ナントカ堂 2022/11/19 10:26

雲南の技術力

 大理国の工芸技術は高く『万暦野獲編』巻二十六にこのように記されています。



雲南雕漆

 現在、雕漆の什器は、宋の物が最も重んじられ、永楽・宣徳年間のものがこれに次ぐ。いわゆる「果園廠」の物は宋代の物に近い値が付く。漆の光沢が暗く彫りの文様が拙い物は、「旧雲南」の物と口々に蔑まれ、その値は最高級品の一、二割にしかならない。
 あるとき、骨董の収集家が集まって話し合い、剔紅香盒に話題が及ぶと、各々自説を展開し、論争が起きた。私はこう言った。
 「これらの技術は全て雲南から来たものだ。唐の中期に大理国が成都を攻め落とし、全ての職人を連れ去った。これより雲南で漆器や織物の技術が天下一となった。唐末に再び中華と国交が復活し、南漢の劉氏と通婚すると、次第に「滇物」が流入した。元の時代に大理を降すと、その地の最高の職人を選んで宮中に入れた。わが明朝がその地を吸収すると、滇の職人は内府に満ちた。これが今の御用監であり、供用庫の諸役は全てその子孫である。その後、次第に技術が廃れて言ったため、嘉靖年間に、帝は雲南に、宮中で役立つような技術者を選んで都に送るようにと命じられた。もし「旧雲南」の物が手に入ったなら、「果園廠」の数倍の価値があるだろう。」
 並みいる骨董の収集家は黙って反論できなかった。

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