ナントカ堂 2022/03/31 23:35

李昭皇

日本版のWikipediaの「李昭皇」の項に

なお、李朝の皇族は、昭皇とその姉の李氏莹(中国語版)を除いて、全て陳守度によって殺害されている。

とあるのですが、これはやや不正確な記事でしょう。
これの元になっているのが『大越史記全書』の本紀巻五「陳紀」の壬辰八年(1282)の、不満を持った李氏一族が酒宴に集まったところを陳守度が謀殺したとの記事ですが。この注には「英宗の時代になお李家の族将が居るのに、潘孚先はそのことを書いていない。とりあえずはこのまま記す。」とあります。
潘孚先は『大越史記全書』の元となった『史記続編』を書いた人物ですが、後黎朝に仕える人物であったため、おそらくは前の王朝のことを故意に悪く書いたのでしょう。(何人かは粛清されたと思われますが、もともと李氏は先細りでしたし)
ちなみに上記については、本紀巻六の戊午五年(1318)の占城遠征の記事で「李家の族将で孝粛侯の李必見が陣前で死んだ。」と記されていて、それなりに処遇されていたことが分かります。

李昭皇についてもWikipediaには離別後のことが記されていないのが不十分と言えましょう。
Wikipediaにも「別号 昭聖公主」とありますが、これは太宗との間に子が生まれないために離縁された際、降格されてこの称号となったものです。
皇后を廃されたのが天応政平六年(1237)で数えで二十歳。子を成さないとするには早計であり、他にも理由が有ったのでしょう。
次に記事が見えるのが元豊八年(1258)、数え四十一歳のときで、モンゴル襲来時に最も活躍した黎輔陳に、御史大夫の地位と共に褒賞として嫁がされています。この黎輔陳は年齢不明ですが、単騎で蒙古軍の陣に突撃したり、しんがりとなって、モンゴル軍が乱射する矢を船板をひっくり返して防ぐなど、そこそこ若かったとみられます。
次に見えるのが宝符六年(1278)の死亡記事で、「昭聖は陳輔陳に降嫁して二十年あまり、男子は上位侯の琮、女子は応瑞公主の珪を生み、この年六十一歳で薨去した。」とあります。

ついでに書くと、Wikipediaを見るといまいちはっきり書いていないのですが、聖宗の母は李昭皇の姉の李氏莹で、李昭皇を廃したとはいえ、女系で李朝と陳朝は繋がっています。

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