ナントカ堂 2019/12/24 19:16

孔巖許氏

「金就礪の子孫」で金倫の外舅として出てきた許キョウ(王に共)は『高麗史』巻百五に伝があります。
『高麗史』には父の遂が枢密副使であったことのみ記され、祖父以前のことは記されていませんが
万暦五年(1577)に立てられた「許曄神道碑」(『朝鮮金石総覧』下p.790~795/「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます)には
「按ずるに、許氏は金酒露王の妃より出る。鼻祖の宣文は、高麗の太祖が三韓を平定するのを補佐して孔嵓に領地を与えられ陽川の人となった。それから連綿と八代、キョウは・・・」とあり
万暦十年(1582)に立てられた「許琮神道碑」(『朝鮮金石総覧』下p.799~803)には
「遠祖の宣文が高麗の太祖の百済討伐に従軍して功があり孔巌村主に封ぜられた。八代前の祖のキョウは・・・」とあって
本人の墓誌((『朝鮮金石総覧』上p.464~467)には
曽祖父の利渉は典厩署丞、祖父の京は礼賓少卿・知制誥、父の遂は枢密副使・翰林学士承旨で、その子の冲の六代目の外孫であると記されています。
では『高麗史』巻百五の本伝を見ていきましょう。



 許キョウ、字はウン匱、初名は儀、孔巖県の人である。父の遂は枢密副使となった。許キョウは幼い頃から聡明で立派な風貌をしており、高宗の末に科挙に合格した。承宣の柳ケイ(王に敬)が許キョウ・崔寧・元公植を推薦したため三人とも内侍に属して政事点筆員となり、当時「政房三傑」と呼ばれた。
 国学博士に転じ、元宗の初年に閣門祗候となり、累進して戸部侍郎となり、神宗・熙宗・康宗の実録を編纂した。十年には右副承宣・吏部侍郎・知御史台事時となった。
 当時は林衍が権力を握っていて、子の林惟茂の妻に許キョウの娘をと望んだが、許キョウは断った。林衍が更に迫ったが、許キョウは断固断り、林衍はこの件を王に話した。王は許キョウを召すと言った。「林衍は凶暴である。怨まれればどうなるか卿は深く考えたほうが良い。」許キョウは言った。「たとえ災いが降りかかろうとも、臣は賊臣の家に娘を嫁がせません。」王はこれを義として「卿の良き様にせよ」と言った。許キョウは退出すると、娘を平章事の金セン(人偏に全)の子の金ヘンに嫁がせた。林衍はこれを深く怨んだ。
 林衍が金俊を殺すと、文武官の多くが殺された。許キョウはたまたま妻の葬儀のため陽川に行っていて、通津まで戻ってくると変事を聞いた。害される前に河に身を投げて死のうと考えたが、「死生は天の定める所である」と考え直して都に戻った。
 林衍は多くの朝臣を殺してしまったため、良い人材を選ぶ人がいなくなっていた。そこで側近に「許キョウは帰っているか。」と尋ねた。このことを知った許キョウが林衍の家に行くと、林衍は大喜びして迎え入れ、座らせると謝して言った。「私は有事のため葬儀に参列できませんでした。非礼をお許しください。」そして許キョウに人事を任せた。許キョウの人選が適材適所であったため、林衍は喜び、王に進言して、許キョウは多くの褒美を賜った。
 林衍は王を廃し、「王は病のため位を譲った」と偽って蒙古に報告した。蒙古ではそれが偽りであると知り、王を入朝させて直接事情を聞くと命じた。王は松站まで来ると、従臣に「東京行省に到着して林衍の廃立について尋ねられたなら、どう答えれば良いか。」と聞いた。許キョウと大将軍の李汾禧・将軍の康允紹らは、林衍の意向に沿って「書面で返答すべきです」と言った。
 ユ超は承宣のユ弘之の子で、もとは僧であったが、還俗して李蔵用の孫娘を娶っていた。李蔵用に同行して元に行くと、皇帝に気に入られようとしてこう訴えた。「高麗の承宣の許キョウ・上将軍の康允紹・将軍の孔愉は共謀して元の朝廷に叛こうとしています。」皇帝は不花に命じて許キョウらを逮捕させ、ユ超と対面させ弁論させると、ユ超は讒言であったことを認め、杖刑に処された。許キョウは簽書枢密院事に昇進した。
 忠烈元年に官制が改められると監察提憲を拝命した。許キョウはは政堂文学の尹克敏の娘を妻としていて、その没後に妻の弟の娘を家で養っていた。以前これを監察が弾劾していた。このため、新官制となって朝臣全員が新たな官職に就いたことを謝恩したが、許キョウだけは許されなかった。
 判密直・知僉議府事を歴任した。元の世祖が日本遠征軍を出すと、高麗王は都指揮使を各地に派遣して軍船建造を監督させた。許キョウは慶尚道に、洪子藩は全羅道に派遣された。洪子藩が半分も完成させられないうちに、許キョウは全て完成させて帰還した。洪子藩はその能力に敬服した。
 参文学事・修国史に昇進して韓康・元傅らと『古今録』を編纂し、僉議中賛を拝命した。
 十六年、王が元にいて、許キョウと洪子藩が留守を守った。哈丹賊が東の辺境に侵入を図ると、既に国内に入っているとの噂が流れ、内外が動揺した。
 洪子藩らは江華に避難しようと言ったが、許キョウと崔有エンだけは「今、王は大都にいる。噂を信じて無断で遷都するべきではない」と言って反対した。洪子藩らは耆老・宰相を集めて協議し、全員が遷都すべきであるとしたため、許キョウは制止することができず、書記官を呼んで「衆論がこうなったため阻むことができない。私だけ都に留まって守り、王命を待つ。」との発言を記録させた。諸宰相は皆こう言った。「人は許中賛を国家を鎮定する人物だというが、今や国を誤らせるか。」許キョウは家に帰ると子や孫を召して言った。「私はここに留まる。もし私に従わないのならば、わが子孫ではない。」まもなく印侯が元から遣わされて言った。「再び江華に遷都すると聞いた皇帝は王に言った。『それが事実なら首謀者を捕らえてつれて来い』と。」国中の人がこれを聞いて、許キョウの見識に敬服した。
 翌年、元が哈丹追討軍を派遣すると、許キョウもこれに応じて出陣し、連日馬から下りなかったため気の病となった。それでも数ヶ月間臥せらなかったため、八月になると重態となり、五十九歳で卒去した。諡は文敬。王は左司議大夫の金カンに命じて弔わせた。
 (中略)
 子は程・評・冠・寵・富で、程は東州事、評は後に嵩と改め検校政丞・陽川君となって没後に良粛と諡された。その子はソウ(りっしんべんに宗)である。

 許ソウは忠烈王によって宮中で育てられ、長ずると忠宣王の娘の寿春翁主を妻とした。許ソウは若い頃から富貴で、よく礼を守り人に施すことを好んだ。
 忠烈王の時代に守司空となったがまもなく辞め、皇帝の命で元に行き、三年間留められた。
 忠宣王の時代に守司徒・定安君となり、後に再び元に行ったが、父母を立て続けに亡くして帰国し、自ら隠棲した。そして毎日医術を以って人を生かすことに専念した。
 元にいた忠粛王に召されて大都に行った。このとき忠宣王が北から大都に戻り、許ソウの手を握ると泣いて言った。「私にはただ娘が一人しかいない。その娘が卿と二十七年間仲良く暮らしている。そこが私の気に入っている所だ。」そして多くの贈り物をした。
 忠粛王が帰国すると定安府院君に加封され、その後再び忠恵王に従って元に行き、五年間留められた。忠穆元年に翁主が亡くなると、悲しみのあまり病となり卒去した。
 


以下、附伝として冠・錦・富・猷の伝がありますが割愛。

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