ナントカ堂 2019/11/23 23:05

金就礪/武臣政権後も家系が残った武臣

 先日、武臣政権の中堅クラスの生き残りである趙仁規の家について述べましたが、今回は金就礪について。

 『高麗史』巻百三の金就礪の本伝には「父の富は礼部侍郎」とありますが、『高麗史』巻二十/明宗十六年十二月辛丑条に「上将軍の崔世輔を同修国史に、将軍の崔連と金富を礼部侍郎にした。」とあり、本来は武臣であったものが文職を帯びたものです。
 金富について『高麗史』にはこの二箇所しか触れられていませんが、『櫟翁稗説』前集二には癸巳の乱のときのエピソードが載せられています。梅山秀幸氏訳の『櫟翁稗説・筆苑雑記』の「武将の情けを見せた陳俊と金富(p.69~71)」から、金富に関する箇所を以下に引用します。


 金甫当が兵を起こして、毅宗の復位を謀ったものの、失敗してしまい、文士たちは虱潰しに探されて殺害された。中央と地方の人心は、朝な夕なにいったいどうなることかと、恐々とするばかりであった。
 郎将の金富が鄭仲夫と李義方に、
 「天の意志を知ることができず、人の心を推し量ることができない。われわれは今、力を恃んで、義理を考えずに、ソンビたちを草木のように殺しているが、天下にどうして金甫当のような者がまた現れないであろうか。われわれの中に息子や娘がいる者がいれば、むしろ文官たちの家と婚姻を結び、彼らを安心させる方が、われわれの世を長く保つことになるのではないだろうか」
 といったので、みながそのことばに従うようになった。そうして後、この禍は収まっていったのである。
(中略)
 金富の息子の金就礪とセン(人偏に全)は二代にわたって首相となり、その後にも今に至るまで、高い地位につく者たちが多い。


 また本人の墓誌には、祖父の彦良は金吾衛摂郎将、母は検校将軍校郎将の宋世明の娘とあります。
 では『高麗史』巻百三から金就礪の伝を見ていきましょう。


 金就礪は彦陽の人で父の富は礼部侍郎である。金就礪は蔭位により正尉に任じられ、選ばれて東宮衛に入り、累進して将軍となり、東北界に鎮守して、大将軍となった。康宗の時代に塞上を巡撫して辺境の民から畏愛された。
 高宗の三年、契丹の遺種の金山王子と金始王子が河朔の民を脅かし、自ら大遼の收国王を称し、元号を天成とした。このため蒙古は大軍で討伐した。二王子は東を席巻し、開州館で金軍三万と戦った。金軍は敗れて大夫営に撤退した。二王子は進軍して、人を遣わし北界兵馬使にこう伝えた。「汝らは食糧を送って我らに加勢せよ。さもなくば必ずや汝らの領内に攻め入り奪おう。我らは後日、黄旗を立てるので、汝らは来て皇帝の詔を聞け。もし来なければ汝らを攻撃する。」期日になり果たして黄旗が立てられたが、兵馬使は行かなかった。
 翌日、二王子は将の鵝児乞奴に兵数万を指揮させ、鵝児乞奴の軍は鴨緑江を渡り寧や朔などの鎮を攻め、城外の財物・穀物・家畜を奪って去った。その翌日には義・静・朔・昌・雲・燕などの州を攻め、宣徳・定戎・寧朔の諸鎮に妻子を連れて山野に分け入り、穀物を刈り牛馬を捕らえて食した。留まること一ヶ月あまり、食が尽きたため雲中道に移った。
 ここに上将軍の盧元純を中軍兵馬使、知御史台事の白守貞を知兵馬使、左諌議大夫の金蘊珠を副使、上将軍の呉応夫を右軍兵馬使、崔宗峻を知兵馬事、侍郎のユ世謙を副使、金就礪を後軍兵馬使、崔正華を知兵馬事、陳淑を副使とし、十三領軍と神騎を指揮させた。
 三軍が朝陽鎮に至ると、朝陽の人が「契丹軍は既に近くまで来ています」と報せた。三軍は各々別抄百人と神騎四十人を遣わし、先遣隊が阿爾川の岸まで来ると契丹軍と戦闘になり、高麗軍はやや後退した。神騎郎将の丁純祐が敵中に突撃して、纛を持つ者を斬ると、契丹軍は壊走した。勝ちに乗じて八十人の首を挙げ、二十人以上を捕虜とし、楊水尺(工匠)一人を捕らえ、牛馬数百頭と大量の符印・武器を得た。このため丁純祐は将軍となった。
 続けて三軍は連州の東洞で契丹軍と戦い、百人以上を斬った。契丹軍三百人あまりが亀州の直洞村に陣を敷いたため、軍候員の呉応儒が歩兵三千五百人を率い、兵に枚を噛ませて攻撃した。散員の咸洪宰・甄国宝・李稷、校尉の任宗庇らが二百五十人を斬り、三千人あまりを捕虜にし、多くの牛馬・武器・銀牌・銅印を得た。
 三軍は更に亀州の三岐駅で二日間戦い、二百十人斬り、三十九人を捕虜とした。将軍の李陽升も長興駅で契丹軍を破った。
 契丹軍は昌州から延州の開平駅と原林駅に移り、終日両駅を行き来した。高麗軍は神騎の将を遣わして追撃し、新里で契丹軍と遭遇して百九十人を斬った。
 高麗軍が延州に進軍すると、光裕・延寿・周テイ・光世・君悌・趙雄の六将は獅子岩を、永麟・迪夫・文備の三将は楊州を守った。
 翌日、九将は朝宗戍で戦い、七百六十人以上を討ち、多くの牛馬・牌印・武器を得た。契丹軍は兵を分けることができなくなり開平駅に集結した。諸軍は敢えて前進せず、右軍は西山の麓に布陣し、中軍は平野で契丹軍を待ち構えたが、やや退いて独山に陣を敷いた。金就礪は剣を抜き馬に鞭打つと、将軍の奇存靖と共に敵陣に突入し、陣を出入りして奮撃し、契丹軍を壊滅させた。追撃して開平駅を過ぎると、駅の北にいた契丹軍の伏兵が中軍を急襲した。金就礪は引き返すと契丹軍を討ち、壊滅させた。
 その夜、盧元純は金就礪に言った。「敵は大軍でわれらは少数。また右軍も到着していない。兵糧を三日分しか持ってきておらず、それも今や尽きた。延州城に撤退して後続を待つ他は無い。」金就礪は言った。「わが軍は連勝して士気が上がっている。この勢いに乗って攻撃すべきだ。一戦してからまた話し合おう。」
 契丹軍は墨匠の野に布陣して士気も高まっていた。盧元純は急ぎ金就礪を呼び出すと、黒の幟を掲げて信頼の証とした。高麗軍は士卒は白刃を冒してわれ先に進み、全員が一人当千。金就礪は文備と共に敵陣を横から切り込み、向かう所なぎ倒して三戦三勝。金就礪の長子が死に、契丹軍は香山に逃げ込んで普賢寺を焼いた。高麗軍が追撃して二千四百人以上を斬り、南江の溺死者も千数に上った。契丹軍の残りは夜中に昌州に逃げ、婦女・小児が路傍に打ち捨てられて、多くの牛が鳴いているかのように号泣した。
 残った者の内の一人が武器を捨て、自ら官人と称して直に出るとこう言った。「われらが貴国の辺境を荒らした罪を負わなければならないことは分かっています。しかし婦人や子供は何も知りません。無益に皆殺しにすることの無いよう願います。また害されないのであれば、われらは言われた期日通りに国に帰ります。」金就礪は「汝の言葉を信じよう。」と言うと、共に酒を気持ち良く飲み、立ち去らせた。
 まもなく鵝児乞奴から書状が送られ、かの官人が約束したのと同じ内容であった。三軍が各二千人を遣わして、撤退した後を見に行かせると、契丹軍が放棄していった兵糧や武器が道に散乱していた。牛馬は腰が斬られたり後ろを刺されたりしていて、獲得しても使えないようにしたのであろう。
 六千人を遣わして清塞鎮で戦い多くを討ち取った。平虜鎮都領の禄進もまた攻撃して七十人を討った。契丹軍は清塞鎮を越えて遁走した。
 一説にいう。香山で戦い敵将の只奴が矢に当たって死んだ。只奴は金山軍の全てを率いていた。一人の婦人を捕らえると言った。「私は鵝児の妻のだ。私の夫は薬山寺に入った時に只奴に殺され、只奴が軍を指揮した。」
 高麗軍が延州に到着すると、敵軍が後方から大挙して国境を越えたとの報せが入ったため、内廂だけ残して自衛させ、それ以外の全軍で出撃した。後軍は単独で楊州で契丹軍に遭遇し数十から百ほど討ち取った。中軍と右軍は先に博州に向かい、後軍の金就礪は輜重を守ってゆっくり進んだ。沙現浦に到着すると、契丹軍が輜重を狙って突撃してきたので、金就礪は中軍と右軍に危機を報せた。しかし両軍は守りに徹して救援に向かわなかった。金就礪は力戦して撃退し、輜重を守って到着した。
 盧元純は西門外で出迎えると言った。「突如強敵が現れて、よくその鋭鋒を打ち砕き、三軍の輜重を全く失わなかったことは、公の力によるものである。」そして馬上にて酒を掲げて祝った。中軍・右軍の将士と諸城の父老は皆で叩頭して言った。「今、強敵に立ち向かうのは困難なことです。開平・墨匠・香山・原林の戦いで後軍は常に先鋒となり、少数で大軍を打ち破りました。われらは疲弊し自分の命を守るだけで精一杯で何のご恩返しもできず、ただ戦勝を祝うだけです。」
 契丹軍は再び集結し、連日昌州門外で武威を示した。契丹軍百五十人が昌州を攻めると、高麗軍は敗走させた。高麗軍は博州に陣を敷き、興郊駅の契丹軍を夜襲して四十人あまりを捕らた。翌日、洪法寺で夜戦して勝利し、その翌日には将軍の金公セキが百人あまりの契丹軍と州城の門外で戦い、五十人あまりを討ち取った。金公セキは自身の手で、銀牌を佩びた者を斬った。高麗軍は城に入って休息し、契丹軍は夜中に清川江を渡って西京に向かった。
 高麗軍は渭州城外で契丹軍と戦って惨敗し、将軍の李陽升ら千人あまりが死んだ。この報せが都に届くと、城中の人が泣いた。契丹軍は西京城外に至ると、安定駅・林原駅・タン華寺・妙徳寺・花原寺にいた人を皆殺しにしたが、高麗軍は阻止できなかった。契丹軍は氷結した大同江を渡って遂には西海道に入り、黄州の住民を皆殺しにした。
 翌年、金就礪は金吾衛上将軍となった。また承宣の金仲亀が派遣され、金仲亀は南道の兵を率いて合流ようとしたが、陶公駅で契丹軍と戦闘となり惨敗した。
 これより前、中軍の求めにより、左承宣の車テキが前軍兵馬使、大将軍の李傅が知兵馬事、礼部侍郎の金君綏が副使、上将軍の宋臣卿が左軍兵馬使、将軍の崔愈恭が知兵馬事、刑部侍郎の李実椿が副使となり、先発の三軍と合わせて五軍となった。五軍は安州の太祖灘に到着すると契丹軍と戦って大敗し、逃げ戻った。契丹軍は勝ちに乗じて追撃した。金就礪は文備・仁謙と共にこれを迎え撃ち、仁謙は流れ矢に当たって死んだ。金就礪は剣を奮い一人で敵に立ち向かうと、槍と矢を相次いで身に受け、重傷で帰還した。契丹軍は高麗軍を追って宣義門まで至ると引き揚げた。そして牛峯を攻め、臨江の長湍に向かった。
 ここで五軍は改められ、呉応夫が中軍兵馬使、大将軍の李茂功が知兵馬事、少府監の権濬が副使、上将軍の崔元世が前軍兵馬使、郭公儀が知兵馬事、戸部侍郎の金奕輿が副使、借将軍の貢天源が左軍兵馬使、司宰卿の崔義が知兵馬事、将作監の李勣が副使、借上将軍の呉仁永が右軍兵馬使、借衛尉卿の宋安国が知兵馬事、侍郎の秦世儀が副使、上将軍の柳敦植が後軍兵馬使、崔宗峻が知兵馬事、陳淑が副使となって、防衛することとなった。
 五軍は出陣せず、柳敦植だけが交河に向かおうとした。呉応夫は人を遣わしてこう引き止めさせた。「契丹軍は積城周辺にいる。軍を引き返せ。」柳敦植は聞かず、四軍合同で契丹軍を攻撃するよう求めた。四軍はこれに従い、積城まで行ったが契丹軍はいなかった。
 契丹軍が東州を攻め落とすと、崔忠献はこう奏上した。「契丹兵は東州を通過して南下する構えを見せています。五軍はぐずぐずして戦わず、徒に兵糧を消費しています。そこで呉応夫を罷免して、その子と婿の官職を剥奪し、前軍兵馬使の崔元世を後任に就けて、金就礪を前軍兵馬使とすることを願います。」王はこれに従った。
 契丹軍は交河を目指して澄波渡を渡り、高麗軍はこれと楮村で戦って撃退した。高麗軍はこのような戦勝報告を行った。「敵が豊壤県の曉星ケンまで来ると、わが軍はここで闘うことを決めました。横灘を渡ろうとすると、敵は後方から攻撃し、左軍が先に戦い敗走したため、中軍と後軍が山を回って敵の背後に出て攻撃し、撃退しました。更にこれを盧元駅の宣義場まで追撃して多くを討ち取り、敵は大量の牛馬・衣服・兵糧を捨てて逃げました。」このとき隊正の安彭祖が矢傷を負って帰ってきて、言った。「敵の死者はたったの二人。その他の死者は全てわが軍である。」
 前軍と右軍が砥平県で戦って契丹軍を破り馬千頭あまりを獲得した。
 契丹軍は安陽都護府を攻め落とし、按察使の魯周翰を捕らえて殺し、官属も多数殺された。
 契丹軍が原州に入ると、州人は長期間対峙し、九回戦って兵糧が尽き、援軍も無かったため、遂には陥落した。
 前軍と右軍は惨敗し、大将軍の任輔を東南道加発兵馬使とし、城中から公私の奴○を徴発して兵とし出陣させた。前軍と右軍は楊根と砥平で契丹軍と遭遇すると、何度か戦闘となって金銀牌と傘子を取った。崔忠献はこれを褒め、郭公儀を衛尉卿、右軍兵馬使の呉孝貞を上将軍とした。郭公儀は以前に収賄で免官となっていたが、この功により復職した。
 高麗軍は敵を追って黄驪県の法泉寺に至り、更に次禿岾に移ると崔元世は言った。「これから先の道は二手に分かれている。われらはどちらに行けば良いだろうか。」金就礪は言った。「軍を二手に分けて契丹軍を挟撃すれば良いでしょう。」崔元世はこれに従った。
 翌日、麦谷で合流して契丹軍と戦い、三百人あまりを討ち取った。提州の川に迫ると、流された契丹軍の死体が川面を覆って流れていった。
 三日後、契丹軍を追って朴達ケンに至ると、軍勢を率いた任輔と会った。崔元世は金就礪に言った。「嶺の上には大軍は留まれない。山から下りて陣を敷こうと思う。」金就礪は言った。「用兵術では人の和を重視しますが、地の利も重要です。もし敵が先に嶺を占拠してしまい、われらはその下にいれば必ずや敗れるでしょう。」高麗軍は嶺に陣を敷いた。
 夜が明けると果たして契丹軍は嶺の南に進軍し、先に数万人が左右の峰に分かれて登り要害を占拠しようとした。金就礪は、将軍の申徳威と李克仁に左を、崔俊文と周公裔を右を任せて、自身は中央を進んだ。兵士は全員死力を尽くして戦い、これを見た他の軍も我先にと戦って、契丹軍を壊滅させた。老弱・男女・兵仗・輜重は散乱したまま放置され、契丹軍は南下できずに全員東に逃げた。これを溟州の大関山嶺まで追撃すると、将兵はそれ以上の追撃に不安を覚え、一旦退いて、十日後に進軍すると、契丹軍は既に嶺を越えていた。
 中軍・左軍・前軍が再び契丹軍を追って溟州の毛老院に至り、打ち破って玉帯・金銀牌・武器を獲得した。契丹軍が溟州を包囲すると、四軍はこれを追ったが、後軍は追いつけずに剛州に陣を敷いた。右軍は登州で契丹軍と戦って敗れ、陣主の呉守貞が死んだ。
 契丹軍は咸州に急行し、遂には女真の地に入ったため、高麗軍はそれ以上追撃しなかった。中軍からの求めに応じて、金就礪は兵を率いて定州に移り敵情を窺った。そして中軍にこう報せた。「契丹軍は咸州にいてわれらとは近く、互いの鶏や犬の鳴き声が聞こえます。」金就礪は鹿角垣を築き三重の堀を構えると、李克仁・盧純祐・申徳威・朴ズイの四将に守らせて、自身は興元鎮に移った。
 契丹軍は女真軍の加勢を得て再び盛り返し、長駆して襲来した。金就礪が兵を率いて定州に戻ると、豫州の柱川で契丹軍と遭遇したが、互いに引き下がって分かれた。
 このとき金就礪は突如病となり、将佐が戻って療養するよう勧めた。金就礪は言った。「たとえ辺城の亡霊となろうとも、家での安楽は求めない。」更に病状が悪化したため、勅により、都に帰って養生することとなり、肩輿で都に運ばれて数ヶ月療養した。
 金就礪が留めた兵は渭州で戦って敗れ、契丹軍は再び終結して高州と和州を攻め、寧仁鎮・長平鎮・豫州を陥落させた。
 ここに五軍と加発兵は廃されて三軍が置かれ、文漢卿が中軍兵馬使、李実椿が知兵馬事、李得喬が副使に、貢天源が左軍兵馬使、宋安国が知兵馬事、金奕輿が副使に、李茂功が右軍兵馬使、権濬が知兵馬事、金沿亮が副使になった。
 翌年、契丹軍が大挙して襲来したため、守司空の趙冲が西北面元帥、金就礪が兵馬使、借将軍の鄭通宝が前軍、呉寿祺が左軍、申宣胄が右軍、李霖が後軍、李迪儒が知兵馬事となって、王自ら鉞を授けて出陣させた。趙冲や金就礪らは契丹軍と数回戦って破り、契丹軍は勢いが弱まって江東城に撤退した。
 哈真札刺と完顔子淵が契丹追討のため江東に向かい、人を遣わして兵糧を求めた。諸将はみな行くことを憚ったが、金就礪は言った。「国の利害は正に今日にあり。もし断れば後悔するだろう。」趙冲は言った。「私も同意見だ。しかしこれほどの大事ではよほどの人物を遣わさなければならぬ。」金就礪は言った。「ここで辞しては臣下の勤めは果たせない。私は非才だが貴公と共に行こう。」趙冲は言った。「軍中の事は貴公を頼りとしている。行くべきではない。」
 翌年、金就礪は知兵馬事の韓光衍と共に十将軍の兵と神騎・大角・内廂の精鋭を率いて出発した。哈真は通事の趙仲祥を遣わし金就礪にこう伝えた。「これでわれらの友好は結ばれた。先に蒙古皇帝を遥拝し、次に万奴皇帝を拝礼すべし。」金就礪は言った。「天に二日無く、民に二王無し。天下に二帝がいるはずがない。」ただ蒙古皇帝のみ遥拝した。
 金就礪は身長六尺五寸、成人すると鬚は腹より下に伸び、盛服するたびに必ず二人の婢子が両脇から鬚を掲げて帯をしめた。哈真はその立派な風貌を見、更にその言葉に只者ではないと感じて、呼び寄せると同座し、まずは何歳か聞いた。金就礪は言った。「もうすぐ六十歳だ。」哈真は言った。「私はまだ五十歳で一家を成している。貴殿が兄、私が弟になろう。」そして金就礪を東向きに座らせた。
 翌日、再び陣に行くと哈真は言った。「私は今まで六国を征伐して多くの貴人を見てきた。しかし兄者のような風貌の人は見たことが無い。兄者の立派さを見るにその麾下の士卒も優れているのであろう。」そして金就礪が陣に戻る際、手を執って入り口を出、介助して馬に乗らせた。
 数日後、趙冲が来ると哈真は「元帥と兄者ではどちらが年長か」と尋ねたので、金就礪は「元帥の方が年長だ。」と答えた。そこで趙冲が陣中に入ると上座に座らせて言った。「まずは一言言いたい。非礼の恐れはあるが、親愛の情は外したくない。私は両兄の間に座りたいが、如何か。」金就礪は言った。「それはわれらも考えていたが、言い出せずにいた。」一同着席して酒を飲み楽しんだ。蒙古では、親愛の情を示すのに肉を刀で刺し互いに食べさせあうという風習があった。高麗軍は勇猛ではあったが、これにはみな難色を示した。趙冲と金就礪は立ち上がるとこれを受け、哈真らの喜びは最高潮となった。哈真はよく酒を飲んだが、趙冲と飲み比べをして負けた方が罰を受けることとなった。趙冲は多くの杯を空けたが酔った様子は無く、最後の一杯を掲げると口をつけずに言った。「これが飲めないわけではないが、もし勝てば約束があるので貴公は罰を受けなくてはならない。それならばいっそ私が罰を受けよう。」哈真はその言葉に大いに喜び、翌朝、江東城の前三百歩の地点で会うことを約束した。
 哈真は城の南門から東南まで深さ十尺の池を掘り、西門以北は完顔子淵に、東門以北は金就礪に委ね、契丹軍の逃亡を防ぐため全軍で堀を掘った。契丹軍は追い詰められ、四十人あまりが城壁を越えて蒙古軍に投降した。契丹軍主将の喊捨王子は自害し、官人・兵卒・婦女五万人あまりが城門を開き降伏した。哈真と趙冲は状況を視察すると、王子の妻と子、僞丞相・平章以下百人あまりを馬前で斬り、その他は全て助命して諸軍に守らせた。哈真は言った。「われらは万里の彼方から来て貴国と力を合わせて契丹軍を破った。これは千載一隅の幸である。本来ならば貴国の王の元に行って拝礼すべきであるが、わが軍は多く、高麗の都は遠いため行くことは難しい。ただ使者を遣わして謝礼するだけにしよう。」哈真札刺は趙冲と金就礪にこう言って盟を結ぶことを求めた。「両国が永らく兄弟となり、万世子孫、今日のことは忘れない。」趙冲は宴席を設けて兵を労った。哈真は、婦女と子供七百人、契丹軍に捕まっていた高麗人二百人を引き渡し、十五歳前後の女を趙冲と金就礪に各九人、駿馬各九頭を贈り、その他は解放した。趙冲は契丹の捕虜を州県に分けて送り、広大な未開拓地に住まわせて田を給し、農業を営む民とした。これが俗に契丹場と呼ばれるものである。
 この年、義州の賊の韓恂と多智が守将を殺し、諸城が呼応して叛いた。枢密副使の李克ショに中軍を、李迪儒に後軍を、金就礪に右軍を指揮させて討伐させた。
 翌年、金就礪は枢密副使を拝命して、李克ショに代わって中軍を指揮した。韓恂・多智らは金の元帥の于哥下の配下となることを申し出、于哥下は二人を誘い出すと首を斬り、都に送った。三軍は、諸城が逆賊に加担した罪を裁くよう求めた。金就礪は言った。「『書経』に、「賊の首魁を殲滅すれば、脅されて従った者は処罰しない。」とある。大軍が臨めば燎原の火の如く無辜の民は被害を受ける。まして今は契丹のために関東は荒れ果てている。今、軍で攻撃すれば、自ら藩屏を撤去するようなものだ。残りの者は全て不問に付すべし。」
 金就礪は郭元固・金甫貞・宗周秩・宗周賚らを義州に遣わして残りの民を安心させた。しかし宗周賚は貪欲で多くの賄賂を取り、賄賂を出さない者は理由をつけて誅殺したため、州人は怨み、賊党の尹昌らを城内に引き込んで宗周賚らを殺した。郭元固と金甫貞は逃れてこれを報告した。金就礪は、判官の崔弘と録事の朴文挺を遣わして禍福を以って説得させ、続いて大将軍の趙廉卿と将軍の朴文賁に兵五千を指揮させて討伐に向かわせた。尹昌らは逃亡し、賊党は瓦解した。
 このとき契丹の残党が寧遠の山中に潜伏し、時折山を下りては盗みを働き民に害を成していた。金就礪は、李景純と李文彦を遣わしてこれを撃破したので、北境は安定した。
 翌年、枢密使・兵部尚書・判三司事を拝命し、まもなく参知政事・判戸部事に昇進、十五年に守太尉・中書侍郎・平章事・判兵部事となり、最終的に侍中となって、二十一年に卒去した。諡は威烈。
 金就礪は慎ましやかで実直、忠義心があり軍紀に厳しく、配下の士卒はわずかたりとも軍紀を犯さなかった。酒が手に入ると最も下の者とも均しく分け合って飲んだため、皆が死力を尽くして戦った。江東の役では万事趙冲を立て、戦いに臨んでは敵を制し、多くの奇計を用いて大功を立てたが、それを誇ることは無かった。相となると厳粛な態度で臨んだため、下の者は敢えてごまかすようなことはしなかった。高宗の廟に配祀された。

 子のセン(人偏に全)は門下侍郎平章事となった。その子は良鑑・イン(君に頁)・仲・保・ヘン(貝に并)で、良鑑の子は文衍である。


子や孫たちについてはまた次回。

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