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ナントカ堂 2022/12/06 12:00

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ナントカ堂 2022/11/30 00:34

黎利

日本語版のwikipediaの「黎利」の項に、『明実録』の「利初從陳季擴反,充偽金吾將軍,後束身歸降,以為巡檢,然中懷反側。」の訳として「黎利は表向き明に降り、巡回活動を行いながら、その実明への反乱を企図していた」とあるのですが、多少誤訳気味な気が。
相変わらずwikiの編集の仕方が分からないからここに書きます。


『明実録』の上記の記事の直前はこう書かれています。
「交阯總兵官豐城侯李彬以清化府俄樂縣土官巡檢黎利叛遣都督朱廣等往勦之」
(交阯総兵官・豊城侯の李彬が「清化府の俄楽県土官巡検の黎利が叛いた」と報告したため、都督の朱広らを討伐に向かわせた)
同様の記述は『殊域周咨録』巻五にもありますが、巡検はwikiの「明朝の官職」の項にあるように従九品の官人です。
『大越史記全書』には、明からの官爵による懐柔に惑わされず、山中に潜伏して仲間を集めたと記しますが、実際には当初土官として明の統治に組み込まれていたようで、黎朝の「建国神話」としては相応しくない事実であるため改変されたのでしょう。
またwikiには「明内臣馬騏等大舉兵」の訳として「明軍は内大臣の馬騏を派遣したが」とありますが、内臣とは、外廷つまり表の朝廷に対する、内廷つまり後宮の臣で、宦官のことです。

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ナントカ堂 2022/11/19 10:26

雲南の技術力

 大理国の工芸技術は高く『万暦野獲編』巻二十六にこのように記されています。



雲南雕漆

 現在、雕漆の什器は、宋の物が最も重んじられ、永楽・宣徳年間のものがこれに次ぐ。いわゆる「果園廠」の物は宋代の物に近い値が付く。漆の光沢が暗く彫りの文様が拙い物は、「旧雲南」の物と口々に蔑まれ、その値は最高級品の一、二割にしかならない。
 あるとき、骨董の収集家が集まって話し合い、剔紅香盒に話題が及ぶと、各々自説を展開し、論争が起きた。私はこう言った。
 「これらの技術は全て雲南から来たものだ。唐の中期に大理国が成都を攻め落とし、全ての職人を連れ去った。これより雲南で漆器や織物の技術が天下一となった。唐末に再び中華と国交が復活し、南漢の劉氏と通婚すると、次第に「滇物」が流入した。元の時代に大理を降すと、その地の最高の職人を選んで宮中に入れた。わが明朝がその地を吸収すると、滇の職人は内府に満ちた。これが今の御用監であり、供用庫の諸役は全てその子孫である。その後、次第に技術が廃れて言ったため、嘉靖年間に、帝は雲南に、宮中で役立つような技術者を選んで都に送るようにと命じられた。もし「旧雲南」の物が手に入ったなら、「果園廠」の数倍の価値があるだろう。」
 並みいる骨董の収集家は黙って反論できなかった。

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ナントカ堂 2022/10/10 00:20

明の海禁政策

 元代に海外と貿易を行って富を蓄えた商人たちも、明代になると海禁政策により海外に出られなくなり、その一部は内地の水運に転じたことが『平橋稿』巻十四の「潘紹宗小君墓誌銘」から分かります。


 (前略)潘九宰は元により海道万戸に任じられた。その家では巨大船舶を三隻建造し、その大規模なものは一万石、中規模のものは八千石、小規模のもので六千石を積むことができた。毎年、万戸として得られる港湾税を用いて朝鮮まで行って交易を行い、多くの富を蓄えた。
 九宰と紹宗の父の祥卿とは仲が良く、祥卿の家もまた旧家であった。九宰が老いて子が無かったことを憐れに思った祥卿は、紹宗をその後継ぎとした。
 紹宗は体が大きく酒を嗜み施すことを好んだ。延祥寺を造営する際に米四千斛を寄進し、貧民が死んで棺が買えない場合には棺を与えた。三十年以上身を慎んで生き、公務を務めて過誤は無かった。
 永楽壬辰(1412)、湖湘を遡上し采石を過ぎたところで強風に遭い、船は壊れて紹宗は体を壊し、進めなくなって家に帰った。門まで迎えに出た妻は、紹宗の変わり果てた姿を見て抱き着き、泣きながら家に入れて何人もの医者に見せたが良くならなかった。妻は毎夜、香を焚いて神に祈ったが、遂には亡くなった。(後略)

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ナントカ堂 2022/09/21 00:10

朱驥(于謙の娘婿)

 朱驥という人物は、日本版のwikiには「于謙」の項に「娘婿は朱驥」としか書かれていませんが、錦衣衛の官人です。相変わらずwikiへの書き込み方が分からないのでここに書きます。


『明実録』孝宗巻四十六 弘治三年十二月十六日
 掌錦衣衛事都指揮使の朱驥が卒去した。
 朱驥は字を尚徳といい、順天府の大興県の人である。 初めに錦衣衛正千戸を継いだ。
 天順の初めに前兵部尚書の于謙に縁座して威遠に流されたが、まもなく召還された。
 成化の初めに指揮僉事に昇進し提督官校となった。妖言を流布した者を捕えた功と以前に配流された地で北虜の首級を挙げた功により、指揮同知に昇進した。指揮使・都指揮同知・都指揮使を歴任し、掌衛事となって、ここに至り卒去したため、特別に官費で葬儀を行った。
 朱驥は錦衣衛に最も長く勤め、成化帝に頼りにされた。寛大な性格で見識があった。
 成化年間に饑民が略奪を行い、担当官が捕縛した。そして粟を一斗以上盗んだ者を死罪とすべく牢に入れたが、収容しきれなくなった。朱驥は言った。
 「これはただの窮民に過ぎず、憐れむべき事情があり、多くはただ従った末端の者で減刑すべきである。」
 妖人の真恵なる者がいて、偽書を作成して人々を惑わし、その言葉は法に触れるものであった。事が発覚して連座する者百人、全員が死罪に相当した。朱驥は「真恵のみに罪が有る」とし、上に願い出て、他の者は辺境に流して守備兵とすることとなった。
 他にも多くの件でこれと同様に法を寛大に適応した。

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