ナントカ堂 2020/04/26 14:03

清朝遠祖と『明実録』

『全訳世宗実録地理志』の慶源都護府の項に注として、『清史稿』巻二百二十二にある清朝の遠祖の猛哥帖木児の伝を入れましたが、改めて以下に記します。


 猛哥帖木児は女真の頭人である。弟の凡察と共に、阿哈出父子と同時に勢力を興し、明が建州左衛を設置すると指揮使となった。十一年十月に釈加奴・猛哥不花と共に明に朝貢に行き、十四年に釈加奴と猛哥不花は明に朝貢すると部下のために官職を求めた。十五年二月に猛哥不花が明に朝貢した。十二月、釈加奴は言った。『顔春の頭人の月児速哥が自身の子を連れて来帰しました。建州に配属されることを願います。』釈加奴・猛哥不花・猛哥帖木児は何度も部下のために官職を求めたが、十八年閏正月、成祖は「功無くして官職は与えられない」とし、敕戒を賜り諭した。十九年十月、猛哥不花が明に朝貢に来た。二十年正月、成祖は塞外に親征し、猛哥不花は子弟と麾下を率いて従軍し、弓矢・裘・馬を賜った。二十二年三月、成祖は再び塞外に親征し、猛哥不花使は配下の指揮僉事の王吉を従軍させた。成祖はこれを嘉し褒美を与えた。七月、成祖は崩御した。
 宣徳元年正月、猛哥不花と猛哥帖木児が明に朝貢し、その月の壬子に猛哥帖木児は都督僉事に昇進した。釈加奴はそれ以前に卒去していたため、三月辛丑にその子の李満住を都督僉事とした。九月丁巳、猛哥不花は中軍都督に昇進した。二年二月、猛哥不花は使者を遣わして馬を献上し、まもなく卒去したため。四月、その子に贈り物をした。猛哥不花には子が二人いて、撒満哈失里と官保奴といった。撒満哈失里は、先祖の阿哈出が李姓を賜っていたため李氏となった。四年三月壬子、明は撒満哈失里を都督僉事とした。五年三月、官保奴は明に朝貢に来た。四月、李満住が「朝鮮と交易を求めましたが朝鮮に拒否されました」と訴えたため、宣宗は敕諭して、遼東の境界で交易することを許した。六年正月に釈加奴の妻の唐氏が、二月に撒満哈失里が朝貢した。七年二月、猛哥帖木児が弟の凡察に朝貢させ、三月壬戌、明は凡察を都指揮僉事とした。
 八年(訳注:朝鮮の世宗の十五年)二月庚戌、猛哥帖木児は右都督、凡察は都指揮使に昇進した。六月、撒満哈失里が朝貢した。この年、七姓野人の木答忽らが阿速江や衛の頭人の弗答哈らを糾合して建州を攻撃し、衛にて左衛都督の猛哥帖木児とその子の阿古を殺した。凡察はこの事件を明に報告した。)


 分かり易く纏まっているので概略を見るにはいいのですが、何しろ『清史稿』は猛哥帖木児が死んでから五百年後の編纂物なので史料的価値はかなり落ちます。
 清初に編纂されたものでも、口伝えだったものを二百年以上経って文字に起こしたものであり、また大して情報量はありません。
 例えば『清太祖実録』は


 ・・・・その孫は都督の孟特木。生来智略あり、先祖の仇の子孫四十あまりを殺そうと考え、蘇蘇河の虎欄哈達山に誘い出した。半数を殺して仇を取り、半数を捕えて人質にし捕えられていた同族を求め、得られると解放した。ここに孟特木は黒禿阿喇に住んだ。
都督の孟特木の子は二人、長子の名は充善、次子の名は除煙。充善の子は三人・・・・


 とあり、『満州実録』もほぼ同じです。


 一方、『明実録』は同時代史料で詳しく、『清史稿』の猛哥帖木児伝はこれを元にしていると思われます。
 以下、猛哥帖木児の初見から死ぬまでの記事を抜粋します。


永楽十一年十月二十八日
 建州等の衛から都指揮の李顕忠、指揮使の猛哥帖木児らが来朝貢し馬と土地の産物を献上したため多くの物を賜った。
永楽十四年二月十九日
 和寧王の阿魯台の使者の哈剌因らが来たため、建州左衛指揮使の猛哥帖木児らと宴会を開いた。
永楽十五年二月十二日
 建州左衛指揮使の猛哥帖木児が、部下の頭目の卜顔帖木児速哥らが任に堪えられると奏上したため指揮使・千戸・百戸に任命した。
永楽二十二年十二月/23日
 東寧衛指揮使の金声と建州左衛指揮使の猛哥帖木児が来朝して馬を献上したため、綵幣表裏を賜った。
宣徳元年正月 17日
 建州左衛指揮僉事の猛哥帖木児を都督僉事とし冠帯を賜った。
宣徳元年正月十八日
 建州左衛土官都督僉事の猛哥帖木児や東寧衛指揮使の金声ら二百八十四人に各々の地位に応じて鈔絹綵幣表裏を賜った。そこで遼東都司から綿布を出して賜るよう命じた。
宣徳三年正月二十日
  建州左衛都督僉事の猛哥帖木児が千戸の答答忽らを遣わした。答答忽らは三万衛百戸の趙鎖古奴らと共に来朝して馬を献じた。
宣徳三年十二月二十八日
 遼東建州衛都督同知の猛哥帖木児が指揮僉事の苦禿毛憐や衛指揮同知の哈児委らを遣わして馬と土地の産物を献上した。
宣徳八年二月三日
 建州左衛野人女直都督僉事の猛哥帖木児らが来朝して馬を献上した。
宣徳八年二月十三日
 建州衛都督僉事の猛哥帖木児、貴州臥龍番長官司長官の龍智保、金筑安撫司頭目の徐進通、広西龍英州土官の族人の趙福らにそれぞれ鈔幣絹布と金織襲衣を賜った。
宣徳八年二月十四日
  建州左衛土官都督僉事の猛哥帖木児を右都督都指揮僉事に、凡察を都指揮使に昇進させた。
宣徳八年二月二十四日
 建州左衛掌衛事右都督の猛哥帖木児や都指揮使の凡察らに、以前に楊木荅兀が連れて行き今は何もしていない官軍の兵士を北京に送るよう命じた。
宣徳九年四月十三日
 建州左衛都督僉事の凡察がこう奏上した。「去年、野人の木荅忽・木冬哥・哈當加らが糾合し、七姓野人が攻めてきて、略奪・殺人を行い、都督の猛哥帖木児やその子の阿古らがを殺してその財産を全て奪いました。問罪の兵を発することを願います。帝は侍臣に言った。「彼らは互いに敵対しているのが常態だ。どうして朕が求めに応じて遠夷のために中国の力を疲弊させようか。」結局、指揮僉事の施者顔帖木児らに勅を持たせて、建州左衛指揮同知の札剌児と共に木荅忽らのもとに遣わし、禍福を説かせ、且つその罪を赦して奪った人や馬、財物を全て返還させた。そして凡察とは敵対関係を解消させた。

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