投稿記事

2021年 05月の記事 (5)

ナントカ堂 2021/05/23 13:06

趙普の子孫

 宋が、後周の皇帝の子孫の柴氏を優遇したことは良く知られていますが、建国の功臣である趙普の子孫も優遇していたようです。
 以下、『建炎以来繋年要録』から。


 紹興元年(1131)正月己未、詔に曰く。「趙普は太祖を補佐した元勲で、漢の蕭何にも匹敵する。子孫を訪ね才能を見て登用すべきである。」
同月辛酉、直筆の詔に曰く。「朕は、太祖皇帝が建国して万世まで続くようにしたことを思い起こした。太祖は『趙普の子孫一人を安定郡王に封じ代々絶やすことの無いように』との詔を下された。それが宣和の末に、太常と礼部の意見が分かれたため、安定郡王に封じる決定がなされずに今に至っている。朕はこのことを甚だ残念に思う。そこで担当官らは、誰を安定郡王に封じるか意見を合わせて上奏し、慣例に則り実行するように。」(巻四十一)

 紹興五年七月丙申、承節郎の趙圭を承忠郎・閤門祇候に昇進させた。これ以前のこと。高宗は「趙普が太祖を補佐した元勲で、漢の蕭何にも匹敵するのに、子孫は落ちぶれている」として、「所在を探し能力を見て登用するように」と命じた。趙圭は趙普の五代目の子孫である。(巻九十一)

 紹興五年八月己酉、詔に曰く。「趙普は建国に際して太祖を補佐し、他の勲臣とは比にならないほどの功績である。その五代目の子孫は六つの系統に分かれているが、各々二人に官職を与えるように。」(巻九十二)

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2021/05/18 20:13

童貫の最も早い伝記は

 童貫の最も早い伝記は『宣和画譜』巻十二「山水三」。宣和二年(1120)成立の書なので、生前にできたものです。以下の通り。


 内臣の童貫、字は道輔、京師の人である。慎み深い性格で寡黙、部下には寛大で度量が広く、喜怒を表に表さなかった。兵を上手く統制し規律を以って率いた。
 父の童湜は優雅で絵画を所蔵するのを好み、当時の名手の易元吉・郭熙・崔白・崔慤らに生活費を与えて、代わりに絵を供されていた。
 童貫は父の傍らに在って優れた作品を見ていたため、その妙技を会得した。次第に胸は高鳴っていったが、そのことは秘密にしていた。
 時折、傍らに筆と墨があると、戯れに山林泉石を描き、気の向くままに筆を走らせ、気持ちが落ち着くと止めていた。人がそれを持って行こうとすると、取り返して破っていた。興が乗って部下から揮毫を求められると、紙の裏や断片に書き、直ぐに仕舞われて再び人々の目に触れることは無かったため、全て珍玩となされた。このため希少価値があった。書き方は瀟洒で簡易、自由に描いて人に気に入られようとはしなかった。
 いにしえより軍を指揮する者は絵心があった。諸葛孔明の八陣図は配置がよく理解でき、馬援が米で山川を形作って作戦を説明したのも、絵心あってのことである。童貫もまた然り。
 童貫は湟・鄯で功を挙げ、西の辺境で城を落とし蛮族を討った。立派な風貌で、厳しくはなかったが威厳があった。賞罰を行うときは事前に素振りを見せなかったため、付け入る隙が無かった。童貫は寛大であったため、人々は率先して帰服した。「著脚赦書」と呼ばれるようになったのは、至る所で恩恵を与えていたからである。
 その功績は正史に詳しいので、ここに概略を記す。今、童貫は太傅・山南東道節度使を歴任して、枢密院事・陜西河東等路宣撫使を領し、涇国公に封ぜられた。現在、童貫の作で御府に所蔵されているものは四点ある。


 西上勝氏の「『宣和畫譜』小考」には

 『畫譜』の編集方針が、一方では歪みを生んでいることも否定できない。『畫譜』には、後の史家からは北宋末の「六賊」の一に挙げられることになる童貫をはじめとして、多くの宦官が内臣画家の名の下に挙名され過剰な賛辞からなる論評が与えられている。

 と記されていますが、童貫を「六賊」、宦官を佞臣とするのもひとつの偏見であり、多少褒め過ぎの感は否めませんが、徽宗だって芸術面だけなら一流の人物なのだから、良い作品でなければ御府に所蔵しないはずです。
 少なくとも、父は童湜で芸術家を支援していて、童貫は小さい頃から芸術に触れていた、というあたりは動かせない事実でしょう。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2021/05/07 20:57

趙夫人慕容氏誌銘

 『建康集』巻八の『趙夫人慕容氏誌銘』が面白かったので以下に訳します。


(前略)
 夫人の姓は慕容氏。河南の人で河南郡王の延釗の曽孫である。祖父は某、父は彦羲、母は王氏。
 夫人は幼いころから荘重ながらも慎ましやかであった。叔父で尚書の彦逢が、朝議大夫の趙望之との婚儀を纏めた。
 当時は平和が続いた時代であったため軍事を語ることは憚られていたが、望之は「李衛公六花陣法」を献じた。これにより試中書尚書となるところであったが、望之は「この陣法が妻の考えに拠るものである」と言った。姑に気に入られ閨房は粛然とした。
 夫人が三十歳のときに望之は逝去し、苦難を乗り越えて残された子を育て、名儒を選んで学ばせた。このため二人の子は共に科挙に合格し、娘も賢士に嫁いだ。
 次男の泉は初めに隨州司儀曹事となり、南道総管の張叔夜(「張耆」の項参照)に招聘されて幕僚となった。泉が勤王(宋朝のために金と戦うこと)に積極的に協力し、張叔夜と共に進軍していると、皇帝より急ぎ都に来るよう命令が届いたため、張叔夜は兵を率いて都に向かった。このとき夫人の長男(墓誌では実名を避けたため不詳)は穰県丞で民兵を率いており、弟と合流し共に夫人を奉じて進軍することとなった。その道中で賊徒に何重にも包囲され、全員が色を失うと、夫人は大声で呼びかけ先頭に立って言った。
 「都は陥落し、二帝は北に連れ去られた。まさに忠臣義士が功名を取る時である。まして汝らはみな国家の赤子であり、現状に苦しんでいるはずだ。わが長男は既に勤王の兵を率い、次男はここにいる。我が子らよ、災い転じて福と為せ。」
 賊徒らは拝礼して「我らは母が来たというのでお迎えに来ただけで、他意はありません」と言った。
 夫人は泉に命じて、この者たちと共に勤王の誓いを立てさせ指揮させた。
 南下して棗陽に到着すると「州は兵が不足して住民は不安を感じている」と耳にした。そこで泉が兵を指揮して棗陽を治めることになった。泉は朝夕訓練してその評判は高まり、敵は敢えて領内に攻め込まず、他の地域が攻め落とされると、泉は兵を率いて取り戻した。このことは朝廷にも伝わったが当時は交通が分断されていた。
 翌年になって新知州の楊卓が来たので交代した。困難に在って夫人の力により遂には一城の住民の命は助かった。
 夫人は膽略があり偉丈夫のようであったが晩年は健康に優れず、二人の子が交替で家に迎えた。婿たちも名声のある士で、当時の誉れであった。
 紹興十二年(1142)冬十二月十三日、軽い病となり亡くなった。享年六十五。二人の子が朝廷に願い出て、太宜人に封ぜられた。
(後略)


 私のような儒教の「崇高な精神」とやらを持ち合わせていない俗物だと、列女伝を立てるならこういう人を入れてほしい。どうも『宋史』の列女伝だと、操を守って死んだ人ばかりで面白くなくて。
 ただ一行ほどですが「彭列女」だけは面白いから好きですよ。以下その訳。


 彭列女は洪州の分寧の農家に生まれた。父の泰に従って山に入り薪を切っていると、父が虎に遭遇して逃げられなかった。女は刀を抜いて虎を斬ると、父を取り返して家に帰った。このことが報告されると、帝は粟帛を賜り、州県に季節ごとに挨拶に行くよう命じた。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2021/05/02 22:08

『宋史』と『東都事略』

 一日のうちに二度投稿するのは初めてですね。
ま、連休と言っても、私は倉庫で荷担ぎやっているワープアなので、カレンダー関係なく昨日も月火水も出勤なのですが、今日は休みで余裕があり体も楽だったので。


 前回の「宋初無頼の徒②」の終わりで『宋史』と『東都事略』の違いを書いたわけですが、康保裔を例にとりましょう。

 康保裔は『宋史』では巻四百四十六「忠義一」の初めに伝があります。


 康保裔は河南の洛陽の人である。祖父の康志忠は後唐の長興年間(930~933)の王都討伐の際に戦死した。父の康再遇は龍捷指揮使となり、太祖の李討伐に従軍して戦死した。
 康保裔は後周の時代に何度も戦功を立てて東班押班となり、康再遇が戦死すると(960)、太祖は康保裔に父の代わりに龍捷指揮使に就かせた。康保裔は石守信に従って沢州を攻め落とし、翌年には河東の広陽を攻めて千人以上を捕虜にした。
 開宝年間には諸将と共に石嶺関で契丹を破り、累進して日騎都虞候となって、龍衛指揮使に転じ登州刺史を領した。端拱の初め(988)に、淄州団練使の地位を与えられて定州に異動となり、天雄軍駐泊部署となった。まもなく代州知州となり、深州に異動、更に異動となって高陽関副都部署となり、侍衛馬軍都虞候を加えられて、涼州観察使を領した。
 真宗が即位(997)すると、都に召され、老齢の母を良く世話をしたとして、上尊酒・茶・米を賜った。まもなく彰国軍節度使を領して、并代都部署となって赴任した。天雄軍知軍に異動となると、并・代の住民が列を成して留任を求め、真宗はお褒めの詔を下した。その後、高陽関都部署となった。

 契丹軍が大挙して宋に攻め込み、諸将は河間で戦った。康保裔は精鋭を選んで援軍に赴き、到着したとき日が暮れたため、翌朝共同で攻撃することを約した。夜が明けると、康保裔の軍は契丹軍に幾重にも包囲されていた。側近が衣服を替えて突破し包囲を抜けるよう勧めると、康保裔は「危機に臨んでは逃げ腰になったはならない。」と言い、遂には戦うことを決した。二日間戦い、多くの敵を討ち取り、踏みしめた土埃が二尺も舞い上がる中、兵も矢も尽き、援軍も到着せず、遂には戦死した。

 このとき真宗は大名に陣を敷いていたが、戦死の報告を受けると体を震わして悼み、朝政を二日間停止して、侍中を追贈した。その子の康継英を六宅使・順州刺史、康継彬を洛苑使、康継明を内園副使、幼子の康継宗を西頭供奉官、孫の康惟一を将作監主簿とした。官職を与えられた康継英らは、謝してこう言った。
 「臣の父は勝利することができずに死にました。陛下がその子を処罰しないだけでも幸いなのに、臣らは格別の温情を蒙りました」
 そして悲しみのため地に平伏すと起き上がることができなかった。真宗は哀れに思い「汝の父は国に殉じて死んだのだ。追贈・恩賞は特に手厚くするべきである。」と言うと、側近を振り向き「康保裔の父も祖父も戦場で死に、自身もまた戦死した。代々の忠節を深く嘉すべきである。」と言った。
 康保裔の母はこのとき八十四歳であった。真宗は使者を遣わして慰問し、白金五十両を賜り、陳国太夫人に封じた。康保裔の妻は既に亡くなっており、こちらも河東郡夫人に追封した。

 康保裔は慎み深く温厚で礼を好み、賓客を喜んだ。騎謝を得意として、飛ぶ鳥や走る獣を必ず射止めた。あるとき三十本の矢を射て、全て先の矢の後ろに後の矢の先が刺さって落ちた。人々はその妙技に感服した。何度も戦塵を掻い潜り、その身には七十ケ所の傷があった。生前に兵たちを労うため公金から数十万を借りていた。このため没後に身近に仕えていた下吏が家財を売って返済しようとした。これを知った真宗は、更に手厚い賜り物をした。

 康継英は左衛大将軍・貴州団練使にまで至った。厳格な態度で兵を御し、一族には手厚く遇した。卒去したとき家産は何も残っていなかった。

 康保裔が契丹と血戦に及んだとき、援兵は到着しなかった。ただ張凝は高陽関路鈐轄として先鋒となり、李重貴は高陽関行営副都部として兵を率いて援護しようとしたが、契丹軍に遭遇して交戦となった。康保裔が敵に覆滅されたとき、李重貴と張凝は助けようとしても腹背に敵を受けていて、申の刻から寅の刻まで力戦して、ようやく敵を退けた。当時の諸将のほとんどが麾下を失った中、李重貴と張凝だけは軍を維持して陣に戻った。張凝が「将士の功を報告しよう」と言うと、李重貴は溜息をつきながら「大将が戦死したのに我らが功績を述べ立てて、何の面目があるか。」と言った。これを聞いた真宗は二人を嘉した。その後、李重貴は鄭州知州まで至り播州防禦使を領して、左羽林軍大将軍に改められて致仕した。張凝は殿前都虞候を加えられ、卒去すると彰德軍節度使を追贈された。


 一方、『東都事略』では忠義伝では無く、通常に伝が立てられています。
 以下、赤字が『宋史』との違い。


 康保裔は河南の洛陽の人である。祖父の康志忠は後唐の長興年間にの王都討伐の際に戦死した。父の康再遇は太祖が李筠を討つのに従軍し、太行山の麓で戦死した。地元民は廟を建ててこれを祀った。
 康保裔は後周の時代に戦功により東班押班となった。康再遇が死ぬと、太祖は康保裔に父の官職を継がせた。康保裔は石守信に従って沢州を攻め落とした。開宝年間に諸将と共に石嶺関で契丹を破り、各地の領軍職を歴任して登州刺史に昇進した。
 端拱の初めに淄州団練使・代州知州となり、その後、深州に異動となって、侍衛馬軍都虞候を加えられ、涼州観察使を領して、滄州に移鎮となった。
 咸平の初めに彰国軍節度使となり、高陽関の主将となった。契丹が宋の国境に攻め込んだが、傅潜は兵を擁しながら戦わず、諸将が河間で契丹と戦っても援軍は来なかった。康保裔は精鋭を選んで援軍として駆け付け、味方に「夜が明けたら共に戦う」と約した。夜が明けると、契丹に幾重にも包囲された。側近が「鎧を替え馬を走らせて包囲を抜け出るように」と勧めると、康保裔は「危機にあって逃げるわけにはいかない」と言い、意を決して二日間戦った。多くの敵を殺し、踏みしめた土埃が二尺も舞い上がる中、兵も矢も尽き、援軍も到着せず、遂には戦死した。
 報せを聞いた真宗はしばらくの間体を震わして悼み、侍中を追贈した。康保裔には八十四歳の母がいたが、陳国太夫人に封ぜられた。内使を遣わして弔問させ白金五十両を贈り、その妻は既に亡くなっていたが、夫人に追封した。
 康保裔は慎み深く礼を好み、軍政は厳格で規律正しかった。儒士を賓客として招くのを好み、騎射を得意とした。三十五本の矢を射て、その全て先の矢の後ろに後の矢の先が刺さって落ちた。人々はその妙技に感服した。生涯の戦いで七十ケ所の傷を負い、投石で鼻と臂を砕かれたが、自ら言うことは無かった。賜った金帛は士卒に分け宴を催して兵を労わったため銭数千万の借金があった。没した後、身近に仕えていた下吏が家財を売って返済しようとした。これを知った真宗は、更に手厚い賜り物をした。
子は継英。
 康継英、字は仲雄。父の蔭位で供奉官となった。康保裔が戦死すると特に六宅使・順州刺史の地位を与えられ、累進して馬軍都虞候・端州防禦使・渭州知州に、更に殿前都虞候・桂州観察使となった。康継英は「戎人は帰順したとはいえ、結局は姦計を企てるものである」と言い、大捜索して叛逆を企てる者を見つけ、殲滅した。このためその威は西方に鳴り響いた。建州観察使・衛州知州に改められたが、曹利用が失脚すると、その親族であった康継英も右羽林大将軍分司に降格となった。しばらく経って左衛大将軍・貴州団練使に復帰し、七十一歳で卒去した。
 康継英は兵を統率するのに厳格で、宗族には手厚く遇した。このため卒去したとき家財は無かった。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2021/05/02 10:49

宋初無頼の徒②

 高瓊は無頼の徒で、もう少しで処刑されるところ助かった人物です。『宋史』巻二百八十九よりその伝を見ていきましょう。

 高瓊は代々燕の人である。祖父は霸、父は乾。五代のときに李景が江南に割拠して密かに契丹と結び、毎年一回使者を往復させていた。高霸は契丹に命じられ、高乾を連れて李景への使者に同行した。ちょうど江左に到着したところで、南唐の密偵が北からの使者を察知し、契丹と後周が対立することを狙って襲撃した。このため高霸は殺され、高乾は濠州に居住することになった。高霸を殺したのは後周の者だと喧伝された。高乾が濠州に住む間に三子が生まれたが、江左の地は貧しかったため、まもなく一族を連れて後周に帰した。このため亳州の蒙城に田を支給されて定住した。

 高瓊は若いころから勇猛にして無頼で、盗賊となって失敗し、市で磔にされることになった。このとき夏の大雨が降り、見張り役がやや油断したので、釘を外して逃亡した。
 その後、王審琦に仕え、当時京兆尹であった太宗が、その勇猛で将才のあるのを見抜いて招き、帳下に置いた。
 あるとき、太宗が宮中の宴席に加わって大いに酔い、退出するので太祖が苑門まで見送った。このとき高瓊は戴興・王超・李斌・桑賛と共に付き従っていたが、高瓊は左手で手綱を、右手で鐙を執り、太宗を上手に馬に乗せた。太祖は高瓊らを見て頼もしく思い、その機会に控鶴官の制服と器物・布帛を賜り、心を尽くして仕えるよう励ました。

 太宗が即位すると、高瓊は御龍直指揮使に抜擢された。太原遠征に従軍したとき、弓箭手を二部隊指揮して攻城に加わるよう命じられた。
 幽・薊遠征の際、太宗は間道を抜けて退却することとなり、高瓊は軍中の鼓吹と共にしんがりを務めた。六部隊が太宗に従っていたが途中ではぐれ、高瓊だけが部隊を率いて陣に到着した。太宗は大いに喜び労をねぎらった。
 太平興国四年(976)、天武都指揮使に昇進して西州刺史を領した。翌年、神衛右廂都指揮使に改められ、本州団練使を領した。太宗が大名に巡察して閲兵したとき、高瓊と日騎右廂都指揮使の朱守節は分担して京城内を巡検した。その後、失態により地方に出されて許州馬歩軍都指揮使となった。

 高瓊が着任したとき、許州には逃亡した龍騎兵数十人がおり、知州の臧丙が出迎えに城から出たときに、脅迫して担ぎ上げ謀叛を起こそう計画した。高瓊はこれを聞くと速やかに臧丙に伝え、急ぎ城に戻らせて、自らは従卒数十人を率い、弓矢を執って単騎で追い、楡林村で追い付いた。反乱兵は村に入ると民家に押し入り、壁に上って防戦した。反乱軍首領の青脚狼なる者が弩で狙いを付けて高瓊を射ようとした瞬間、高瓊が弓を引いて一発で斃した。全員を捕えて許州に送り、臧丙がこのことを報告した。
 ちょうどこれから北伐が行われるところで、高瓊は呼び戻され、馬歩軍都軍頭の地位を与えられて、薊州刺史を領した。楼船戦棹都指揮使となり、軍船千艘を率いて雄州に向かい、易州に城を築いた。帰還すると天武右廂都指揮使となり、本州団練使を領した。

 端拱の初め(988)に左廂に異動となって富州団練使を領し、その年の秋に単州防禦使として地方に出て、貝州部署に改められた。同時に范廷召・王超・孔守正が地方官となったが、数ヶ月後に范廷召らは再び軍職に任じられ、高瓊はそのままであったため大いに不満であった。このころ貝丘を鎮守していた王承衍は、その妻の公主がたびたび宮中に出入りしていたため、太宗が高瓊を大いに気に入っていることを知っていた。そこで王承衍はたびたび高瓊を宥めた。
 二年に都に召された。慣例では廉察以上の官職の者が入朝した場合に茶と薬を賜っていたが、高瓊は特例として茶と薬を賜った。
 三月、朔と易の帥臣に昇進となり、制書によって侍衛歩軍都指揮使の地位を与えられて、帰義軍節度使を領した。このとき范廷召らはようやく観察使を加えられたが、高瓊の地位には及ばなかった。
 その後、并州馬歩軍都部署となった。このころ潘美も太原にいて、以前よりの規定で、節度使で領軍職者はその上の地位であったが、高瓊は「潘美が古くから仕える臣である」として、上表してその下に付くことを願った。太宗はこれを認めた。
 守備兵の中に倉庫の食糧が腐っていると言い触らす者がいた。これを知った高瓊は、ある日、諸営に巡察に出た。士卒がこれから集まって食事を摂ろうとしたところに現れて、その飯を取って自ら食べると、兵たちに言った。
 「今は国境で何事も無く、汝らは何もせずに食事が得られる。これを幸福だと知るべきだ。」
 兵たちの不満は収まった。
 鎮州都部署に改められ、至道年間(995~997)に保大軍節度使に改められて、軍の指揮権は元のままであった。

 真宗が即位すると彰信軍節度使を加えられ、太宗山陵部署を任され、その後再び并代都部署となった。
 咸平年間(998~1003)に契丹が宋領内に攻め入り、契丹王母の率いる部隊が狼山の大夏にまで至った。真宗は自ら河朔に出陣し、楊允恭を前線に派遣した。高瓊は一旦召されてから、麾下を率いて土門に向かい、石保吉と鎮・定で合流した。その後、傅潛がなかなか進軍しなかった罪を問われて更迭され、高瓊が召されて後任となった。戦が終わると再び任地に戻り、転運使が政治の実績を報告したため、お褒めの詔が下された。

 咸平三年(1000)に任期を終えて都に戻ると、手に傷があって笏が持てなかった。真宗は木の棒を持って拝謁することを許し、殿前都指揮使の地位を与えた。
 これより前の事、范廷召と桑賛が国境を守る兵を指揮していながら、敵が現れると退却した。言官が処罰すべきと進言したため、真宗は高瓊に尋ねた。高瓊は言った。
 「それは軍令違反で法に照らせば誅するのが妥当です。しかし陛下は既に去年その罪を赦しました。今更処罰するのですか。また今まさに各地に兵を配備すべき時に、何も起きていないのに指揮官を変えれば、兵たちは疑心暗鬼に陥るのではないでしょうか。」
 このため処罰は行われなかった。

 景徳年間(1004~1007)、契丹が進行したため真宗が北に出陣した。このとき前軍は既に契丹と交戦していて、真宗は自ら前線に赴く事を望んだが、ある者が南に戻ることを勧めた。高瓊は言った。
 「敵軍は既に疲弊しています。陛下自らが前線に行って兵を励ませば勝利するでしょう。」
 真宗は喜び、即日、澶淵に進軍した。

 翌年、停戦となると兵卒を整理することとなり、十年間国境の守備兵をしていた者は軍校に任じ、老兵は引退させて本班剩員とすることとなった。高瓊は進み出て言った。
 「これでは兵たちのやる気を上げることはできません。宿衛は苦労していないとでも言うのですか。」
 このため八年間勤めた者は全て軍校に任じられることとなった。

 馬軍都校の葛霸が臨時に歩軍司となっていたが、病のため引退を願い出たため、真宗は高瓊に二司を兼領するよう命じた。高瓊は従容として言った。
 「臣は老いていますが犬馬の労を厭わず、一人で二職を束ねましょう。臣が先帝に仕えていた時、侍衛都虞候以上は常に十名いて、その職位は宰相に次ぎ、容易に任免できました。また兵たちに人望がある人物が任命されてこそ、国境で非常事態があった場合にお役に立つでしょう。」
 真宗は深く同意した。まもなく以前からの病のため、願い出て軍権を解かれ、検校太尉・忠武軍節度使の地位を与えられた。
 三年(1006)冬、高瓊の病が重くなったため、真宗は自ら邸宅に行って見舞いをしようとしたが、宰相が不可としたため中止となった。七十二歳で卒去し、侍中を追贈された。

 高瓊は字が読めなかったが、軍政は熟知して、それを自任していたため、副将と協議することは少なかった。子供たちを善導し、その子の継勲・継宣・継忠・継密・継和・継隆・継元のうち、継勲と継宣が最も有名である。


 これが北宋期に書かれた『隆平集』だと、無頼で処刑されかけたという記述は無く、代わりに「あるとき高瓊が外で寝ていて、父が行ってみてみると、金の鎧を着た者が側にいるように見えた。父は不思議に思った」と書かれていて、『東都事略』もこれを引き継いで書いています。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事のタグから探す

限定特典から探す

記事を検索