ナントカ堂 2017/09/21 00:20

康茂才の子孫

康茂才の子孫について『明史』巻百三十はこう記します。
「(康茂才の孫の)康淵はまだ幼かったのでまだ爵位は継がず、散騎舎人を授けられた。その後、法に触れて、冠服を着用する身分を改められ、山西に住まわされて、結局爵位を継ぐことが出来なかった。弘治の末に康茂才の子孫を取り立てて世襲千戸とした。」

正史を編纂する際、儒者にとって興味の無いことは簡略化される傾向にありますが、『武宗実録』四の弘治十八年(1505)八月庚申の条にはこう記されています。
「開国功臣キ国公の康茂才の五世孫である康永を正千戸、安陸侯の呉復の五世孫の呉江を副千戸として共に世襲とした。康茂才の子の康鐸がキ春侯を継ぎ、康鐸の没後はその子の康淵が二歳になったばかりであったので、職務に就かせず禄だけ与えて誥券を賜った。洪武二十六年に誥券を召し上げて禄を停止した。呉復の子の呉傑は侯を継いだが、法に触れて広西南寧衛指揮使に降格となり、呉傑の子の呉璟以降爵位を継げなくなった。弘治年間に給事中の戴銑が「祭祀を絶やさないように功臣の子孫を取り立てるましょう。」と進言したので、担当官が康永と呉江を探し当て、ここに至り帝から任命された。

多分『明史』はこれを見て書いたのだと思われますが、これだと一体どこの衛所の正千戸なのやら分かりません。
ここで役に立つのが衛選簿、というわけで『中国明朝档案総匯』73のp.106の「康柱」という見出しの箇所を見ると南京錦衣衛前所所属の正千戸であることが分かります。一輩(輩は「○代目」の意)が康茂才、二輩が康鐸、三輩が康永となっており、五世孫の康永が三輩となっているあたり、官職に就いた人のみをカウントする衛選簿の「癖」みたいなものでしょうか。
康永まで備考欄が空欄となっており、康永の子の康堅の備考として、康永が康茂才の子孫として取り立てられた旨記されています。その後は康堅の子の康柱、康柱の弟の康棟、康柱の子の康応朝、康応朝の子の康承祖、康承祖の子の康国明と続いていきますが、特に手柄を立てたわけでもなく、代々正千戸(正五品)となって、九輩の康国明が崇禎十五年(1642、明が滅亡する二年前)に三十歳で比試に受かって地位を継いだところで記述が終わっています。

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