とした。このため蒙古は大軍で討伐した。二王子は東を席巻し、開州館で金軍三万と戦った。金軍は敗れて大夫営に撤退した。二王子は進軍して、人を遣わし北界兵馬使にこう伝えた。「汝らは食糧を送って我らに加勢せよ。さもなくば必ずや汝らの領内に攻め入り奪おう。我らは後日、黄旗を立てるので、汝らは来て皇帝の詔を聞け。もし来なければ汝らを攻撃する。」期日になり果たして黄旗が立てられたが、兵馬使は行かなかった。
 翌日、二王子は将の鵝児乞奴に兵数万を指揮させ、鵝児乞奴の軍は鴨緑江を渡り寧や朔などの鎮を攻め、城外の財物・穀物・家畜を奪って去った。その翌日には義・静・朔・昌・雲・燕などの州を攻め、宣徳・定戎・寧朔の諸鎮に妻子を連れて山野に分け入り、穀物を刈り牛馬を捕らえて食した。留まること一ヶ月あまり、食が尽きたため雲中道に移った。
 ここに上将軍の盧元純を中軍兵馬使、知御史台事の白守貞を知兵馬使、左諌議大夫の金蘊珠を副使、上将軍の呉応夫を右軍兵馬使、崔宗峻を知兵馬事、侍郎のユ世謙を副使、金就礪を後軍兵馬使、崔正華を知兵馬事、陳淑を副使とし、十三領軍と神騎を指揮させた。
 三軍が朝陽鎮に至ると、朝陽の人が「契丹軍は既に近くまで来ています」と報せた。三軍は各々別抄百人と神騎四十人を遣わし、先遣隊が阿爾川の岸まで来ると契丹軍と戦闘になり、高麗軍はやや後退した。神騎郎将の丁純祐が敵中に突撃して、纛を持つ者を斬ると、契丹軍は壊走した。勝ちに乗じて八十人の首を挙げ、二十人以上を捕虜とし、楊水尺(工匠)一人を捕らえ、牛馬数百頭と大量の符印・武器を得た。このため丁純祐は将軍となった。
 続けて三軍は連州の東洞で契丹軍と戦い、百人以上を斬った。契丹軍三百人あまりが亀州の直洞村に陣を敷いたため、軍候員の呉応儒が歩兵三千五百人を率い、兵に枚を噛ませて攻撃した。散員の咸洪宰・甄国宝・李稷、校尉の任宗庇らが二百五十人を斬り、三千人あまりを捕虜にし、多くの牛馬・武器・銀牌・銅印を得た。
 三軍は更に亀州の三岐駅で二日間戦い、二百十人斬り、三十九人を捕虜とした。将軍の李陽升も長興駅で契丹軍を破った。
 契丹軍は昌州から延州の開平駅と原林駅に移り、終日両駅を行き来した。高麗軍は神騎の将を遣わして追撃し、新里で契丹軍と遭遇して百九十人を斬った。
 高麗軍が延州に進軍すると、光裕・延寿・周テイ・光世・君悌・趙雄の六将は獅子岩を、永麟・迪夫・文備の三将は楊州を守った。
 翌日、九将は朝宗戍で戦い、七百六十人以上を討ち、多くの牛馬・牌印・武器を得た。契丹軍は兵を分けることができなくなり開平駅に集結した。諸軍は敢えて前進せず、右軍は西山の麓に布陣し、中軍は平野で契丹軍を待ち構えたが、やや退いて独山に陣を敷いた。金就礪は剣を抜き馬に鞭打つと、将軍の奇存靖と共に敵陣に突入し、陣を出入りして奮撃し、契丹軍を壊滅させた。追撃して開平駅を過ぎると、駅の北にいた契丹軍の伏兵が中軍を急襲した。金就礪は引き返すと契丹軍を討ち、壊滅させた。
 その夜、盧元純は金就礪に言った。「敵は大軍でわれらは少数。また右軍も到着していない。兵糧を三日分しか持ってきておらず、それも今や尽きた。延州城に撤退して後続を待つ他は無い。」金就礪は言った。「わが軍は連勝して士気が上がっている。この勢いに乗って攻撃すべきだ。一戦してからまた話し合おう。」
 契丹軍は墨匠の野に布陣して士気も高まっていた。盧元純は急ぎ金就礪を呼び出すと、黒の幟を掲げて信頼の証とした。高麗軍は士卒は白刃を冒してわれ先に進み、全員が一人当千。金就礪は文備と共に敵陣を横から切り込み、向かう所なぎ倒して三戦三勝。金就礪の長子が死に、契丹軍は香山に逃げ込んで普賢寺を焼いた。高麗軍が追撃して二千四百人以上を斬り、南江の溺死者も千数に上った。契丹軍の残りは夜中に昌州に逃げ、婦女・小児が路傍に打ち捨てられて、多くの牛が鳴いているかのように号泣した。
 残った者の内の一人が武器を捨て、自ら官人と称して直に出るとこう言った。「われらが貴国の辺境を荒らした罪を負わなければならないことは分かっています。しかし婦人や子供は何も知りません。無益に皆殺しにすることの無いよう願います。また害されないのであれば、われらは言われた期日通りに国に帰ります。」金就礪は「汝の言葉を信じよう。」と言うと、共に酒を気持ち良く飲み、立ち去らせた。
 まもなく鵝児乞奴から書状が送られ、かの官人が約束したのと同じ内容であった。三軍が各二千人を遣わして、撤退した後を見に行かせると、契丹軍が放棄していった兵糧や武器が道に散乱していた。牛馬は腰が斬られたり後ろを刺されたりしていて、獲得しても使えないようにしたのであろう。
 六千人を遣わして清塞鎮で戦い多くを討ち取った。平虜鎮都領の禄進もまた攻撃して七十人を討った。契丹軍は清塞鎮を越えて遁走した。
 一説にいう。香山で戦い敵将の只奴が矢に当たって死んだ。只奴は金山軍の全てを率いていた。一人の婦人を捕らえると言った。「私は鵝児の妻のだ。私の夫は薬山寺に入った時に只奴に殺され、只奴が軍を指揮した。」
 高麗軍が延州に到着すると、敵軍が後方から大挙して国境を越えたとの報せが入ったため、内廂だけ残して自衛させ、それ以外の全軍で出撃した。後軍は単独で楊州で契丹軍に遭遇し数十から百ほど討ち取った。中軍と右軍は先に博州に向かい、後軍の金就礪は輜重を守ってゆっくり進んだ。沙現浦に到着すると、契丹軍が輜重を狙って突撃してきたので、金就礪は中軍と右軍に危機を報せた。しかし両軍は守りに徹して救援に向かわなかった。金就礪は力戦して撃退し、輜重を守って到着した。
 盧元純は西門外で出迎えると言った。「突如強敵が現れて、よくその鋭鋒を打ち砕き、三軍の輜重を全く失わなかったことは、公の力によるものである。」そして馬上にて酒を掲げて祝った。中軍・右軍の将士と諸城の父老は皆で叩頭して言った。「今、強敵に立ち向かうのは困難なことです。開平・墨匠・香山・原林の戦いで後軍は常に先鋒となり、少数で大軍を打ち破りました。われらは疲弊し自分の命を守るだけで精一杯で何のご恩返しもできず、ただ戦勝を祝うだけです。」
 契丹軍は再び集結し、連日昌州門外で武威を示した。契丹軍百五十人が昌州を攻めると、高麗軍は敗走させた。高麗軍は博州に陣を敷き、興郊駅の契丹軍を夜襲して四十人あまりを捕らた。翌日、洪法寺で夜戦して勝利し、その翌日には将軍の金公セキが百人あまりの契丹軍と州城の門外で戦い、五十人あまりを討ち取った。金公セキは自身の手で、銀牌を佩びた者を斬った。高麗軍は城に入って休息し、契丹軍は夜中に清川江を渡って西京に向かった。
 高麗軍は渭州城外で契丹軍と戦って惨敗し、将軍の李陽升ら千人あまりが死んだ。この報せが都に届くと、城中の人が泣いた。契丹軍は西京城外に至ると、安定駅・林原駅・タン華寺・妙徳寺・花原寺にいた人を皆殺しにしたが、高麗軍は阻止できなかった。契丹軍は氷結した大同江を渡って遂には西海道に入り、黄州の住民を皆殺しにした。
 翌年、金就礪は金吾衛上将軍となった。また承宣の金仲亀が派遣され、金仲亀は南道の兵を率いて合流ようとしたが、陶公駅で契丹軍と戦闘となり惨敗した。
 これより前、中軍の求めにより、左承宣の車テキが前軍兵馬使、大将軍の李傅が知兵馬事、礼部侍郎の金君綏が副使、上将軍の宋臣卿が左軍兵馬使、将軍の崔愈恭が知兵馬事、刑部侍郎の李実椿が副使となり、先発の三軍と合わせて五軍となった。五軍は安州の太祖灘に到着すると契丹軍と戦って大敗し、逃げ戻った。契丹軍は勝ちに乗じて追撃した。金就礪は文備・仁謙と共にこれを迎え撃ち、仁謙は流れ矢に当たって死んだ。金就礪は剣を奮い一人で敵に立ち向かうと、槍と矢を相次いで身に受け、重傷で帰還した。契丹軍は高麗軍を追って宣義門まで至ると引き揚げた。そして牛峯を攻め、臨江の長湍に向かった。
 ここで五軍は改められ、呉応夫が中軍兵馬使、大将軍の李茂功が知兵馬事、少府監の権濬が副使、上将軍の崔元世が前軍兵馬使、郭公儀が知兵馬事、戸部侍郎の金奕輿が副使、借将軍の貢天源が左軍兵馬使、司宰卿の崔義が知兵馬事、将作監の李勣が副使、借上将軍の呉仁永が右軍兵馬使、借衛尉卿の宋安国が知兵馬事、侍郎の秦世儀が副使、上将軍の柳敦植が後軍兵馬使、崔宗峻が知兵馬事、陳淑が副使となって、防衛することとなった。
 五軍は出陣せず、柳敦植だけが交河に向かおうとした。呉応夫は人を遣わしてこう引き止めさせた。「契丹軍は積城周辺にいる。軍を引き返せ。」柳敦植は聞かず、四軍合同で契丹軍を攻撃するよう求めた。四軍はこれに従い、積城まで行ったが契丹軍はいなかった。
 契丹軍が東州を攻め落とすと、崔忠献はこう奏上した。「契丹兵は東州を通過して南下する構えを見せています。五軍はぐずぐずして戦わず、徒に兵糧を消費しています。そこで呉応夫を罷免して、その子と婿の官職を剥奪し、前軍兵馬使の崔元世を後任に就けて、金就礪を前軍兵馬使とすることを願います。」王はこれに従った。
 契丹軍は交河を目指して澄波渡を渡り、高麗軍はこれと楮村で戦って撃退した。高麗軍はこのような戦勝報告を行った。「敵が豊壤県の曉星ケンまで来ると、わが軍はここで闘うことを決めました。横灘を渡ろうとすると、敵は後方から攻撃し、左軍が先に戦い敗走したため、中軍と後軍が山を回って敵の背後に出て攻撃し、撃退しました。更にこれを盧元駅の宣義場まで追撃して多くを討ち取り、敵は大量の牛馬・衣服・兵糧を捨てて逃げました。」このとき隊正の安彭祖が矢傷を負って帰ってきて、言った。「敵の死者はたったの二人。その他の死者は全てわが軍である。」
 前軍と右軍が砥平県で戦って契丹軍を破り馬千頭あまりを獲得した。
 契丹軍は安陽都護府を攻め落とし、按察使の魯周翰を捕らえて殺し、官属も多数殺された。
 契丹軍が原州に入ると、州人は長期間対峙し、九回戦って兵糧が尽き、援軍も無かったため、遂には陥落した。
 前軍と右軍は惨敗し、大将軍の任輔を東南道加発兵馬使とし、城中から公私の奴○を徴発して兵とし出陣させた。前軍と右軍は楊根と砥平で契丹軍と遭遇すると、何度か戦闘となって金銀牌と傘子を取った。崔忠献はこれを褒め、郭公儀を衛尉卿、右軍兵馬使の呉孝貞を上将軍とした。郭公儀は以前に収賄で免官となっていたが、この功により復職した。
 高麗軍は敵を追って黄驪県の法泉寺に至り、更に次禿岾に移ると崔元世は言った。「これから先の道は二手に分かれている。われらはどちらに行けば良いだろうか。」金就礪は言った。「軍を二手に分けて契丹軍を挟撃すれば良いでしょう。」崔元世はこれに従った。
 翌日、麦谷で合流して契丹軍と戦い、三百人あまりを討ち取った。提州の川に迫ると、流された契丹軍の死体が川面を覆って流れていった。
 三日後、契丹軍を追って朴達ケンに至ると、軍勢を率いた任輔と会った。崔元世は金就礪に言った。「嶺の上には大軍は留まれない。山から下りて陣を敷こうと思う。」金就礪は言った。「用兵術では人の和を重視しますが、地の利も重要です。もし敵が先に嶺を占拠してしまい、われらはその下にいれば必ずや敗れるでしょう。」高麗軍は嶺に陣を敷いた。
 夜が明けると果たして契丹軍は嶺の南に進軍し、先に数万人が左右の峰に分かれて登り要害を占拠しようとした。金就礪は、将軍の申徳威と李克仁に左を、崔俊文と周公裔を右を任せて、自身は中央を進んだ。兵士は全員死力を尽くして戦い、これを見た他の軍も我先にと戦って、契丹軍を壊滅させた。老弱・男女・兵仗・輜重は散乱したまま放置され、契丹軍は南下できずに全員東に逃げた。これを溟州の大関山嶺まで追撃すると、将兵はそれ以上の追撃に不安を覚え、一旦退いて、十日後に進軍すると、契丹軍は既に嶺を越えていた。
 中軍・左軍・前軍が再び契丹軍を追って溟州の毛老院に至り、打ち破って玉帯・金銀牌・武器を獲得した。契丹軍が溟州を包囲すると、四軍はこれを追ったが、後軍は追いつけずに剛州に陣を敷いた。右軍は登州で契丹軍と戦って敗れ、陣主の呉守貞が死んだ。
 契丹軍は咸州に急行し、遂には女真の地に入ったため、高麗軍はそれ以上追撃しなかった。中軍からの求めに応じて、金就礪は兵を率いて定州に移り敵情を窺った。そして中軍にこう報せた。「契丹軍は咸州にいてわれらとは近く、互いの鶏や犬の鳴き声が聞こえます。」金就礪は鹿角垣を築き三重の堀を構えると、李克仁・盧純祐・申徳威・朴ズイの四将に守らせて、自身は興元鎮に移った。
 契丹軍は女真軍の加勢を得て再び盛り返し、長駆して襲来した。金就礪が兵を率いて定州に戻ると、豫州の柱川で契丹軍と遭遇したが、互いに引き下がって分かれた。
 このとき金就礪は突如病となり、将佐が戻って療養するよう勧めた。金就礪は言った。「たとえ辺城の亡霊となろうとも、家での安楽は求めない。」更に病状が悪化したため、勅により、都に帰って養生することとなり、肩輿で都に運ばれて数ヶ月療養した。
 金就礪が留めた兵は渭州で戦って敗れ、契丹軍は再び終結して高州と和州を攻め、寧仁鎮・長平鎮・豫州を陥落させた。
 ここに五軍と加発兵は廃されて三軍が置かれ、文漢卿が中軍兵馬使、李実椿が知兵馬事、李得喬が副使に、貢天源が左軍兵馬使、宋安国が知兵馬事、金奕輿が副使に、李茂功が右軍兵馬使、権濬が知兵馬事、金沿亮が副使になった。
 翌年、契丹軍が大挙して襲来したため、守司空の趙冲が西北面元帥、金就礪が兵馬使、借将軍の鄭通宝が前軍、呉寿祺が左軍、申宣胄が右軍、李霖が後軍、李迪儒が知兵馬事となって、王自ら鉞を授けて出陣させた。趙冲や金就礪らは契丹軍と数回戦って破り、契丹軍は勢いが弱まって江東城に撤退した。
 哈真札刺と完顔子淵が契丹追討のため江東に向かい、人を遣わして兵糧を求めた。諸将はみな行くことを憚ったが、金就礪は言った。「国の利害は正に今日にあり。もし断れば後悔するだろう。」趙冲は言った。「私も同意見だ。しかしこれほどの大事ではよほどの人物を遣わさなければならぬ。」金就礪は言った。「ここで辞しては臣下の勤めは果たせない。私は非才だが貴公と共に行こう。」趙冲は言った。「軍中の事は貴公を頼りとしている。行くべきではない。」
 翌年、金就礪は知兵馬事の韓光衍と共に十将軍の兵と神騎・大角・内廂の精鋭を率いて出発した。哈真は通事の趙仲祥を遣わし金就礪にこう伝えた。「これでわれらの友好は結ばれた。先に蒙古皇帝を遥拝し、次に万奴皇帝を拝礼すべし。」金就礪は言った。「天に二日無く、民に二王無し。天下に二帝がいるはずがない。」ただ蒙古皇帝のみ遥拝した。
 金就礪は身長六尺五寸、成人すると鬚は腹より下に伸び、盛服するたびに必ず二人の婢子が両脇から鬚を掲げて帯をしめた。哈真はその立派な風貌を見、更にその言葉に只者ではないと感じて、呼び寄せると同座し、まずは何歳か聞いた。金就礪は言った。「もうすぐ六十歳だ。」哈真は言った。「私はまだ五十歳で一家を成している。貴殿が兄、私が弟になろう。」そして金就礪を東向きに座らせた。
 翌日、再び陣に行くと哈真は言った。「私は今まで六国を征伐して多くの貴人を見てきた。しかし兄者のような風貌の人は見たことが無い。兄者の立派さを見るにその麾下の士卒も優れているのであろう。」そして金就礪が陣に戻る際、手を執って入り口を出、介助して馬に乗らせた。
 数日後、趙冲が来ると哈真は「元帥と兄者ではどちらが年長か」と尋ねたので、金就礪は「元帥の方が年長だ。」と答えた。そこで趙冲が陣中に入ると上座に座らせて言った。「まずは一言言いたい。非礼の恐れはあるが、親愛の情は外したくない。私は両兄の間に座りたいが、如何か。」金就礪は言った。「それはわれらも考えていたが、言い出せずにいた。」一同着席して酒を飲み楽しんだ。蒙古では、親愛の情を示すのに肉を刀で刺し互いに食べさせあうという風習があった。高麗軍は勇猛ではあったが、これにはみな難色を示した。趙冲と金就礪は立ち上がるとこれを受け、哈真らの喜びは最高潮となった。哈真はよく酒を飲んだが、趙冲と飲み比べをして負けた方が罰を受けることとなった。趙冲は多くの杯を空けたが酔った様子は無く、最後の一杯を掲げると口をつけずに言った。「これが飲めないわけではないが、もし勝てば約束があるので貴公は罰を受けなくてはならない。それならばいっそ私が罰を受けよう。」哈真はその言葉に大いに喜び、翌朝、江東城の前三百歩の地点で会うことを約束した。
 哈真は城の南門から東南まで深さ十尺の池を掘り、西門以北は完顔子淵に、東門以北は金就礪に委ね、契丹軍の逃亡を防ぐため全軍で堀を掘った。契丹軍は追い詰められ、四十人あまりが城壁を越えて蒙古軍に投降した。契丹軍主将の喊捨王子は自害し、官人・兵卒・婦女五万人あまりが城門を開き降伏した。哈真と趙冲は状況を視察すると、王子の妻と子、僞丞相・平章以下百人あまりを馬前で斬り、その他は全て助命して諸軍に守らせた。哈真は言った。「われらは万里の彼方から来て貴国と力を合わせて契丹軍を破った。これは千載一隅の幸である。本来ならば貴国の王の元に行って拝礼すべきであるが、わが軍は多く、高麗の都は遠いため行くことは難しい。ただ使者を遣わして謝礼するだけにしよう。」哈真札刺は趙冲と金就礪にこう言って盟を結ぶことを求めた。「両国が永らく兄弟となり、万世子孫、今日のことは忘れない。」趙冲は宴席を設けて兵を労った。哈真は、婦女と子供七百人、契丹軍に捕まっていた高麗人二百人を引き渡し、十五歳前後の女を趙冲と金就礪に各九人、駿馬各九頭を贈り、その他は解放した。趙冲は契丹の捕虜を州県に分けて送り、広大な未開拓地に住まわせて田を給し、農業を営む民とした。これが俗に契丹場と呼ばれるものである。
 この年、義州の賊の韓恂と多智が守将を殺し、諸城が呼応して叛いた。枢密副使の李克ショに中軍を、李迪儒に後軍を、金就礪に右軍を指揮させて討伐させた。
 翌年、金就礪は枢密副使を拝命して、李克ショに代わって中軍を指揮した。韓恂・多智らは金の元帥の于哥下の配下となることを申し出、于哥下は二人を誘い出すと首を斬り、都に送った。三軍は、諸城が逆賊に加担した罪を裁くよう求めた。金就礪は言った。「『書経』に、「賊の首魁を殲滅すれば、脅されて従った者は処罰しない。」とある。大軍が臨めば燎原の火の如く無辜の民は被害を受ける。まして今は契丹のために関東は荒れ果てている。今、軍で攻撃すれば、自ら藩屏を撤去するようなものだ。残りの者は全て不問に付すべし。」
 金就礪は郭元固・金甫貞・宗周秩・宗周賚らを義州に遣わして残りの民を安心させた。しかし宗周賚は貪欲で多くの賄賂を取り、賄賂を出さない者は理由をつけて誅殺したため、州人は怨み、賊党の尹昌らを城内に引き込んで宗周賚らを殺した。郭元固と金甫貞は逃れてこれを報告した。金就礪は、判官の崔弘と録事の朴文挺を遣わして禍福を以って説得させ、続いて大将軍の趙廉卿と将軍の朴文賁に兵五千を指揮させて討伐に向かわせた。尹昌らは逃亡し、賊党は瓦解した。
 このとき契丹の残党が寧遠の山中に潜伏し、時折山を下りては盗みを働き民に害を成していた。金就礪は、李景純と李文彦を遣わしてこれを撃破したので、北境は安定した。
 翌年、枢密使・兵部尚書・判三司事を拝命し、まもなく参知政事・判戸部事に昇進、十五年に守太尉・中書侍郎・平章事・判兵部事となり、最終的に侍中となって、二十一年に卒去した。諡は威烈。
 金就礪は慎ましやかで実直、忠義心があり軍紀に厳しく、配下の士卒はわずかたりとも軍紀を犯さなかった。酒が手に入ると最も下の者とも均しく分け合って飲んだため、皆が死力を尽くして戦った。江東の役では万事趙冲を立て、戦いに臨んでは敵を制し、多くの奇計を用いて大功を立てたが、それを誇ることは無かった。相となると厳粛な態度で臨んだため、下の者は敢えてごまかすようなことはしなかった。高宗の廟に配祀された。

 子のセン(人偏に全)は門下侍郎平章事となった。その子は良鑑・イン(君に頁)・仲・保・ヘン(貝に并)で、良鑑の子は文衍である。


子や孫たちについてはまた次回。

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ナントカ堂 2019/11/20 21:20

崔忠献の意見封事十箇条

 高麗武臣政権五代目執政で崔氏政権初代の崔忠献が、政権掌握直後に弟の崔忠粋と共に明宗に上奏した十ヶ条です。(『高麗史』巻百二十九 崔忠献伝)
(政変直後に出したもので、儒者を頼れる状況ではなく文飾もほぼ無いので、自分で書いたものと思われます)


①その昔、太祖は三韓を統一すると、松嶽郡に都を占定して宮殿を建てたため、子孫は王として永く続いています。近ごろ宮殿に火災があり、新たに建てましたが、壮麗であるとして長らくお移りになっていません。これは陰陽に反することになります。陛下には、ただ吉日に宮殿に移り、天より永命を受けられますように。
②わが国の官制では官位により禄が決まっていますが、近ごろではこれに差異が生じ、また両府などに不要な官職が置かれて、禄が不足して大きな弊害になっています。陛下にはいにしえに準拠して官を削減し、適切に任官されますように。
③先王の決めた土地制度では、公田以外を臣民に賜る場合、各々の地位に応じて規定がありますが、官職に在る貪欲な者は、公私の田を奪い有して、その一族の田は州郡を越えて広がっています。このため国の税は減り兵士も不足しています。陛下は担当官に勅を下し、公文書を確認させて、有力者が奪った土地が元の持ち主に返還されますように。
④各種の租税は全て民から出ています。民が困窮すればどこから取れば良いのでしょうか。下吏の一部には良く無い者がいて、ただ利を追求し、放置すれば民を侵害します。また権力者の家奴が権利を主張して二重に田租を徴収し、民はみな苦しめられています。陛下には、有能な人物を地方官に任じて、権力者が民を破産させる様なことを無くされますように。
⑤朝廷が使を派遣して両界を統括させ五道を巡察させるのは、下吏の悪事を止めさせて民を守るためです。今、諸道使らは、巡察させても実情が分からず、供進を名目に誅求するだけで、負担をかけて輸送させ、あるいは自分で着服しています。陛下には、諸道使の供進を禁じ、使の職務を民情の調査のみに限定されますように。
⑥今、一、二の僧が常に王宮を徘徊して寝所にまで入り、陛下を仏説で惑わし、何事にも優遇されています。僧たちは寵遇を良いことに、政治に干渉して陛下の徳を汚しています。更に陛下が内臣に仏教関連の事務を任せたため、その者が民に穀物を強○的に貸付けて利息を取っています。その弊害は小さくありません。陛下には僧たちを排除して王宮に入れず、強○貸付も中止されますように。
⑦近ごろ郡国の下吏の多くが貪欲で恥知らずな行いをしていますが、諸道使は罪を問いません。また仁があり清廉な者がいても評価されません。悪を放置し清廉でも益が無ければ、どうして勧善懲悪ができるでしょうか。陛下には、両界都統と五辺按察使に命じて、下吏の能力を調べさせ、詳しく現状を報告させて、能力ある者を抜擢し、不正を行う者を処罰されますように。
⑧今の廷臣はみな倹約を知らず、自宅を改築し、服や玩具を集めて、珍宝を飾ることを褒め称えます。風俗は退廃し、このままでは近くわが国は滅んでしまいます。陛下には具体的に百官に訓戒し、華侈を禁じ倹約を尊ばれますように。
⑨先王の聖代には必ず山川の順逆を観て仏寺を建てていました。後代になって将相群臣、無頼の僧尼らは山川の吉凶を観ずに仏寺を建て、祈願所とは言っても、実際には地脈を損傷し災厄をたびたび起こしています。陛下には陰陽官にこれを検討させ、有益で無いものは廃して、後世に悔いを残されませんように。
⑩省台の臣は意見を述べることが仕事です。そのため主君に至らぬところがあれば敢えて諌めるのです。このため御心に沿わなくても甘んじて聞き入れるべきなのです。それが今や皆、阿諛追従しています。陛下には、良い人材を選んで、直言の人を朝廷に置き、場合によっては聞き入れられますように。


 つまり、李義ビンへの嫌悪や派閥争いだけでなく、改革への意思とビジョンがあって取って代わったのです。
 正史特有の、前政権は故意に悪く書く傾向に加え、武臣が支配していたことに対する嫌悪感に増幅され、武臣政権は殷の紂王並に改変されているのかもしれません。
 (上奏文などは、後世に文章を書く際の参考にもなるのであまり改変しない)

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ナントカ堂 2019/11/19 19:22

趙仁規とその子孫

さて前回「柳清臣は趙仁規に付き従って尽力し功を立てた。」とありましたが、趙仁規も同じくモンゴル語を身につけて出世した人物で、その伝は『高麗史』巻百五にあります。


 趙仁規、字は去塵、平壤府の祥原郡の人である。日が懐中に入るという夢を母が見て、趙仁規を妊娠した。早くから利発で、成長すると学問を始め、凡その文義に通じた。朝廷で、有力者の子弟から蒙古語を学習する者を選んだ際、趙仁規も選ばれたが、同輩と同程度にしかならなかったため、家に籠もって三年間昼夜問わず勉強し、遂には名を知られるまでになった。諸校となり、累進して将軍となった。
 忠烈王の時代、趙仁規の麾下の兵三人が、南京の民八人と共にカワウソを捕る戸となって、多くの民がこれに組して税を逃れた。この者達は毎年、敬成宮にカワウソの皮を納め、半分が趙仁規のものとなった。南京司録の李益邦が兵三人を捕らえると、趙仁規は公主に「南京の下吏が敬成宮の経書を破り捨てました。」と訴えた。公主は怒り、李益邦と副使の崔資寿を捕縛させると、将軍の林庇に尋問させた。林庇は実情を得て報告し、公主は共謀していた民を元の籍に戻して二人を流罪としたが、二人はまもなく釈放された。
 元の宰相が皇帝に鷹坊の弊害を訴えると、王は怒り、元朝に奏上して、皇帝から信頼されている回回人に鷹坊を管理させ、宰相が口出しできないようにしようとしたが、趙仁規が強く反対したため取りやめた。
 趙仁規が右承旨を拝命したとき、王が中書省にこう上書した。「陪臣趙仁規は蒙古語と漢語に通暁し、朝廷の詔勅を訳して文字を誤った事がありません。私が昔、元の朝廷の侍衛であったときから付き従い、公主に朝夕よく仕えています。そこで趙仁規に牌を賜り、王京脱脱禾孫兼推考官頭目に任じられることを願います。」元は趙仁規を宣武将軍・王京断事官・脱脱禾孫に任じ、金牌を賜った。そのときの王の教書に曰く。「趙仁規は東征時に天子に奏上するに当たり良く務めた。私が中書左丞相となり、群臣に都元帥・万戸・千戸の官職と、金牌・銀牌を賜ったのも全て趙仁規の功である。別に功を録して田と民を賜り子孫を登用する。」
 王が南門にいたとき、中賛の金方慶が酔って馬に乗り通り過ぎた。趙仁規は以前から、金方慶と権力を争っていたため、この機に乗じて讒言した。金方慶は巡馬所に捕らえられた。
 その後、趙仁規は知密直司事・僉議賛成事・都評議録事を歴任した。
 金温の妻が夜中密かに妹の家の財を盗んで捕らえられた。妹の夫は趙仁規と姻戚であったため、趙仁規は金温の妻を縛って杖で打った。人々はこれを非難した。
 王が趙仁規を中賛にしようとすると、趙仁規は「君恩は大変ありがたいのですが、洪子藩は徳望があって長らく冢宰を勤めています。ここで臣が突然その上になれば人々はどう言うでしょうか」と固辞したため、その時は取りやめたが、まもなく中賛となり、更に左中賛となった。
 宰枢が時弊三ヶ条を奏上すると、王は怒った。趙仁規は自分にも累が及ぶことを恐れ、内々に王にこう言った。「先ほどの三ヶ条は臣の与り知らぬ事です。お調べください。」そこで王は都評議録事の李紆を巡馬所に捕らえ、万戸の高宗秀に命じて、発案者は誰かと尋問させた。高宗秀の○問に李紆は堪えかね、李混だと答えたため、李混は罷免された。
 二十四年に司徒・侍中・参知光政院事を加えられた。
 趙仁規の娘は忠宣王の妃であったが、ある人が匿名で宮門にこのような張り紙をした。「趙仁規の妻は巫に命じて、王が公主を愛さず自分の娘を愛するよう呪詛した。」公主は趙仁規とその妻を牢に入れ、元から使者が来て趙仁規を尋問し、続けて妻を尋問した。あまりの○問に妻は誣告に服し、趙仁規と娘婿の崔冲紹・朴セン(王に宣)は家財を没収されて使臣館に送られた。元では趙仁規を杖刑の上で安西に、崔冲紹と朴センを鞏昌に流した。後に放還されると、皇帝の命令により、王は趙仁規を判都僉議司事とした。
 忠宣王が元にいたとき、趙仁規は咨議都僉議司事・平壤君で、開府して官属を置き、宣忠翊戴輔祚功臣の号を賜った。承旨の金之兼を遣わしこう言わせた。「趙仁規は高齢で徳があり、国の元老とすべき人です。そこで朝会には玉帯を外出には従者を許可し、名では呼ばず官命で呼び、剣を佩びたままの昇殿を許し、国の大事には僉議密直一人を家に遣わして意見を求めるよう願います。もし許可されなければ、趙仁規と中賛の崔有エンとで争うことになります。」王はこれに従った。三十四年に七十二歳で卒去し、貞粛と諡された。
 趙仁規は挙措が美しく、寡言で笑うことも少なく、伝や記を渉猟した。初めの頃、高麗人は蒙古語を習得しても上手く応対できなかった。高麗の使者が元の都に行くと、必ず大寧総管の康守衡と共に拝謁していた。趙仁規が絵画と金と磁器を献上した。世祖は尋ねた。「お前達は絵画と金が欲しくはないのか。」趙仁規は答えた。「それらはただの飾りです。」世祖は言った。「金は使えるのではないか。」趙仁規は答えた。「磁器と同様に金も壊れやすいので必要ありません。」世祖はその応対をよしとして、それ以後、磁器は献上して絵画と金は献上しないよう命じた。また世祖は言った。「高麗人はこれほど蒙古語を理解するなら、康守衡が通訳する必要は無いだろう。」
 高麗王に怨みを懐く者が高麗を内地化しようとして、皇帝に進言した。事態がどうなるか分からない状態で、趙仁規は単騎、元の朝廷に行き陳述したため、内地化は中止となった。また西北の国境周辺の二地域が高麗に返還されたのも趙仁規の功績である。
 王は奏請するたびに趙仁規を遣わし、使者となること三十回、その功績は顕著であった。微賎より身を興し、元との調整に奔走した。外見は立派で快活公正に見えたが、王に気に入られて寝所にまで出入りし、多くの田と民を集めて富を築いた。国舅の地位を加えられると、その権勢は最大になり、子や婿は全て将・相となり比肩する者が居なかった。
 病になると子や婿は医者を呼ぼうとしたが、趙仁規は「私は兵卒から身を興して官職を極めた。歳も七十を越え、ここで死ぬのも天命だ。医者は不要だ。」と言った。このとき諸子は元に居て、ただ璉だけが看病していた。趙仁規は言った。「汝ら兄弟姉妹九人、身を慎んで争うことの無いように。汝は兄弟が来たらこのことを伝言し、永く家訓とせよ。」
 子は瑞・璉・ク(王に羽)・イ(王に韋)である。

 趙瑞は生来英敏豪邁で、父が大きな星が自宅に落ちる夢を見て、生まれた。このため小字を星来といった。
 忠烈王の時代に科挙に合格し、王の前で名が読み上げられて犀の帯を賜った。忠宣王が世子だったころ、西原侯の屋敷の宴会で、趙瑞は金光佐・車元年と共に良い歌を作った。金光佐には「黍離」と「柏舟」(共に『詩経』)を歌にして「双燕曲」を作り、閔漬がこれを補って「何彼ジョウ矣」を作り、以後内殿で宴会があるときには必ずこの曲が歌われた。趙瑞・金光佐・車元年は共に王に気に入られた。二人は身分が低く、趙瑞は相門の儒士であったが対等に付き合ったため、当時の人々は卑しいことだと話し合った。
 趙瑞は直宝文署から要職を歴任して右承旨となった。趙仁規が趙妃の事件に関連して元に抑留されると、趙瑞はこれに従った。ある日、皇帝が外出すると、趙瑞は弟たちを引き連れて、道の脇に控えて拝謁した。帝は趙瑞の方を見て事情を聞くと、これを嘉し、趙仁規は赦されて帰国した。
 累進して同知密直となり、千秋節の祝いで元の朝廷に行くと、皇帝は趙瑞を懐遠大将軍・高麗国副元帥とし、三珠虎符を賜った。趙瑞の娘が、元の皇帝お気に入りの宰相の也児吉尼に嫁いでいたからである。帰国すると王からも検校賛成事に任命されて壁上三韓三重大匡・大司憲を加えられ、平壤君に封ぜられた。趙瑞は都元帥の金深の上席となって行省丞相の儀仗を用いたため、人々から礼を無視する行為だと非難された。
 忠宣王の五年、三司使のまま卒去し、荘敏と諡された。
 子は宏・千祀・千祐である。

 趙璉は字を温仲といった。蔭位により官職に就き、累進して知密直司事となった
 忠粛王の時代に僉議評理となり、賛成事に転じた。王が元に行くと抑留され、曹テキや蔡河中ら瀋王の側近が様々に王を讒言した。趙璉は弟の趙延寿や金元祥らと共に曹テキらに同調した。元は趙璉を高麗王府断事官とし三珠虎符を賜った。王が元に居た間の五年間、趙璉が権省事として政務を執った。その間、元の使者が両国を行き来し横暴であったが、趙璉が上手く応対すると気を鎮めたため、趙璉が卒去すると国中の人が泣いた。ただ瀋王と通じていたため臣節としては不完全であった。諡は忠粛。

 璉の子の徳裕は父の爵を継いで王府断事官となった。清廉潔白で権力を恐れず利益を追うことは無かった。親戚や旧知の者でも、政権を握っている間は交際しなかった。官は版図判書に至り卒去した。
 子は煦・リン(王に鄰の偏)・靖・恂・浚・狷で、浚には別に伝がある。

 趙リンは恭愍王の時代に安祐らと共に紅巾賊を敗走させて、作戦を立てた功が一等とされ、累進して鷹揚軍上護軍となった。倭寇が喬桐を攻めると、趙リンはこれも敗走させた。
 当時、辛ドンが政権を握り、人々は争ってこれに組したが、趙リンは一度も辛ドンの家に行かなかった。辛ドンを「老和尚」と謗り、知都僉議の呉仁澤や班主の尹承順らと辛ドンを排除する計画を立てて漏れ、杖刑に処された上で南裔に流され官奴とされた。後に再び密直の金精と共に辛ドン暗殺を計画した。辛ドンはこれを王に訴え、一味の孫演を差し向けて趙リンを殺し、病死として報告した。
 辛ドンが誅されると、王は尹承順を呼び戻して鷹揚上護軍とした。都に戻った尹承順は、趙リンの母と会うと慟哭し、喪服を着て趙リンの骨を埋葬した。聞く者はみな悲しんだ。王は尹承順の信義を嘉し、尹承順を趙リンの墓前に遣わし弔わせた。(以下弔辞略)

 趙クは後に名を延寿と改めた。忠烈王の時代に科挙に合格して都津令に任命されたが辞退したので、王は怒って捕らえさせたが、まもなく釈放した。要職を歴任して元尹となり、忠粛王の時代に密直副使兼大司憲となった。
 このころ全英甫の弟で僧の山冏が、兄の権勢を恃んで驕恣となり、大寺の住持となって数人の妻を囲っていた。趙延寿はその妻らを捕らえて尋問した。
 黄州牧使の李緝の妻の潘氏は、尚書の潘永源の娘であった。李緝が在任中、妻は護衛の金南俊と通じて李緝を殺し、これが調査されて極刑に処される所であったが、潘氏の一族の僧の宏敏が忠宣王に気に入られていたため、王が何度も介入して、放免となった。国中の人がこれを悔しがった。趙延寿はその妻を剃髪させて浄業院に置いたため、人々は喜んだ。累進して賛成事から三司左使となった。
 元は魏王の阿木哥を耽羅に配流していたが、この頃、都に呼び戻した。趙延寿は行省郞中の兀赤と共に護送したが、帝からの使者が来て、魏王をその地に留めるよう命じた。使者が平壤に到着すると、趙延寿や兀赤らは恐れて逃げ出した。使者は怒り、逆命の罪で趙延寿らを誅しようとしたが、魏王が強く助命を求めたため赦された。
 後に、瀋王に内通していたとして家財を没収されて杖で打たれ島に流されたが、帝の命により赦免された。
 忠宣王の十二年に卒去した。

 趙延寿一門が権力を握ると、弟で僧の義センは寺院を奪い我が物とした。賛成事の朴虚中は都堂にてその罪を訴えた。趙延寿は義センを擁護し、朴虚中はこれに反対したため、遂には趙延寿は朴虚中を罵倒した。
 高峯県吏の愁万は趙延寿の権勢を楯に吏役を逃れた。
 趙延寿の家奴らが、成均館の学生の周覬の娘を強○した。周覬がこれを巡軍に訴え、家奴らは杖殺された。
 趙延寿は貪欲にして好色で、密直の白元恒と共に行宮の盤纏金銀・苧布を私的に流用し、世の非難を受けた。

 趙延寿の子の忠臣は平壤君である。

 趙イ、字は季宝。九歳にして蔭位により権務昌禧宮となり、五回転じて大護軍となった。忠宣王の時代に密直代言となり、忠粛王の時代にゲツ部総部典書となった。
 忠粛王が瀋王と対立すると、趙イを疑って閑職の元尹としたが、問題が解決されると、趙イに他意が無かったことが分かり、知密直とした。後に判密直に昇進し、まもなく僉議賛成事に昇進して平壤君に封ぜられた。
 趙イは隠れて親しい者と集まっていた。忠恵王の二年にある者が「趙イは来客と国事を議しています」と讒言したため、王は怒り、趙イは福州牧に左遷となり、監視役が遣わされて一刻の猶予も無く赴任するよう命じられた。趙イは大慌てで任地に向かい、このため病となった。忠穆王の三年に府院君に進封され、翌年、六十二で卒去した。
 忠粛王は政治に飽きると宰相に任せた。趙イは凡その政務をこなしたが細部は顧みなかった。発言は正論で人を服させ、父と同じ風格があると言われた。


 上記の趙浚は、「趙浚」で検索すると上に出てくる人物で、李成桂に協力して新王朝を樹立し、国の基礎を固めました。

 『高麗史』の伝には父に関する記述はありませんが、「趙仁規墓誌銘」には、父の趙瑩は金吾衛別将とあります。
 別将は、武臣政権の4番目の執政者である李義ビン(日に文)も庚寅の乱以前に就いていた官職で、正七品と中堅クラスの地位です。
 李義ビンの父は塩売りで母は寺婢と社会的地位は低かったのですが、「趙仁規墓誌銘」に祖父以前の記述が無いのも社会的地位が低かったからかもしれません。
 父の趙瑩は武臣政権の一角を担い、子の趙仁規はモンゴル支配期に語学で頭角を現し、更に子や孫が高麗で要職を占め
 趙浚の子の趙大臨は太宗の娘の慶貞公主を妻とするなど
 この一族は滅ぶこと無く上手く時流を乗り切ったといえるでしょう。

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ナントカ堂 2019/11/17 19:06

柳清臣とその子孫

 『世宗実録地理志』を訳していて、なんとなく興味深く感じられた高麗後末期の人物及びその一族を二、三紹介いたします。

世宗実録地理志の「全羅道」の高興県の項に

 本は長興府の猫部曲で、高麗の忠烈王の十一年乙酉、地元出身の訳語行首の柳庇に功があったため、監務に昇格し、高興県と改称された。

とありますが、柳庇は後に名を柳清臣と改め、その伝は『高麗史』巻百二十五・姦臣伝一に収められています。(一部略)

 柳清臣、初名は庇、長興府の高伊の部曲の人で、先祖代々部曲の吏であった。国制では部曲の吏は功があっても五品より上にはなれなかったが、柳清臣は幼いときに開悟しモンゴル語を猛勉強し、何度も元に使者として遣わされ応対が良かったため、忠烈王に気に入られ、郎将に任じられた。そのときの教書にこうあった。「柳清臣は趙仁規に付き従って尽力し功を立てた。その家は代々五品が限りであるが柳清臣自身は三品とする。」また高伊部曲を高興県に昇格させ、まもなく将軍に昇進した。
 乃顔王が謀叛を起こしたと聞いた忠烈王は、自ら兵を率いて援軍に向かおうと考え、先に柳清臣を元の朝廷に遣わした。柳清臣は戻ってくると言った。「既に賊は平定され皇帝は燕京に戻り軍事行動を停止されました。そして王には速やかに朝廷に来て祝賀するよう命じられました。」忠烈王は喜んで、柳清臣に大将軍を加え、更に密直承旨に転じ、同知密直監察大夫に昇進した。
 忠宣王が即位すると光政副使を拝命して、判密直司事に転じ、忠烈王が復位すると賛成事となった。忠宣王が復位すると僉議政丞となり高興府院君に封ぜられ玉帯を賜った。柳清臣と呉潜が密かに忠宣王と繋がっていると聞いた忠粛王は二人を大いに疑った。そこで二人は、白元恒と同席して弁明することを求めた。忠粛王が白元恒に問うと、白元恒は鄭方吉と僧の祖倫を指弾し、祖倫は前執義の徐インを、徐インは直郎の鄭ジュウを指弾した。そこで鄭ジュウを杖で打ち海島に流した。
 柳清臣は忠粛王に随行して元の朝廷に行き、瀋王の暠が王位を狙っているのを見ると、曹テキらと共に王に背いて暠に加担し奇計万端を廻らした。さらに呉潜と共に都省に上書し、高麗に省を設置して元の内地とするよう求めた。
 そこで元の通事舎人の王観が丞相にこう上書した。
 「細かいことを気にせずに後々災いになった事は枚挙に暇在りません。故に智者は深く懼れ凡人はいい加減に考えます。高麗を内地にしようとの意見を聞きましたが、これは虚名を求めて弊害をもたらすものです。
 高麗は聖朝に百年以上従順で代々臣節を失わず、世祖はその忠勤を嘉して、皇帝の娘を王の妻とし親王同然に寵遇しました。高麗は良くわが国のやり方に従ったので、東方に兵乱は起こらず、遼水以東の藩屏として代々仕えてきました。高麗の忠勤は祖宗の遺訓の賜物です。それを今、一朝にして無思慮な意見を採用しては 世祖の深謀遠慮に背くものです。これが不可の一。
 高麗はわが国の都から数千里離れ、風土も習俗も異なり刑罰・爵賞・婚姻・獄訟も異なります。これを今、中国の法で治めるなら齟齬を来たし多くの弊害を生むでしょう。これが不可の二。
 三韓の地は民は少なく、みな山際や海沿いに散居し豊かな土地はありません。今、行省を設置して戸籍を作り税を定めるなら、遠方の島夷もこれを窺い知り不審に思うでしょう。また必ず混乱が起こり住民は逃げ、互いに扇動して大きな害が生じるでしょう。これが不可の三。
 各行省の官吏の俸禄は本省に準拠していますが、今、征東行省を設置すれば大小の官吏の月俸と一切の経費は毎年一万錠以上になります。わが国に税が送られないだけでなくわが国から俸給を送らなければなりません。行省を設置すれば何の利益にもならないばかりか多大な国費を消耗します。これが不可の四。
 江南の諸行省と同様に兵により鎮守せねばなしませんが、少数では東方諸国を制圧するには足らず、多数では兵の供給のため民に耐えがたい負担が掛かります。またわが国では禁衛から都の周辺地に屯住させる場合、軍額が定められており、これについては私などが意見するようなことではありませんが、征東行省に兵を鎮守させた場合、どこから出せば良いのでしょうか。これが不可の五。
 いにしえより大事は広く意見を聞くものです。私の聞いた所では立省を献策した二人は、高麗の元重臣で、讒言により処罰され主君を怨んでいます。自国を転覆して自らの地位を安泰にし怨みを晴らそうとしたもので、わが国を思って献策したのではないでしょう。わが国と高麗とは義では君臣、血筋では舅と婿の関係であり、命運を共にしています。主君を売ろうとする二人に騙されて奸計に嵌るなどあってはなりません。これが不可の六。
 私の僭越なる意見をお聞き入れいただければ処罰されても構いませんが、朝廷では再考されることを願います。」
 李斉賢もまた立省について都堂に上書したため、高麗の内地化は取りやめとなった。
 初め柳清臣は呉潜と共に中書省に出向いて、忠粛王が盲目と聾唖のため政務が執れないと言い、遂にはこう訴えた。「忠宣王が仁宗に奏上して、燾(忠粛王)は王に、暠(瀋王)は世子になりましたが、英宗の時代になると、燾は伯顔禿古思(高麗の出で元に仕えた宦官)と共謀し、金怡に忠宣王を説得させて、暠の世子の印を剥奪させ、更に忠宣王が暠に賜った田宅と陪臣のわれら百四十人の田宅を没収しました。」
 そこで帝は、平章の買驢と舎人の亦トク迷失不花を高麗に遣わし、興礼君の朴仲仁と趙雲卿、上護軍の高子英らがこれに従った。この者達は全て瀋王の一党である。買驢と会った忠粛王は、威儀を正して一項目ずつ反論した。買驢は言った。「帝が私を遣わしたのは、王の病状を確かめさせるためである。今見たところ全ては偽りであったことが分かった。」曹テキらは恐怖のあまり何も言えなかった。忠粛王が復位すると、柳清臣や呉潜らは恐れて帰国せず、柳清臣は元に留まること九年で卒去した。
 柳清臣は無学無知であったが臨機応変に立ち回り、権勢を恃み国政を弄して国の害となった。当時「猫部曲の人が朝廷に仕えれば国は滅ぶ」との讖があった。猫は俗語で高伊と言った。
 子の攸基は官は判密直事にまで至り、攸基の子の柳濯には別に伝がある。


続いて子孫の伝を、まずは『高麗史』巻百十一から。


 柳濯、字は春卿、高興府院君の柳清臣の孫で、膽略あり武芸を得意とした。早くに蔭位によって元朝の宿衛に入り、帰国して監門衛大護軍を拝命し、数年も経たないうちに三回転じて高興君に封ぜられ、元からは合浦万戸に任命された。忠定王の時代になると都僉議参理となり推誠亮節翊祚功臣の称号を賜って、更に賛成事に昇進した。
 恭愍王の初めに全羅道万戸として赴任すると、軍紀を引き締めて州県を安定させ士卒と苦楽を共にした。王はお褒めの教書を下し衣服と酒を賜って慰労した。倭寇が万徳社を攻めて人を殺し物を奪い去った。柳濯は軽騎にてこれを追い捕らえて、連れ去られた人々を取り戻した。それ以後、柳濯の在任中は倭寇は再び襲来することは無かった。また柳濯は自ら「長生浦」などの曲を作り、それらは楽府に伝わっている。
 都に戻ると賛成事となり、まもなく左政丞を拝命し、職を辞すと高興府院君に封ぜられ、輸誠亮節翊祚輔理功臣の号を賜った。元が南方の紅巾賊の討伐を決めると勇士を求め、柳濯や廉悌臣ら四十人あまりが勇略ありとして、蔡河中が推薦した。元からの使者が来て召されると、柳濯らは兵数千を率いて元に行き、太師の脱脱に従って、高郵の張士誠を攻め、連戦して大いに功があった。そこで官界に復帰して、門下侍郎同中書門下平章事となった。まもなくある事件に関連して配流されたが、後に復帰して高興侯に封ぜられた。
 紅巾が高麗に攻め込み王が南に避難すると、柳濯は慶尚道都巡問兼兵馬使となり、また左政丞を拝命した。興王定難の功一等とされ、更に辛丑扈従功臣が定められると、柳濯は軍功一等となり、侍中となった。そして評理の崔瑩と密直副使の呉仁澤と共に政房を取り仕切ることとなった。崔瑩と呉仁澤は王に気に入られていて、ある日、人事で柳濯が「先に台省から選ぶべきだ。」と言うと、崔瑩は出し抜けに「私が選ぶ。」と言って、下吏に怒鳴り声で「于達赤の名簿を持って来い。」と言った。その不遜な態度に、柳濯が声を挙げようとすると、呉仁澤が言った。「どうして台省の人員を于達赤から選ぶのか。先に儒士と名望家から選ぶべきだ。」二人の専恣と傍若無人さから、柳濯は病を理由に同席しなくなった。
 魯国公主が薨去すると、王は仏説に惑い火葬しようと考え、柳濯に相談したが、柳濯が反対したため中止にした。また推忠秉義同徳輔理翊祚功臣の号を賜った。旧制では、僉議枢密監察重房に夜中宿直する者には多くの物が与えられていたが、紅巾に攻め込まれてからは行われなくなっていた。両府はこれを復活させたいと思っていたがなかなか決定されなかった。都僉議司の下吏の金富らは決定が滞っていることに怒り、録事の朴允龍と孫国英の名を大書したものを柱に貼って言った。「この二人の告身は発行しないことを誓う。」朴允龍と孫国英は当時金銭と穀物を管理していた。柳濯はこれを聞くと怒って金富らを牢に入れ問い質してこう言った。「滞っているのは右司議の崔安穎と左正言の金存誠のせいだ。」このことが王に報告されると、崔安穎らは罷免された。以前に公主が薨去したとき、四都監十三色が置かれて葬儀を執り行うことになったが、柳濯は多くの儀礼を間違えた。崔安穎はこれを非難したため柳濯の怨みを買い、ここに至って罷免されたのである。人々はこの行いを非難した。
 元の朝廷から詔を持った使者が来た。その挙措は大いに尊大で、王と会っても傲慢、宰相と会っても席を与えなかったが、柳濯と会うと礼を以って接し恭しかった。簽書の李穡は同僚に言った。「侍中の挙措は礼に適い、見るからに重々しかった。」
 監察司が都評議録事の家奴を捕らえた。柳濯は執義の崔元祐に会い放免するよう求めたため、釈放された。釈放された奴のうち一人を見て柳濯は言った。「録事の家奴を捕らえたと聞いたが、これはわが家の奴ではないか。」そして怒って出仕しなくなった。このため宰枢は崔元祐を捕らえて牢に入れ、罷免した。崔元祐は嘆いて言った。「台中の事は必ず会議して実行する。私一人のせいではないのに私だけがこのような目に遭った。」
 ある巫が天帝釈を自称し妖言で人々を惑わしたので、杖刑に処した。元の使者の大都驢は柳濯に言った。「いにしえより婦人に刑を課したことがあったでしょうか。」 柳濯は無学であったため上手く応じられなかった。その後、たびたび引退を願い出たが受理されなかった。
 王が馬岩に公主の影殿を大規模に建てようとした。柳濯は同知密直の安克仁と簽書密直の鄭思道に言った。「馬岩の工事はただ民に負担をかけ財を損なうだけだ。また術家が『ここに建物を建てれば異姓の王が立つ』と言った。私は百官の長として主君の過ちを正さなければならない。後世に謗りを受けるくらいなら死を賭しても諌めねばなるまい。」安克仁らは賛成し、こう上書した。「今年は大旱魃で五穀は実らず民の食糧が尽きようとしています。内外の工事を中止されることを願います。」王は激怒して「それは私が影殿を建てるのを阻むつもりであろう。」と言うと、柳濯と鄭思道を投獄し、安克仁は定妃の父であったため免官とした。
 柳濯は重々しく優美で、その挙措に同僚達は感服していたため、投獄されると皆が驚き嘆いた。太后は人を遣わしてこう王を説得した。「主君の過ちを正すのは宰相の努めです。柳濯らを釈放しなさい。」王は聞かず、侍中を柳濯から李春富に代え、李穡らに、魯国公主が薨去した際三日間葬儀を行ったのに、永和公主では減らした事について尋問させた。柳濯は言った。「公主は国母です。亡くなられた時、臣らは悲しみのあまり成すところを知らず長く葬儀を行いました。その後、紅巾が攻め込んで葬儀の記録が失われたため、臣らは知りえた事例に基づいて葬儀を行いました。他意はありません。」これを聞くと王は更に怒った。そこに辛ドンが来て言った。「侍中は死ぬべきです。」王は柳濯を殺すことに決め、人々に報せる文を李穡に作成させようとした。すると李穡は「柳濯を罪も無しに死罪にするのですか」と反対したため、王は更に激怒して李穡を獄に下した。このとき李穡は泣いて言った。「臣は死を恐れませんが、王が罪無き大臣を殺すことが残念です。」すると王は全員釈放した。翌日、柳濯らが王に謝すと、王は酒を賜りこう言った。「私は怒りに吾を忘れていた。卿らはこの数日のことを忘れて欲しい。」このときのことは李穡伝に記されている。後に王はまた、王陵で臘祭を行わないことを柳濯が決めたことで投獄し、処罰の代わりに庶人とし家財を没収した。都堂は言った。「諸陵は全て臘祭を行っていません。罪を赦されますように。」王は怒りが解けて、告身と家財を返還した。
 辛ドンが誅されると憲司はこう奏上した。「柳濯は首相となると、全羅の兵と民を占有し、妹婿の也先帖木児の頼みで万戸府を設置し、也先帖木児に支配させ枢密院に入れました。また公主が薨去された際、葬儀を薄礼にしました。更に逆賊辛ドンに奴婢や金銭を贈り結びついて互いに援護しました。李伯修が辛ドンの謀叛の計画を報告しても、柳濯は無視しました。法に則り不敬不忠の罪を正すべきです。」王はこれに従った。太后は宦者の沙顔不花を遣わして宥めたが、王は怒って沙顔不花を捕らえ、遂には青郊にて柳濯を絞殺させた。享年六十一。国中の人が泣き「柳濯が影殿の工事を諌止したのを王が怨んだためだ。」と噂した。
 後に太祖の夢に柳濯が現れて、子の濕に爵が与えられることを願った。太祖は不思議なことと思い、柳濯に特進輔国高興伯を追贈して忠靖と諡し、濕に官職を与えた。子は雲・濕・ゼン(さんずいに善)である。


『朝鮮王朝実録』太宗実録巻十一/太宗六年三月二十四日条

 判三司事致仕の柳濬が卒去した。柳濬は高興の人で、僉議政丞の柳清臣の孫である。蔭位によって府衛となり、累進して千牛衛上護軍となった。元朝より宣命を受けて明威将軍・全羅道鎮辺万戸府達魯花赤となり世襲とされた。柳濬は長年太上の麾下に従い、戊辰に密直副使商議を拝命した。太祖が都総中外諸軍事となると、柳濬はその幕府に属し、太祖が即位すると、柳濬は原従功臣となった。王后が薨去すると、良家の女が選ばれて後宮に入ったが、柳濬の娘もその中に選ばれ、柳濬は検校参賛門下府事となった。まもなく高興伯となり、庚辰、判三司事を以って致仕し、卒去した。享年八十六。胡安と諡された。子は三人で、孟忠・仲敬・季文である。

『朝鮮王朝実録』世宗実録巻八十六/世宗二十一年八月六日条

 前中軍都総制の柳濕が卒去した。柳濕は高興県の人で、高麗の侍中の柳濯の子である。初め蔭位により官職に就き、閣門引進使となった。太祖の夢に柳濯が現れて、子に爵が与えられることを願った。目が覚めて不思議なことと思い、柳濯に高興伯を追贈し、特別に柳濕を果毅上将軍とした。更に太宗に仕えて原従功臣となり、累進して礼刑兵吏曹典書に、地方に出て全羅・忠清・平安三道都節制使となって、中軍都総制に昇進した。歳己亥、右軍元帥として対馬島に遠征し、帰還すると病を理由に引退して、この日に卒去した。享年七十三。訃報が届くと、朝政を停止して、弔慰の品を贈り、襄靖と諡した。軍事により襄、良く終わりを全うしたことにより靖である。子は漬。

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