ナントカ堂 2023/09/03 22:42

宋代随一の名門宦官

 今回は『宋史宦者伝』より、宋代随一の名門の宦官家を採り上げます。
 後唐の李継美が顕徳元年(954)以前より内侍としとして仕え、李舜挙が元豊五年(1082)の永楽城の戦いで戦死するまでの百三十年近くの歴史が『宋史』で確認できます。


李神福(『宋史』巻四百六十六 宦官一)


 李神福は開封の人である。父の李継美は後唐に仕えて内侍となり、顕徳の初め(954)に御厨都監となった。このころ宦官の服に身分の高い色を使うことは禁じられていたが、太祖は特別に紫の着用を許した。後に李継美は右領軍衛将軍にまでなった。
 李神福は若い頃、まだ晋王であった太宗の屋敷に仕え、勤勉で主人の気持ちを良く察し、少しも怠ることが無かった。太宗が即位すると入内高品に任じられた。太原遠征に従軍し、攻城の際、雲梯や衝車と陣の間を行き来して太宗の命令を伝達した。そこで太宗は陣中にて殿頭に昇格させた。太平興国六年(981)に入内高品押班に抜擢され、さらに副都知・勾当翰林司になり、入内内班都知・兼勾当祗候内品班に転じた。淳化四年(993)には崇儀副使・勾当皇城司に昇進した。「入内内班」の名称が「黄門」と改められると入内黄門都知に転じ、まもなく宮苑使を加えられた。
 太宗は書の名品を書き写すことを好み、李神福はいつもその側にいたので、書写したものを賜ることが多かった。太宗が危篤になると、李神福は朝夕側に侍り、自ら薬と食事の世話をした。
 真宗が即位すると皇城使・内侍省入内内侍都知に昇進し、恩州団練使・勾当永熙陵行宮事を領した。このとき太宗の肖像画が描かれ、その中で李神福が脇に立っていた。まもなく都知の辞任を申し出たので昭宣使・勾当皇城司を加えられ、宮城の側に邸宅を賜り、そこへ宮中の工匠が遣わされて整備された。
 咸平二年(999)秋、東の郊外で閲兵が行われると、李神福を大内都部署とした。その年の冬に真宗が大名に行くと、李神福は王継英と共に行宮使となった。四年(1001)、勾当三班となり含光殿を修築して多大な褒美を賜った。景徳の初め(1004)、親王諸宮使を兼領し、三年(1006)に宣政使に改められた。真宗が諸陵へ参拝するのに付き従い、再び行宮使となった。参拝のついでに西京に立ち寄ると、付き従った者のために宴会が開かれ、李神福が取り仕切った。
 大中祥符の初め(1008)、夜に天書が降った。このとき李神福は劉承珪・鄧永遷・李神祐・石知顒・張景宗・藍継宗と共に禁中に当直していたので、記念品と金銭を賜った。また都で宴会が開かれて、李神福は白文肇・閻承翰と共にこれを取り仕切った。
 この年、泰山を祀るため曹利用と共に行宮と道路の整備を任された。帝の一行が都を出発すると行宮使となり、祭礼が終わると宣慶使となり、昭州防禦使を領し、護衛隊を纏めた。これ以前に諸司の使職は宣政使を最上と決めていたため、このとき特別に李神福を宣慶使として宣政使と同格とし優遇した。三年(1010)、六十四歳で卒去して潤州観察使を追贈した。
 李神福は慎み深く穏やかな性格で、たびたび衛紹欽に罵倒されていたが常に身を退いて争わなかった。宮中に五十年勤めて長者と称賛された。しかし長年三班を統括していながら、規律が乱れ部下を統制し切れず、口利きを頼まれると断れなかったので、人々はその点を謗った。子は李懐斌と李懐贇、弟は李神祐である。

 李神祐は初め父の蔭位で殿頭高品となった。太祖が孝章皇后を娶るとき、李神祐に華州まで迎えに行かせた。乾徳五年(967)に太原遠征が行われると、玉璽を持って随行した。開宝二年(969)に再び太原遠征が行われたとき、北漢との国境周辺で兵糧を購入するよう命が下されていたが、太祖が潞州まで到着したとき、兵糧調達のため民が混乱する恐れがあったため、李神祐に駅で馬を乗り継いで早急に現地に向かい停止させるよう命じた。このとき先の兵糧調達の命が発せられて五日経っており、李神祐は一晩のうちに晋陽までたどり着いた。
 ある日、兵士たちが陣立てを終えたとき、敵が忍び込んであちこちに火を放ち梯子と衝車を焼いた。そこで太祖は即座に李神祐に衛兵を率いて援軍として駆けつけるよう命じた。李神祐は大勢の敵を斬り、残りの敵も総崩れになって散っていった。宋軍が広州を攻めると従軍の功により恩賞を受けた。
 南漢の劉鋹が平定されると、李神祐はまず南漢の国庫の物資を宋の都の開封に輸送した。地元の有力者の周瓊らが叛乱を起こすと、尹崇珂を補佐して平定した。
 六年(973)、曹彬の南征に従い、関城を攻め落として敵将の朱令贇を捕らえた。曹彬は李神祐に急ぎ都へ戦勝報告を届けるよう命じ、報告すると太祖から錦袍と金帯を賜った。
 太宗が即位すると南作坊副使に昇進した。呉越の銭俶が帰順すると、李神祐を遣わして旧呉越国の府庫の貯蓄量の調査を行わせた。再び太原へ親征が行われると、工夫千人を率いて従軍し、武具の修理を担当した。
 劉継元が降伏を申し出ると、太宗は城北の台で儀衛を並ばせてこれを受ける準備をした。しかし劉継元は時間になっても城から出てこなかった。そこで李神祐は単騎で城に入り、まもなく劉継元を連れて出てきた。
 燕薊へ北伐が行われると、劉廷翰と共に騎兵の精鋭を指揮して本隊を援護するよう命じられた。太宗が都に戻ると、李神祐は兵を率いて定州に駐屯し契丹に備えるよう命じられた。
 太平興国六年(981)に滑州において黄河の治水工事が行われることになったが、材料の葦が揃わなかった。これを解決するよう命を受けた李神祐は、急ぎ垣曲に行き、四百万の木の小枝を切って葦の代用とした。
 七年、契丹が辺境に攻め込むと、李神祐は兵を率いて瀛州に駐屯するよう命じられ、まもなく崇儀使・提点左右蔵庫に改められ、その後、洛苑使になった。
 至道の初め(995)、西の辺境が不穏となったため、霊州と環州の排陣都監に任命され、兵を率いて烏白池まで行き、そこから引き揚げた。まもなく永興に駐留して、朔方への兵糧輸送警護を担当した。
 真宗が即位すると内園使・邠州都監に転じ、真宗が北巡すると天雄軍都監・子城内巡検に改められた。このとき契丹軍があちこちにいて通路が遮られていた。そこで真宗は李神祐に、単騎で諸将のもとに行き密命を伝えるよう命じた。途中、敵の騎兵数百に出くわしたので、李神祐は伏兵がいるがごとく周囲に大声で呼びかけた。敵は恐れて逃げ出し、李神祐は使命を果たすことが出来た。
 まもなく邢州排陣都監・勾当西八作司に任じられた。景徳の初め(1004)に真宗が澶州に向かうと隨駕壕砦を領した。
 三年(1006)に入内都知となり、泰山の祭祀に随行し、都に戻ると南作坊使となった。このとき内侍で昇進の話があり、泰山の上まで随行した者とそうで無い者、また祭祀自体に参加していない者に分かれていたので、真宗は李神祐に、このときの勤務状況を評定するよう命じ、その報告書を人事担当に回さず自分で見て昇進を決めた。范守遜・皇甫文・史崇貴・張延訓らは以前に失態により降格され互いに功績を述べて庇いあっていた仲であったが、ここで李神祐らの勤務評定は不当であると泣いて真宗に訴え、却下されても四回訴え続けた。范守遜らは内常侍となっていたが、真宗は怒って全員を出仕差し止めにした。また李神祐や石知顒、副都知の張景宗・藍継宗も同時に免官となった。
 まもなく御厨を統括し、七年後に六十六歳で卒去した。大中祥符六年(1013)に孫の李永和を三班奉職に取り立てた。李神祐は慎み深い性格で、音律に通じ詩を詠むことを好んだ。

 子の李懐岊は太宗の時代に願い出て道士となり、その後再び内侍になった。辺境に駐屯することが多く、常に大鉄鞭を持って敵と戦い、何度も流れ矢に当たった。官は供奉官にまで至った。李懐儼は内殿崇班となった。

李舜挙(『宋史』巻四百六十七 宦官二)

 李舜挙、字は公輔、開封の人である。代々内侍となり、曾祖父の李神福は太宗に仕えて信頼された。李舜挙は若くして黄門に任じられ、仁宗の命で金工の監督となった。完成するとたびたび余剰が出たので、そのたびに献上し、仁宗にその正直さを評価された。後に秦鳳路走馬承受として地方に出た。
 英宗が即位し、李舜挙が奏上することがあって都に来ると、英宗が病気になったため内謁者が宮門を閉ざしていた。李舜挙は言った。
 「天子が即位したばかりで、地方から使いの者が来たというのに、一度も会わせず追い返しては、遠方の人間の心は離れてしまう。」
 内謁者がこれを英宗に報告すると、英宗は急ぎ呼んで対面し、話を聞いて機嫌が良くなった。そしてこれを機に「承受の職は守将が法を犯さないかを見張るのが本分であり、最終的には対立することにります。このため帥臣は保身のために承受の罷免を願い出ることがあります。」と進言し、旧制を改めた。
 熙寧年間(1068~1077)に内東門・御薬院・講筵閣・実録院の幹当を歴任し、郭逵が交州に遠征すると、広西幹当公事となった。
 軍中にあっては政務や作戦に与り、馬を乗り継いで都に来ては神宗から作戦を伝えられた。郭逵が左遷されたため、李舜挙も左蔵庫副使に降格となったが、その後、文思院使として文州刺史を領し、帯御器械となり、さらに内侍押班・制置涇原軍馬に昇進した。
 五路から兵を出したが戦果が無く、再び出兵することになって、李憲は兵糧輸送の責任者となった。このとき神宗から密かに、都転運使以下士気を落とす者は斬ることを許された。
 以前の戦いで凍死と餓死が多かったため、民は兵役を忌避し、銭百緡を出しても人夫一人も雇えず、皆で山に柵を立てて徴集を拒み、下吏が行って呼びかけると殴られた。解州では県令に枷を付けてまで督促したが集めることが出来ず、李舜挙がこの状況を奏上して出兵は中止となった。帝への報告が終わって退出し中書省に行くと、王珪はこう言って労わった。
 「朝廷は辺境に関し、押班と李留後に任せているので、西方は何も心配がない。」
 李舜挙は言った。
 「地方に砦が多いのは卿大夫の恥。相公が国政を担っているのに、辺境は二人の宦官に任せているのは如何なものか。宦官は宮中の庭掃除をしているのが正しいはずで将帥の任にあるべきではない。」
 これを聞いた者は王珪に代わって恥じた。
 その後、李舜挙は嘉州団練使に転じた。沈括が永楽に城を築くと、李舜挙が協議するために遣わされた。ここで突如永楽が包囲され、李舜挙は服の襟を切ると神宗に宛てたこのような文を記した。
 「臣は死すとも怨む所無し。願わくば朝廷はこの賊を軽んじることなきように。」
 まもなく李舜挙戦死の報せが届き、昭信軍節度使を追贈され忠敏と諡された。
 李舜挙は信頼の置ける性格で、宮中のことは一切人に話さなかった。書を読むことを好み文章を得意とした。御薬院に在ること十四年、当時神宗は「李舜挙は忠義者で慎ましく、ひたすらそれをを心がけたので、身も安泰で栄えている。」と書いたものを賜った。

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