ナントカ堂 2020/04/30 21:57

清朝遠祖と『朝鮮王朝実録』

前回の続き、というより前回が前振りのようなもので、今回ご紹介する『朝鮮王朝実録』はグッと記述が詳しくなっています。
 『朝鮮王朝実録』は女真蔑視のバイアスがかかっていますが、同時代史料なうえに記述も詳しく、猛哥帖木児について知るには現在最も良い史料でしょう。
 とりあえず初見記事からある程度、一部略しつつ見ていきましょう。(こんな感じの史料があるのかと言う気持ちでザっとご覧ください)


太祖四年(1395)閏九月八日
 吾都里上万戸の童猛哥帖木児ら五人が来て土地の産物を献上した。

太祖六年(1397)正月二十四日
 吾郎哈の八乙速・甫里・仇里老・甫乙吾・高里多時ら五人と吾都里の童猛哥帖木児・童所吾・馬月者・童於割周・豆乙於ら五人に各々地位に応じて綵紬絹綵緜布苧布を賜った。

定宗元年(1399)正月19日
 吉州都鎮撫の辛奮を遣わして、愁州兀良哈万戸の劉八八禾と吾音会、吾都里万戸の童猛哥帖木児・多甫水・兀狄哈らに酒を賜った。

太宗四年(1404)三月七日
 吾道里の童猛哥帖木児ら三人が来朝した。

太宗四年三月十八日
 童猛哥帖木児に段衣一式、ソウ花銀帯一腰と笠靴を賜り、内臣に命じて贈らせた。その従者十数人にも布帛を賜った。

太宗四年三月二十一日
 童猛哥帖木児が辞去し、その弟と養子、妻の弟を留め侍衛とした。主上は地位に応じて物を賜った。

太宗五年(1405)正月三日
 明の朝廷より使臣として千戸の高時羅らが吾都里の地に聖旨を持って来た。吉州按撫使の報告。

 使臣高時羅らが聖旨を読み上げようとすると、吾都里万戸の童猛哥帖木児は「およそ吾都里衛では(高位者への礼儀として万戸の名は記さない。これでは迎えられない。」と言って拒んだ。使臣らがこう言って責めた。
「(略)。」
猛哥帖木児は使臣に会っても礼をせず「わが名を記すな。私は屈しない。」と言った。
その母と管下の民は「もし聖旨に従わなければ、帝は必ずや朝鮮に勅を出し、捕えられて都に送られるだろう。」と言って反対したが、猛哥帖木児は怒鳴りつけて、結局従わなかった。

太宗五年正月七日
 大護軍の李愉を東北面の吾音会に遣わし、童猛哥帖木児を説得して表裏段衣一領を賜った。

太宗五年二月二十三日
 議政府知印の金尚琦を東北面に遣わし、童猛哥帖木児に慶源等処管軍万戸の印を一と清心元十丸・蘇合元三十丸を賜り(後略、以下部下への賜りもの)。

太宗五年三月十四日
 上護軍の申商を東北面に遣わして童猛哥帖木児を説得した。主上は左政丞の河崙と右政丞の趙英茂に言った。
「使臣が来た目的は童猛哥帖木児の招安だ。あの者は東北面の藩屏であり。卿らはよく対策を立てよ。」

太宗五年四月二十日
 王敎化的らが野人の地に来た。王敎化的らは八日に吉州に着くと、先に供を童猛哥帖木児や把児遜らの居所に遣わした。猛哥帖木児らは言った。
「我らは朝鮮に帰順して二十年以上経つ。朝鮮は大明とは兄弟のような付き合いだ。どうして我らが別に大明に仕える必要があるか。」
 十四日、王敎化的が吾音会に向かうと、 童猛哥帖木児は管下の人に従わないよう命じ、把児遜・着和・阿蘭の三万戸を連れて、路上で王敎化的の使いに会い「我らは朝鮮に仕えている。汝は徒に使臣と称してこの地を混乱させないように。」と言って会うのを拒んだ。吾音会に着くと、猛哥帖木児は約して言った。「意思は変わらない。朝鮮に仕えることに二心は無い。」

太宗五年五月二日
 童猛哥帖木児や波乙所らが勅書を迎え入れ綵段を受け取った。王敎化的の説得によるものである。

太宗五年七月二十三日
 大護軍の李愉を吾音会に遣わした。このころ朝廷では童猛哥帖木児を招諭してわが方に留めたいと考えており、このため李愉を遣わして意向を伝えたのである。

太宗五年八月二十八日
 李愉が東北面の吾音会から戻った。童猛哥帖木児らは李愉を欺いてこう言った。
「我らは明の朝廷の招安に従わないが、王敎化的らは明に帰順させようとしている。」
 初め、王敎化的が来た時、猛哥帖木児らは、我が国の領内に住んでおり、しかも厚恩を受けているので、朝廷の招諭を受けないと郭敬儀に話していたが、実は王敎化的と通じ、密かに王教化化的に同行して北京に行こうとしていた。この時わが国はまだこれを知らなかった。

太宗五年九月十三日
 童猛哥帖木児が王敎化的に同行して北京に入った。呂称の報告。

猛哥帖木児が言いました。「もし私があのとき入朝していなければ、わが領民に害が及んだでしょう。そこで已む無く入朝したのです。」
九月三日にその弟の於虚里に印を与えて臨時の万戸として吾東站に留めて、指示を待っています。

太宗五年九月十四日
 敬差官の曹恰を東北面に遣わし、童猛哥帖木児を説諭した。王敎化的に同行して北京に行ったためである。

太宗五年九月十七日
 計稟使通事の曺士徳が北京から帰ってきて伝えた。

 童猛哥帖木児の事で皇帝はこう宣諭しました。
 「東北面十一ケ所の民二千人あまりは既に帰順している。猛哥帖木児一人を気にする必要はないが、あれは皇后の親族なので、皇后の願いにより人を遣わし招来した。骨肉相まみえるのは人として大事である。朕が汝の土地を奪ったというなら話を聞くが、皇親帖木児は汝とは関係ないであろう。

主上が側近に言った。
 「今、皇帝の言葉を聞いて恥じ恐れる。先にしたことはどうにもできないが、これからのことはどうにかなる。帖木児を元の地に帰らせるのに油断無く、我が国の臣を遣わしての陳情も油断無く行うように。」
 そして参賛の李叔蕃を召して協議した。

太宗六年(1406)正月六日
 奏聞使・戸曹参議の李玄が北京から戻ってきて礼部の質問状をもたらした。
「(朝鮮と猛哥帖木の言い分が異なり、猛哥帖木の入朝を妨害しているのではないかとの詰問と日本との交渉について)」

太宗六年三月六日
 賀正使の姜思徳らが北京から戻った。通事の曺顕の報告。

 吾都里万戸の童猛哥帖木らが入朝しました。帝は猛哥帖木に建州衛都指揮使の地位を与えて、印とソウ花金帯を、その妻には?卓衣服金銀綺帛を賜りました。於虚出と参政の子の金時家奴を建州衛指揮使としてソウ花金帯を賜り、阿古車を毛憐等処指揮使として印とソウ花銀帯を賜り、阿難把児遜を毛憐等処指揮僉事として広銀帯を賜りました。

太宗八年(1408)二月二十七日
 東北面察理使の金承チョウが、建州衛指揮の於虚出らから綺絹などを贈られた。於虚出からは段子藍絹各一匹、童猛哥帖木児からは段子黄絹各一匹、千戸の於虚里からは鹿皮一領、千戸夫の乙居愁海からは獺皮一領、毛憐衛指揮の甫乙好からは大鹿皮一領。
 察理使は「これら臣に贈られた物を、臣は私的に受けず、封をして謹んで進上します。」と言い、担当官が処理した。

太宗九年(1409)十二月二十九日
 建州衛指揮の童猛哥帖木児が使者を遣わして礼物を献じた。主上は手厚くもてなすよう命じた。

太宗十年(1410)二月二十五日
 上護軍の李和美と検校漢城尹の崔也吾乃を建州衛に遣わし、童猛哥帖木児に苧麻布各十匹、清酒二十甁を賜った。現状を見るためである。

太宗十年二月二十六日
 大護軍の黄碩中を東北面敬差官とした。黄碩中は童猛哥帖木児に酒饌を贈った。

太宗十年三月九日
 吉州道察理使の趙涓らが豆門に至り、毛憐衛指揮の把児遜・阿古車・着和と千戸の下乙主ら四人を誘い出して殺し、兵を好きに暴れまわらせてその部族数百人を皆殺しにし、家を焼き払って帰還した。男一人女二十六人を捕虜とし、将士が男女若干を捕えた。趙涓は議政府に以下の戦勝報告をした。

 私は二月二十九日、辛有定・金重宝・郭承祐と共に兵馬千百五十名を率いて吉州しました。
 三月六日、童猛哥帖木児の居住地の吾音会に到着し、近隣の兀良哈指揮使の阿乱孫の子の加時仇を捕えて問いただし、慶源に侵入した賊党の情報を得ました。一味は近隣の兀狄哈の金文乃・葛多介・将老・多非乃と童指揮使管下の安春・喫里ら数十名、豆門接甫乙吾管下の崔哈児不花らでした。また聞くところによれば、童指揮使が後ろ盾となり、兵を率いて慶源府管下の多老に至り、人・家財・牛・馬を奪っているとのこと。また甫乙吾は察理使に会いに行くと称して、多くの部族民を率い、通過した多老略奪の限りを尽くしたとのこと。
 九日、至兀良哈指揮使の阿古車の居所の豆門で、加時仇の兄の哈児非を捕えてこのような情報を聞きました。葛多介と金文乃は当初、共に大父阿乱の所に行き、甫乙吾・阿古車・着和らと侵入の計画を立てました。これに協力した賊の一味は葛多介らでもとは五戸だけででした。童指揮使は人を遣わして「朝鮮が問罪の兵を興した」と伝え、騎山に匿いました。これらが密かに兀狄哈・兀良哈・吾都里に「女真は通婚して同族である」と言い、共謀して群盜となり、辺境に侵入して牛馬を奪い人を殺して。遂には国庫を開き、被害は甚大となりました。童猛哥帖木児は初め共同で賊を捕えると約束し、合流する期日まで決めていましたが、今や東良北人と通じて兵を引き揚げています。阿古車・把児遜・着和らも豆門で集結し、要害に伏兵を置いて、童指揮使と共に連携して戦う準備をしています。既に賊の首魁の阿古車・把児遜・着和とその部下の乙主ら及び兵士百六十名は捕えて斬りました。金文乃らは初めは首謀者では無く既に逃亡していますが、連日の行軍で進軍は困難なため、我らは慶源府の多老に引き揚げて次の指示を待っています。

この報告が届くと主上は言った。
 「指揮使らは等、中朝より官職を受けた者だ。今、勝手に殺せば上国と戦端を開くことになる。速やか報告し、捕えた者を全て元の地に帰らせるように。」


 とりあえずここまで。
 上記最後の記事の紛争が集結するまで同じ分量の報告が8つほどあり、最終的には部下が勝手にしたことで本意ではないと童猛哥帖木児が頭を下げる形でとりあえず終息します。
 この後は貢納したり食糧援助されたりで小康状態となりますが、世宗五年以降問題が再燃し、記述量はさらに増え、最終的には童猛哥帖木児が殺されるに至ります。
 なお『朝鮮王朝実録』の童猛哥帖木児に関する記事は、ここで訳した分の10倍以上の分量になります。

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