ナントカ堂 2022/10/10 00:20

明の海禁政策

 元代に海外と貿易を行って富を蓄えた商人たちも、明代になると海禁政策により海外に出られなくなり、その一部は内地の水運に転じたことが『平橋稿』巻十四の「潘紹宗小君墓誌銘」から分かります。


 (前略)潘九宰は元により海道万戸に任じられた。その家では巨大船舶を三隻建造し、その大規模なものは一万石、中規模のものは八千石、小規模のもので六千石を積むことができた。毎年、万戸として得られる港湾税を用いて朝鮮まで行って交易を行い、多くの富を蓄えた。
 九宰と紹宗の父の祥卿とは仲が良く、祥卿の家もまた旧家であった。九宰が老いて子が無かったことを憐れに思った祥卿は、紹宗をその後継ぎとした。
 紹宗は体が大きく酒を嗜み施すことを好んだ。延祥寺を造営する際に米四千斛を寄進し、貧民が死んで棺が買えない場合には棺を与えた。三十年以上身を慎んで生き、公務を務めて過誤は無かった。
 永楽壬辰(1412)、湖湘を遡上し采石を過ぎたところで強風に遭い、船は壊れて紹宗は体を壊し、進めなくなって家に帰った。門まで迎えに出た妻は、紹宗の変わり果てた姿を見て抱き着き、泣きながら家に入れて何人もの医者に見せたが良くならなかった。妻は毎夜、香を焚いて神に祈ったが、遂には亡くなった。(後略)

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