ナントカ堂 2019/12/29 15:47

『朝鮮実録』中の関が原の戦い記事

宣祖三十四年(1601)四月二十五日の記事の日本から戻ってきた姜士俊らの報告
大体あっているけど簿妙に違う


 戊戌八月十八日、平秀吉が病死した。その近臣の石田治部卿・増田右門丞・長束太蔵丞の三者に「汝らは幼子秀頼を補佐して、わが言いつけに背く事の無いように。」と遺言した。また内府家康なる者に「関東、北三十三州は汝が鎮守し、わが幼子を保つべし」、次に中納言輝元なる者に「関西、南三十余州は汝を首とす。わが幼子を託すので、謹んで後事を保つように。」と命じた。
 同年冬、清正や甲裴守らは、石田治部卿を深く憎み、秀吉の生前に自分達があまり重用されていなかったため、家康に阿附し、石田治部卿を江州佐祐城に追放した。
 己亥年夏、家康は更に秀頼の乳父の蒔田肥前州を加州に追放して自らは伏見城に入った。
 同年九月、秀頼が心配であるとの理由をつけて、家康は自ら秀頼の居所の大坂城に入った。これより大坂城を占拠して国政全般を壟断し、上下心が離れた。
 中納言景勝なる者は三州を領する将である。東北隅に在って、家康が秀吉に背いたことを深く嫌悪し離反しだした。家康は再三招致したが遂に帰服することは無かった。
 庚子九月、家康は兵五、六万を率いて、根拠地の越州能登に到着し、その子で三河守なる者が兵五、六万を率い、先鋒として景勝を攻めた。七戦五敗、降すことができなかった。
 石田治部卿らは、家康が秀吉に背いて国政を壟断していることを憎み、輝元が兵権を有して柔和なことを慕い、虚に乗じて入城するよう輝元に勧めた。
 こうして増田右門丞が副となって秀頼の居所に留まり、石田治部卿は、備前州中納言平秀家・小西行長・薩摩島主島津らの軍四、五万を率い、中路兵となって海州と濃州の境の大恒城に行って陣を敷いた。
 長束大蔵丞と安国寺の両名は群総となり、輝元の養子の芸州宰相秀元や龍蔵寺雲州侍従らの軍四万三千を率いて右路兵となり、伊勢州に行って津城と松塢城を攻め落とした。両城が家康に加担したためである。
 兵を濃州の関原に移すと、大田刑部卿が山口や玄蕃守らの軍七千を率いて左路兵となり、、越後州で防戦し、家康と共謀していた蒔田前州守の兵を追い払った。
 三路の兵は濃州の関原で集結して陣を敷き、家康が来るのを待った。
 輝元が既に大坂城に入ったと聞いた家康は、兵を出して応戦すると言い、自らの麾下の兵八万あまりを率いて、昼夜徹して濃州の青原に到着した。
 このとき黒田甲裴守なる者がいて、輝元の婿の筑前州中納言と輝元の従弟の雲州侍従と以前から知り合いであった。両名が内心では輝元の考えに反対だと知った甲裴守は、家康に密かにこのことを報せた。家康は甲裴守に離間させるよう命じた。筑前州中納言らは甲裴守の甘言を聞き入れ「九月十四日、そちらから不意に騎兵の精鋭を率いて出陣してください。われらは三路の兵の先鋒であるよう見せかけて、反転して関原を攻撃します。」と約束した。果たして家康はその通りにし、筑前中納言らも約束通りにした。
 日夜連戦し、関原三路の兵は大敗壊走して、秀家・大小刑部卿らみな戦死し、その他は全て四散した。
 家康は勝ちに乗じて長駆し、近江州の勢多橋に至ると、雲州侍従なる者を招き寄せて言った。「汝の従兄の輝元が開城して自ら退くならば命を助けよう。」輝元はその偽りを信じて、城を棄て本津に撤退した。
 同月二十七日、家康が再び秀頼の城に入り、増田右門丞ら叛逆者十数人を捕らえ、脅して腹を刳り貫かせ首を斬った。また石田治部卿・平行長・安国寺の三人は都を引き回して、京の東の橋頭に梟首した。
 輝元にはこう言った。「汝の罪は死に値するが、汝の愛妾と子の秀就を人質とするなら赦そう。」輝元は言われた通りにした。
 家康は人質を受け取ると、輝元の食邑八州のうち六州を奪い、脅迫して僧とした。
 景勝の兵は勢いを増し、近隣の賊酋で来附した者は六、七人に至った。家康の子の三河守なる者も父に背いて景勝に合流した。景勝は雪が消えるのを待って長駆と云々。これが家康の大いなる悩みとなった。また土佐侍従なる者が南京路に在って家康に逆らい、また薩摩侍従島津なる者が輝元の一党であった。
 家康は去年の十月の間に、孫婿の清正を将とした。清正は四万の兵を率いて島津と戦ったが、四回戦って全て敗れた。兵を退いて講和しようとしたが、島津は従わず未だ和議は成されていない。風聞では島津は兵船七十隻を造って、入唐すると公言しているという。
(以下略)

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