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2024年 03月の記事 (4)

ナントカ堂 2024/03/31 21:03

蔭位と進士

 『宋史』巻三十四「孝宗紀二」の乾道八年二月丙寅条に、「戸部尚書の曾懷に進士出身・参知政事を賜った。」とあります。
 ということはこの人、蔭位で出仕して戸部尚書になり、格好がつかないから進士の肩書を貰ったのでしょう。翌年には右丞相になっています。
 それならむしろ蔭位である事を貫いている韓侂冑の方が潔い気がします。
 宋代だと、詩を献じて帝に気に入られたから進士とか、推薦されて宮中に召されその場で試験を受けて進士とか、これってどこまでが情実なのか分かりません。

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ナントカ堂 2024/03/26 22:03

王雱

 日本語版のウィキペディアの「王雱」の項を見ると「野史記載」という箇所が書きかけのようなのですが、私はウィキペディアに書き込むやり方がよく分からないのでここに描きます。
 以下出典は『東軒筆録』巻七から。

 王安石の次子の王雱は太常寺太祝となったが、もともと心の病があった。
 同郡の龐氏の娘を妻とし、翌年、子が一人生まれたが、王雱はその顔が自分に似ていなかったため、様々な手段を用いて殺そうとし、遂には自分自身が心臓が止まって死んだ。妻とは毎日喧嘩をしていた。
 王安石は「我が子が正気を失い、妻には罪が無い」と考えて、離婚させようと考えていたが、悪評が立つのを恐れて、他に婿を選んで嫁がせた。

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ナントカ堂 2024/03/19 22:12

後周の世宗は狭量なのか

『宋史』の一番初め、「太祖紀一」を改めて読んでみたらこのような事が書かれていました。


 顕徳三年、宣祖(宋の太祖・太宗の父)は揚州平定の際に督軍となり、寿春で(後周の)世宗と合流した。
 寿春の餅屋の餅が薄くて小さかったため、世宗は怒り、十数人を捕えて殺そうとした。宣祖が強く諌めたため釈放した。


 他にも本紀に漏れた逸話もあるのに、何でこんな話を入れたのかは知りませんが、世宗は心狭すぎでしょ。

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ナントカ堂 2024/03/05 14:02

張茂則の孫娘

 つい先日、『宋史宦者伝』の修正を出したのに、また新たに修正を出すのは心苦しので、ここに書き込みます。

 張茂則は割と有名人らしく、ネット検索すると色々記事が出るので、本人については割愛します。
 先日修正分には、『元祐党人伝』から下記の記事を加えました。


 張巽は開封の人で、父の張茂則は『宋史』宦者伝に伝がある。元豊年間に左蔵庫副使となった。
 父の張茂則が宿衛と宮省にて四代の皇帝に仕えて清廉で慎ましく忠実に務めたことに報いるために、元豊八年に張巽を西上閤門副使とした。
 紹聖年間に客省副使に改められたが父の罪に連座して皇城副使に改められて鄧州都監として地方に出され、崇宝三年に党籍に入れられた。


 『范太史集』巻四十八を見ていたらこのような記事がありました。


『右監門衛大将軍妻寿安県君張氏墓誌銘』
 君張氏、曽祖父の永和は贈太尉、祖父の茂則は入内内侍省都都知・寧国軍節度観察留後、父の巽は客省副使、母は寿昌県君の高氏。十九歳で右監門衛大将軍の士宥に嫁いだ。
 貞淑で容姿に優れ、祭祀を行って礼に違うことなく、家をよく治めて寡婦の姑に朝夕怠りなく仕えた。
 元祐五年三月戊辰に二十二歳で亡くなった。娘が一人いたが夭逝した。(後略)


 この巻四十八は「皇族墓誌銘」と題されており、張茂則の家系が皇族と通婚する格式を持っていたことが分かります。

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