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ナントカ堂 2024/04/21 14:06

李重進

 後周の太祖は妻の甥を後継ぎにしましたが、何故血の繋がった姉の子の李重進に継がせなかったのか甚だ疑問です。今回はこの李重進について『宋史』巻四百八十四の伝を見ていきましょう。ただし李重進の伝は戦闘の描写が多く煩雑となるため、多少省略します。


郭簡
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郭威=柴氏  柴守礼  福慶長公主
┃       ┃    ┃
女=張永徳  世宗    李重進


李重進(『宋史』巻四百八十四)

 李重進は先祖が滄州の人で、郭威(後周の太祖)の甥、福慶長公主の子で、太原で生まれた。
 後晋の天福年間に出仕して殿直となり、後漢の初めに郭威に従って河中に遠征した。広順の初め(951)に内殿直都知に昇進して泗州刺史を領し、小底都指揮使に改められた。
 二年に大内都点検・権侍衛馬歩軍都軍頭に改められて恩州団練使を領し、殿前都指揮使に昇進した。三年に泗州防禦使を加領となり、顕徳の初め(954)に武信軍節度使を領した。

 李重進は世宗より年上で、郭威が病の床に就くと、召されて後事を託され、世宗に拝礼するよう命じられて、君臣の分を定めた。
 世宗が帝位を継ぐと、李重進は侍衛親軍馬歩軍都虞候となった。
(中略)
 張永徳が下蔡に駐留していた頃、李重進と不仲であった。張永徳は将吏と宴会を開くたびに、李重進の短所を暴露し、後には酔いに乗じて「李重進は陰謀を企てている」と言ったため、将吏はみな驚愕した。張永徳は密かに信頼する者を遣わして進言したが、世宗はその話を信じず意に介さなかった。二将が共に大軍を指揮していたため、人々は益々憂慮した。
 遂には李重進は寿陽から単騎で張永徳の陣に出向き、酒の席を設けさせる、自ら張永徳に酌をして言った。
 「私と貴公とは共に国家の肺腑であり、互いに力を尽くして国を盛り立てて行かなくてはならない。貴公は何故、私を深く疑うのか。」
 張永徳は和解し、二軍は共に落ち着いた。
 李景はこれを知ると、人を遣わして李重進に密書を送り、多大な利で勧誘した。李重進はこれを世宗に報告した。
 このころ行濠州刺史の斉蔵珍も李重進に謀叛を勧め、これを知った世宗は、他事にかこつけて斉蔵珍を誅した。
(中略)
 宋の太祖が即位すると、韓令坤が李重進に代わって侍衛都指揮使となり、李重進は中書令を加えられた。その後、青州に移鎮となって開府の資格を加えられた。
 李重進は太祖と共に後周に仕え、各々軍権を握っていたが、常に心の中で太祖を嫌っていた。太祖が皇帝になると益々不安になり、移鎮になるに及び、謀叛の志を懐くようになった。太祖はこれを知ると、安心させようと六宅使の陳思誨を遣わして鉄券を賜った。
 李重進は十分な備えをした状態で陳思誨と共に入朝しようと考えたが、側近に惑わされて決断できなかった。また後周の王室の近親であったため、いずれは滅ぼされるであろうと恐れ、遂には陳思誨を拘束して城壁を改修し武器を揃え、人を遣わして李景に援軍を求めた。李景は恐れて拒み、太祖に報せた。
 監軍の安友規は常日頃から李重進に嫌われていたが、ここに至り親しい者数人と共に城門を壊して出ようとした。兵たちに防がれ、ようやく城壁を越えて逃げることができた。李重進は軍校で自分に味方しない者数十人を捕えて皆殺しにした。

 太祖は、石守信・王審琦・李処耘・宋偓の四将に禁軍を指揮させて李重進討伐に向かわせた。このときちょうど安友規が都に到着したため、襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜り滁州刺史に任じて、前軍の監軍とした。
 太祖は側近に「朕は後周の旧臣を疑ったことは無い。しかし李重進は朕の心を理解せず、自ら謀叛の志を懐いた。今、六つの軍が地方に居る。まさに行って慰撫するのみ。」と言うと、遂には親征した。
 大儀鎮に布陣すると、石守信から使者が来て「揚州はまもなく落とせます。陛下直々その場面をご覧ください。」と伝えた。太祖が揚州城に行くと、即日陥落した。
 城がまさに落ちようとしたとき、側近が李重進に陳思誨を殺すよう勧めた。李重進は「私は今、一族挙げて火に身を投じ死のうとしている。陳思誨を殺して何の益があろうか。」と言うと、火を放って焼身自殺した。陳思誨も李重進の一党に殺された。
 太祖は城の西南に布陣すると、逆賊の一党数百人を見て全員殺した。李重進の兄で深州刺史の李重興は、李重進が叛いたと聞くと、自殺した。弟で解州刺史の李重賛と、子で尚食使の李延福は共に市場で処刑された。

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ナントカ堂 2024/04/14 11:04

劉予の子と孫

 前々回に続き『図絵宝鑑』から。
『図絵宝鑑』巻四にある「海陵王は水墨画を描き、竹を多く描いた。」という記述も面白いのですが、今回は「紫微劉尊師は偽斉の劉予の孫で、山水人物を得意とした。」との記述に着目します。
 そこで劉尊師の記述から入ろうと思ったのですが、劉予の子の劉麟の記事も日本語では乏しいので、まずは『金史』巻七十七からその伝を訳しましょう。


 劉麟、字は元瑞、劉予の子である。宋の宣和年間に、父の蔭位で将仕郎となり、累進して承務郎となった。

 天会七年に劉予が済南ごと降ると、劉麟はこれより金軍に従軍して、水賊の王江を撃ち破り降した。
 劉予が東平の統治を任されると、劉麟は知済南府事となった。斉が建国されると、済南は興平軍となり、劉麟は節度使・開府儀同三司・梁国公となり、諸路兵馬大総管・判済南府事に充てられた。翌年、斉の尚書左丞相となった。
 その翌年、劉予が開封に遷都すると、判済南府事は解任されたが、これまで通りに開府し、参謀を置くことを許された。
 劉予が劉麟を皇太子に立てるよう願うと、金の朝廷はこれを許さず、言った。
 「もし宋を討伐して、功を立てれば皇太子に立てよう。」
 ここに劉麟は連年兵を率いて南征したが、全て戦果無く帰還した。

 金の朝廷は斉の廃止を決め、劉予に南征の期日を伝えて、先に兵を出し淮河沿岸に布陣させるよう命じた。撻懶は軍の力で劉予を廃しようと、刁馬河に軍を止めた。
 劉麟が数百騎を率いて出迎えると、撻懶は劉麟に、指揮する騎兵を南岸に留め一人で渡河するよう命じた。こうして劉麟を捕えると、劉予を廃し、劉麟を臨潢に移した。
 しばらくして劉麟は北京路都転運使の地位を与えられ、中京路と燕京路の都転運使、参知政事や尚書左丞を歴任して、興平軍節度使・上京路転運使・開府儀同三司となり、韓国公に封ぜられて、六十四歳で薨去した。
 正隆年間に二品以上の官封を降格する命が下り、特進・息国公に改贈された。


 ここで改めて劉尊師について見ていきましょう。
 『図絵宝鑑』の記述は上記にあるのみなのですが、『元好問集』巻四十にはこのように記されています。


【跋紫微劉尊師山水】
 山水の画家では李成と范寬の後は、郭熙が絵の名人である。郭熙の筆は老いても衰えず、山谷詩に「郭熙の目は老いてもなお明るい」との句があり、これは郭熙が八十歳を越えた時に記されている。
 近年では太原の張公佐の「山間風雨」は神業であり、この人は八十六歳で亡くなった。その暮らしの跡は河東の各地にある。張公佐の後には紫微劉尊師がいる。
 尊師は山水を描くのを好み、老齢になってから郭熙の「平遠」を四幅手に入れると、これを愛しそこから技法を学んで、ここから画力が大いに向上した。今は九十七歳である。
 弟子の邵抱質が「春雲出谷」「湖天清昼」「千崖秋気」「雪満群山」を描いたが、特に師の画風の影響が見られる。邵抱質が私に題記を求めたので、この機にこの文を記す。
 この翁は定襄の人。童子の頃に入道し、道行は高潔で玄学の深淵に達した。人として正道を歩んだ人物と言えよう。ただ後世に、この人の絵だけを見て郭熙・張公佐と優劣を論じ、その行いが知られなくなるのではないかと心配である。玄学とは秘されたものであるから、今ここに明記するものである。
  歳癸丑冬十月旦、郡人元某(元好問)記す。


 劉予の評判が悪かったので、元好問は記さなかったのでしょう。

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ナントカ堂 2024/04/07 00:32

チップは不要です

 去年、リクエストで「大越史記全書/陳紀」を作成した際、Hirai様からチップ千円頂いたのですが、先ごろCi-en事務局からメールが来て、「手数料等を差し引いたクリエイター様への振込額が5千円未満の状態のまま12ヶ月が経過したとき、売上金は全額失効となります。」とのことで没収されました。
 私程度では年間で5千円を超えるはずも無く、うかうかとして取られたこと、チップを下さった方に申し訳なく思いますので、チップは不要です。

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ナントカ堂 2024/04/07 00:19

韓侂胄の意外な一面

以前に童貫について、『宣和画譜』巻十二からこのような記述を訳しました。


 父の童湜は優雅で絵画を所蔵するのを好み、当時の名手の易元吉・郭熙・崔白・崔慤らに生活費を与えて、代わりに絵を供されていた。
 童貫は父の傍らに在って優れた作品を見ていたため、その妙技を会得した。次第に胸は高鳴っていったが、そのことは秘密にしていた。
 時折、傍らに筆と墨があると、戯れに山林泉石を描き、気の向くままに筆を走らせ、気持ちが落ち着くと止めていた。人がそれを持って行こうとすると、取り返して破っていた。興が乗って部下から揮毫を求められると、紙の裏や断片に書き、直ぐに仕舞われて再び人々の目に触れることは無かったため、全て珍玩となされた。このため希少価値があった。書き方は瀟洒で簡易、自由に描いて人に気に入られようとはしなかった。



 韓侂胄も絵画を描いていたようで『図絵宝鑑』巻四にこう記されています。


 韓侂胄は嘉泰年間に平章太師となった。水墨で竹石を描くのを得意とし、大葉と琅玕を描いて自ら太師と称した。 竹巻軸上に「安陽開国」の印記を用いた。

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ナントカ堂 2024/03/31 21:03

蔭位と進士

 『宋史』巻三十四「孝宗紀二」の乾道八年二月丙寅条に、「戸部尚書の曾懷に進士出身・参知政事を賜った。」とあります。
 ということはこの人、蔭位で出仕して戸部尚書になり、格好がつかないから進士の肩書を貰ったのでしょう。翌年には右丞相になっています。
 それならむしろ蔭位である事を貫いている韓侂冑の方が潔い気がします。
 宋代だと、詩を献じて帝に気に入られたから進士とか、推薦されて宮中に召されその場で試験を受けて進士とか、これってどこまでが情実なのか分かりません。

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