ナントカ堂 2023/01/04 01:13

沈万三

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 新年初めの投稿は、『明代人物伝』より、『罪惟録』列伝巻三十二の「沈万三」の訳です。


  沈富、字は仲栄、行輩は三、沈秀はその俗称、沈郎は官職による呼称である。
 弟の沈万四は名を貴、字を仲華といった。
 もとは湖州の南潯の人で、元末に父の沈祐が蘇の長洲の東蔡村に移り住んだ。良い方法を見つけて水路の詰まりを直し富を築いたが、財産を重視することは無かった。子の沈漢傑は周荘に移り住み、後に沈万三も南京に移った。今の会同館はその旧宅である。
 洪武の初め、沈兄弟は富民として税一万石と白金五千を徴収され、軍営の建物六百五十棟を建てるよう命じられ、更には洪武門から水西門までの城壁を築くよう命じられた。沈万三はその上で兵士を労う費用まで出すことを申し出た。帝は「ここまで言うことを聞き続けるとは、その富が謀叛に使われては恐ろしい」と考えて殺そうとした。しかし皇后が反対したため取り止めた。
 その後、沈万三を告発する者が群を成して帝のもとにやって来たため、帝は沈万三を雲南に、弟の沈万四を湖州に流した。
 しばらく経って沈漢傑の子の沈玠が、民間の有力者であったため規定により戸部茶曹員外郎に任じられたが、官職は拝命して俸禄は辞退した。帝はその器量を認め重んじた。
 これ以前のこと。呉人の陸道元は江南で一番の富豪で、沈万三はその下で財産を預かり商売をしていた。陸道元は甫里書院山長となると、道士になる道を選び、託していた財産を二人の商人に与えた。一人は姓は葛で名は不明、もう一人が沈万三である。陸道元が喜捨した邸宅は竹林寺と名付けられた。道士の服を身に付けて師に就き、宗静と改名して陳湖のほとりに住んだ。陸道元はこれより良く人生を終えた。このことは楊循吉の『蘇談』に載っている。
 沈万三の遺宅は周荘にあり、建物はボロボロだがまだ残っており。敷地は甚だ広く大きな松があり、これが沈万三の植えたものだと言われており、子の沈漢傑もここに住んだ。沈万四の家は黄墩にあり代々伝わっている。両家の子孫は今でも裕福に暮らしている。

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