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ナントカ堂 2022/09/18 12:20

白溝河の戦い

https://ci-en.net/creator/4314/article/archive/2015/10
↑以前にこのようなことを書きましたが、やはり建文帝側は兵糧不足で敗走したんだろうなと思うのが、『空同集』巻三十八のこの記述。

 私が聞いたところでは、白溝河の戦いのとき、糧道が断たれ、馬を煮て革を食いロバも食べた。ロバを食い尽くすと更には人も互いに食い合い、死体が山のように積み重なった。

 公式な史書だと、白溝河の戦いは作戦が上手く行き華々しく勝利したような書きぶりですが、実際にはただでさえ兵糧不足のところを大軍を動員したため飢餓に陥り、まともに戦うどころでは無かったんだろうな、と思います。
 日本でも、西国で飢饉が起こって平家が都を追われ、入京すればどうにかなると思っていた木曽義仲が略奪せざるをえず人望を失い、豊作だった関東の頼朝が兵站を確保しながら戦ったために天下を取ったのと同じことです。

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ナントカ堂 2022/09/10 00:27

明代宦官出版文化

 wikipediaの「王振」の項に「宦官を養成する機関である内書堂の出身で、学識が高く」とありますが、教育機関である内書堂により、明代には学識高い宦官が多く居ます。
 『酌中志』巻十八に拠れば、内書堂ではまず入門として学ぶのが『古文真宝』と『古文精粋』、それから『檀弓』、『左伝』、『国語』、『史記』、『漢書』や諸子、『書経』、『詩経』、『性理』、『通鑑節要』、『千家詩』、『唐賢三体詩』と続き、『説苑』、『新序』にも及ぶが、『五経大全』と『文献通考』まで読む者は少ない、とあります。
 次いで『酌中志』には、宦官が管轄する出版局で刊行された出版物として、以下の刊行物の目録が記されています。

『五倫書』(六十二巻、千七百一頁)
『詩伝大全』(十二巻、九百九頁)
『書経大全』(十巻、七百六十三頁)
『周易大全』(十二巻、千百十八頁)
『春秋大全』(十八巻、千四百五十九頁)
『礼記大全』(十八巻、千二百九十九頁)
『易伝』(六巻、五百八十二頁)
『書伝』(六巻、五百八十三頁)
『詩伝』(六巻、六百三十五頁)
『春秋伝』(四巻、千六十一頁)
『礼記』(八巻、千六十一頁)
『四書大全』(二十巻、千五百八十九頁)
『四書集注』(十巻、八百二十頁)
『性理大全』(三十巻、二千百六十九頁)
『資治通鑑綱目』(四十巻、四千百頁)
『続資治通鑑綱目』(十四巻、千百二十二頁)
『少微通鑑節要』(二十巻、四千四百二十八頁)
『通鑑節要続編』(二十巻、千六百八十三頁)
『晏宏通鑑綱目』(三十巻、四千二十頁)
『文献通考』(百巻、一万八百三十六頁)
『歴代名臣奏議』(百五十巻、九千七百二十頁)
『歴代通鑑纂要』(六十巻、三千六百三十頁)
『大明會典』(百四十巻、六千五百九十頁)
『事文類聚』(百三十巻、八千三百六十頁)
『大明一統誌』(四十巻、三千百五十頁)
『明倫大典』(二十四巻、七百二十頁)
『大明集礼』(三十六巻、千四百七十二頁)
『大学衍義』(二十巻、千三百八十二頁)
『大学衍義補』(四十巻、三千六百頁)
『対類』(十二巻、八百七十三頁)
『諸司職掌』(三巻、四百二十八頁)
『大明官制』(二巻、三百七十頁)
『御製大誥』(四巻、二百五十三頁)
『大明律』(二巻、百七頁)
『洪武正韻』(五巻、五百頁)
『韻府群玉』(十巻、千四十頁)
『御製文集』(八巻、七百十三頁)
『経史海篇直音』(五巻、五百十二頁)
『広韻』(二巻、二百五十五頁)
『玉篇』(二巻、三百十五頁)
『御製詩集』(二巻、八十四頁)
『経書音釈』(二巻、百七頁)
『詩韻釈義』(二巻、百五十八頁)
『四書白文』(六巻、三百十二頁)
『詩学大成』(十四巻、千頁)
『爾雅埤雅』(四巻、三百九十七頁)
『許氏説文』(八巻、六百五十頁)
『呂真人文集』(二巻、二百四十頁)
『孔子家語』(三巻、百四十四頁)
『通書大全』(八巻、九百九十頁)
『列女伝』(三巻、百三十五頁)
『神課金口訣』(二巻、二百四十頁)
『仁孝皇后勧善書』(十巻、八百七十六頁)
『臞山肘後神枢』(二巻、百七十八頁)
『選択暦書』(二巻、二百五十六頁)
『雍熙楽府』(二十巻、千七百九十三頁)
『三国志通俗演義』(二十四巻、千百五十頁)
『歴代臣鑑』(十巻、五百六十頁)
『貞勧政要』(八巻、三百七十頁)
『居家必用』(十巻、八百八十頁)
『聖学心法』(四巻、三百十五頁)
『釈文三注』(『千字文』七十一頁、『胡曾詩』九十九頁、『蒙求』百四十四頁)
『飲膳正要』(三巻、七百七十五頁)
『唐賢三体詩』(二巻、百七十二頁)
『古文精粹』(二巻、二百五十六頁)
『李白詩』(四巻、三百六頁)
『選詩補注』(三巻、三百十三頁)
『唐詩鼓吹』(五巻、二百六十六頁)
『高皇后伝』(一巻、四十七頁)
『女訓』(一巻、四十九頁)
『内訓』(一巻、五十頁)
『尚書』、『孝経』、『大学』、『中庸』(五巻、三百三十六頁)
『周易占法』(二巻、二百四十頁)
『草堂詩餘』(二巻、百九十頁)
『恩紀含春堂詩』(二巻、百十五頁)
『撃壤集』(四巻、三百五十頁)
『勧忍百箴』(四巻、三百頁)
『古文真宝』(四巻、三百九十一頁)
『医要集覧』(六巻、二百八十頁)
『草韻弁体』(六巻、二百七十頁)
『増定華夷訳語』(十一巻、千七百八頁)
『評史心見』(六巻、三百五十頁)
『通鑑博論』(三巻、二百九十頁)
『重刻証類本草』(十巻、千三百四十五頁)
『養生類纂』(五巻、百九十七頁)
『釈氏源流応化事跡』(四巻、四百四十頁)
『皇明祖訓』(一巻、五十頁)
『洪武礼制』(一巻、八十二頁)
『稽古定制』(一巻、八十二頁)
『鄭氏女孝経』(一巻、四十二頁)
『祖訓條章』(一巻、十二頁)
『曹大家女訓』(一巻、十六頁)
『女誡直解』(一巻、四十八頁)
『劉向説苑』(五巻、三百二十五頁)
『皇明典礼』(一巻、九十五頁)
『内則詩』(一巻、六十二頁)
『内令』(一巻、十二頁)
『昭鑑録』(一巻、百五十二頁)
『御製洪範篇序』(一巻、三十六頁)
『勤政要典』(一巻、七十三頁)
『外戚事鑑』(一巻、六十八頁)
『山居四要』(一巻、八十三頁)
『茲聖皇太后女鑑』(一巻、六十九頁)
『女訓内訓』(一巻、六十九頁)
『臞仙肘後経』(一巻、百十二頁)
『玉匣記』(一巻、八十二頁)
『省躬録』(一巻、七十二頁)
『祥異賦』(一巻、四十九頁)
『歩天歌』(一巻、八頁)
『伝心妙訣』(一巻、四十五頁)
『詳明算法』(一巻、百十頁)
『草字砕金』(一巻、九十二頁)
『真字砕金』(一巻、九十二頁)
『千家姓』(一巻、五十九頁)
『孝順事実』(一巻、二百九十二頁)
『為善陰騭』(一巻、三百七十二頁)
『小学書解』(一巻、百六頁)
『忠経』(一巻、四十二頁)
『孝経大義』(一巻、四十二頁)
『歴代紀年』(一巻、三十六頁)
『四時歌曲』(一巻、十二頁)
『隨機応化録』(一巻、六十頁)
『高皇帝道徳経注解』(一巻、六十九頁)
『達達字孝経』(一巻、四十二頁)
『医按書』(一巻、三十二頁)
『蒙求白文』(一巻、十九頁)
『山歌』(一巻、四頁)
『華夷訳語』(一巻、八十八頁)
『古字便覧』(一巻、五十二頁)
『八行遺事集』(一巻、二十八頁)
『警世篇』(一巻、二十一頁)
『忠経直解』(一巻、十六頁)
『太上感応霊篇』(一巻、五十二頁)
『憲綱』(一巻、五十頁)
『百家姓』(一巻、十頁)
『大学』(一巻、三十六頁)
『千字文』(一巻、十七頁)
『孝経』(一巻、十六頁)
『中庸』(一巻、五十六頁)
『千家詩』(一巻、四十四頁)
『四書雑字』(一巻、十二頁)
『七言雑字』(一巻、十三頁)
『三字経』(一巻、二十二頁)
『啓蒙集』(一巻、四十頁)
『草訣百韻』(一巻、十四頁)
『草訣百韻歌』(三巻、四十頁)
『八行図書』(一巻、四十頁)
『孝経直解』(一巻、三十六頁)
『解夢書大全』(二巻、七十頁)
『四書直解』(二十五巻、千四十二頁)
『書経直解』(十三巻、八百二十頁)
『通鑑直解』(二十五巻、千四十二頁)
『帝鑑図説』(六巻、三百五十六頁)
『劉向新序』(三巻、百四十二頁)
『洪武正韻玉鍵』(二巻、百三十頁)
『仏経』一蔵(計六百七十八函、十八万八十二頁)
『道経』一蔵(計五百十二函、十二万二千五百八十九頁)
『番経』一蔵(計百四十七函、十五万七十四頁)
『大五大部経』(『華厳経』八十二巻、『大涅檠経』四十一巻、『報恩経』七巻、『金剛明経』十巻、『心地勧経』八本。)
『小五大部経』(『法華経』七巻、『楞厳経』十巻、『仏母大孔雀経』三巻、『梁皇懺』十巻)
他に五般経(『圓覚経』二巻、『弥陀経』一巻、『諸品経咒』、『金剛経注解』一巻百四十七頁、『華厳小鈔』百十七巻、『諸真宝懺』十二巻、『小道経』一巻)

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ナントカ堂 2022/08/15 01:05

奢香夫人

 今回は手抜きになってしまいますが、日本語のwebで奢香夫人の記事に乏しいため、『全訳国初群雄事略』から、『炎徼紀聞』巻三の奢香夫人の伝の訳を転載します。


 奢香は貴州宣慰使の靄翠の妻である。靄翠の先祖の火済は、蜀漢のとき、左丞相の諸葛亮が山を切り開き道を通して孟獲を捕らえたときに功があり、羅甸国王に封ぜられた。唐の阿珮、宋の普貴、元の阿画はともに歴代建国時に帰順して爵を継ぎ、水西に居住して、大鬼主と号した。靄翠は元に仕えて四川行省左丞兼順元宣慰使となっていた。
 洪武四年(1371)、同知の宋欽とともに帰順すると、洪武帝はこれを高く評価し、靄翠を貴州宣慰使、宋欽を宣慰同知として、各々の領民を支配することを認めた。藹翠の軍は飛びぬけて強く、四十八部に分けて、部ごとに大頭目を置いて統率させた。
 このとき都督の馬燁が貴州に鎮守していたが、殺戮を以って羅甸人たちを屈服させたので、羅甸人たちはこれを畏れて馬閻王と呼んだ。
 靄翠が死んで奢香が代わりに立ったころ、馬燁は羅甸人を全て滅ぼそうと考えた。ちょうど奢香に微罪があったので、馬燁はこれを審理するとして、奢香を檻に入れて連れて来させ、裸にして鞭打った。そうすることで羅甸人たちを激怒させて反乱を起こさせようとしたのである。果たして羅甸人の間では反乱を起こそうとの空気が沸々と沸いてきた。このとき宋欽もまた死んだ。その妻の劉氏は知略があり、奢香の領民の羅甸人たちにこう言った。
 「落ち着きなさい。私が汝らのために天子に訴える。天子が聞き入れないなら、そのときに反乱を起こしても遅くないであろう。」
 そこで羅甸の民は収まった。劉氏は急ぎ洪武帝に拝謁すると今回の件を話した。帝が尋ねると、劉氏はこう答えた。
 「羅甸の蛮族は義に服し、馬を貢ぐようになって七、八年が経ちます。何も罪はありません。馬都督は理由も無く騒乱を起こそうとしていますが、一旦不満が爆発してしまったなら、おそらく馬都督は、私たちが放置していたためと言うでしょう。そこで命を懸けてこのように言上するのです。」
 帝は納得し、後宮に帰ると皇后にこの話をし、それからこう言った。
 「朕は馬燁が忠義者で清廉であることは良く知っている。ただ、一人を守るために一地域の安定を引き換えにはできぬ。」
 そして皇后に、劉氏を後宮に召すよう命じた。皇后は劉氏に「汝は私のために奢香を呼び寄せることができるか?」と尋ねた。劉氏は「できます。」と言い、奢香にすぐに来て拝謁するよう手紙を送った。
 奢香は息子の嫁の奢助とともに急ぎ都に来て帝に拝謁し、代々土地を守ってきた功績と馬燁の罪状を自らの口で述べた。帝は言った。
 「汝らはそれほど馬都督に苦しめられているのか。私が汝らのために馬都督を排除しよう。ところで汝は何を以って私に報いてくれるのか?」
 奢香は叩頭して言った。
 「聖恩を蒙ったなら、子孫に命じて羅甸人を抑えて叛乱が起こらないようにいたします。」
 帝が言った。
 「それは汝の職務であろう。それが報いたと言えるのか?」
 奢香が言った。
 「貴州の東北には細い道があって、そこから蜀に入れますが、長い間塞がっています。願わくば陛下のために山を切り開き駅伝を通して、往来に役立てたいと思います。」
 帝はこれを受け入れ、馬燁を朝廷に呼び出して審議することとした。馬燁は初め、どうして呼び出されたのか分からなかったが、省の境を出たところで理解し、大いに恨んでこう言った。
 「誰が馬閻王と言ったかは知らぬが、あの小娘二人を生き埋めにしてやる。なぎ払われ根絶やしにされて血の海の中で後悔しろ。」
 馬燁が拝謁すると、太祖はその罪状を列挙した。馬燁は一言も答えること無く、口を開くと一番に「臣自身が長い間賊の首領だったようですな。」と言った。太祖は怒り立ち上がって、馬燁を斬り、その頭を奢香に示してこう言った。
 「私は汝のために心を押し殺して害を除いた。」
 奢香たちは叩頭して感謝した。そして奢香を「順徳夫人」、劉氏を「明徳夫人」に封じた。皇后は奢香たちのために宴を開き、自身は遠慮して出席しなかった。奢香たちが帰ろうとすると多くの褒賞を贈り、道中の役所に敬意を表して兵を整列させて迎えるよう命じた。
 帰国した奢香は、帝の威光を以って羅甸の民を説得したため、民たちは冷静になり、従うようになった。奢香は赤水と烏撒の道を烏蒙まで通し、龍場に九駅を設置して、代々馬の餌を供給することした。

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ナントカ堂 2022/07/26 23:56

錦衣衛は皇帝の親衛隊であり

 錦衣衛は皇帝の親衛隊であり、皇帝の意志が悪ならば忖度して悪となり、時としてこれに歯止めをかけようとします。以下その例。


 宋忠はどこの人かは分からない。洪武末に錦衣衛指揮使となった。
 ある百戸が罪無くして死刑になりかけ、宋忠が上疏して救った。御史がこれを越権として弾劾すると、洪武帝は言った。
「宋忠は率直で隠すところなく、人の命のために願い出た。何の罪があるというのか。」
 結局、百戸は赦されたが、続いて僉都御史の劉観が弾劾したため、宋忠は鳳陽中衛指揮使に左遷された。
 三十年、平羌将軍の斉讓が西南夷を平定に向かったが戦果が無かった。宋忠は参将となり、将軍の楊文に従って討伐した。凱旋すると、錦衣衛に復帰した。
(『明史』巻百四十二、このあと靖難の変で建文帝側に付いて戦死)


 陸炳は錦衣衛の長を最も長期間務めた。厳嵩と付き合いがあったが、士大夫を敬愛し、世宗の時代に詔により投獄された者も、たびたび執り成して身を守ったため、士大夫は恩義に感じていた。
 その没後に官爵を剥奪されたが、遂には冤罪は晴らされ、子孫は官職を世襲することができた。

 張居正が生きていた時、同鄉の麻城の劉守有が錦衣衛の長で、深く信頼されていた。
 台臣の傅応楨や劉台らが張居正を弾劾して却って窮地に陥ったが、劉守有の奔走で命が助かった。
 奪情の件で五君子が前後して張居正を弾劾し、廷杖に処されたが、劉守有は事情を知り、杖刑を行う者に言い含めておいたため、杖に打たれて死ぬことを免れた。
 劉守有は後に東廠の張鯨に連座して罷免され、帰郷することとなったが、子孫は栄えている。(『万暦野獲編』巻二十一「陸劉二緹帥」)



 駱養性、字は泰如、京師の人で、崇禎帝の時代に大金吾となった。
 熊魚山と姜如農の二人が直言を以って罪に問われ、錦衣衛の獄に下された。
 ある日の深夜、身分の低い宦官が崇禎帝の直筆の書状を持って来て、駱養性に「熊魚山と姜如農を殺すように」と伝えた。駱養性はおよそこのように返答した。
 「言官が有罪であれば法に則り処罰すべきであり、そうすれば天下の人々も納得するでしょう。今、深夜に一片の紙切れを臣に送って二人の諌官を殺そうとしている。臣は敢えてこの詔には従いません。」
 この返答を聞いた崇禎帝は怒りを収め、二人は死を免れた。
 駱養性は順治年間(1643~1661)にはまだ健在で、宋荔裳が会ったことがある。(『池北偶談』巻五「駱金吾」)

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ナントカ堂 2022/06/11 23:43

嫦娥

中国版wikipediaである維基百科の「嫦娥」のページを読んだら
https://zh.wikipedia.org/wiki/嫦娥
セーラームーンの着想は嫦娥伝説からだとか書いてあって、いや、全然違うし。
でもこういうのは結構あると思います。特に外国の事象だと読めないから当て推量で書いたりして。

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