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2021年 08月の記事 (4)

ナントカ堂 2021/08/24 20:46

慈聖光献曹皇后の婚約者

 慈聖光献曹皇后ついてwikipediaに項がありますが、「初め、曹氏は李植という男性と結婚したが、結婚式で花婿は逃げ、仏門に入った。」との記述について。
 この李植とは『宋史』巻二百九十九に伝がある李仕衡の孫で、『宋史』の后妃伝にはこの記述は無く、『甲申雑記』と『黙記』にある話です。より詳しい『黙記』の記述を見てみましょう。


 京兆の李植は字を化光といい、観察使の李士衡の孫である。少年のころから道を好み、高官の家との婚姻は好まなかった。初め、侍禁となると、曹氏(後の慈聖光献皇后)と婚約した。既に結婚が決まり、曹氏を迎えて門に入ると、千万もの鬼神が前にいるのが見えた。李植は驚いて走り出すと垣根を越えて逃げた。曹氏は即日父母の家に帰り、まもなく選ばれて皇后となった。李植はその後、田野を放浪し、関中・洛陽・汝州を往来して、人々から有道の士と評された。


 こうして当初は高官同士の婚姻だったものが、皇后となり一族に恩典を与えて、曹氏は大いに栄えることになっていきます。
 『続資治通鑑長編』巻三百三の元豊三年三月己丑条には曹后によって一族の多くに官位が与えられたことが記されています。以下その記事。


 景霊宮使・昭徳節度使兼侍中の曹佾を護国節度使・守司徒兼中書令とした。出入りする際は二府の儀礼に倣い、俸禄をそれぞれの半分ずつ支給して、後の例とはしないこととした。また兵五十人を貸し与えた。
 慈聖光献皇后の甥で左蔵庫使・康州刺史・帯御器械の曹誦を東上閤門使、六宅副使の曹諭を供備庫使、西上閤門使の曹評を四方館使、慶州刺史・左蔵庫使・昌州刺史の曹志を皇城使、栄州団練使・西京左蔵副使の曹読を文思副使兼閤門通事舎人、西京左蔵庫副使兼閤門通事舎人の曹誘を東上閤門副使とした。甥の子で西頭供奉官、閤門看班祗候の曹晩を東頭供奉官とし、閤門祗候・試大理評事の曹時ら七人を各々二階級昇進させた。無官の曹曞ら七人を右班殿直とした。
 甥の孫で無官の曹温ら五人を三班奉職とした。従弟で皇城使の曹偃を西上閤門使・雄州刺史とした。従甥で成州団練使・駙馬都尉の曹詩ら三十二人を各々二階級昇進させた。曹詩は喪が明け次第防禦使とし、無官の曹謀ら五人を三班奉職とした。従甥の子で左蔵庫副使の曹明ら三十六人を各々一階級昇進させ、無官の曹習ら四十五人を三班借職とした。
 姪四人を各々一階級昇進させた。また弟の妻の父で贈昭慶軍節度使の億の妻の申国夫人徐氏を楚国夫人に封じた。姪七人、従姉妹六人、従兄弟の妻八人を郡君とした。既に県主となっていた者は郡主に改め、支給を銭二万増やした。甥の娘十五人を郡君とし、既に郡君の者は一階級昇進させ、まだ無官の者は官に就かせ、尼には法名・紫衣・師号を賜った。
 上は慈聖光献曹皇后の縁による曹氏への大推恩である。その後、兄弟は三階級、その子には二階級、孫は一階級昇進させた。賞を受けた者は百人以上となった。

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ナントカ堂 2021/08/22 10:21

二楊

 楊家将二代目の楊延昭についてはwikipediaに項がありますが、これと並んで二楊と称された楊嗣については項が無いので、『宋史』巻二百六十より訳します。


 楊嗣は建隆の初め(960)に楊信の推薦で殿直となり、三度昇進して崇儀副使・火山軍監軍となった。
 雍熙四年(987)に火山軍の知軍事となった。その後、交代して都に戻ろうとすると、吏民が惜しんで引き留めたため再任された。まもなく高陽関戦櫂都監に昇進した。
 淳化二年(991)に保州知州に改められると、私的に人と会わなくなった。転運使がその業績を報告して威虜軍知軍に昇進し、その後、崇儀使に改められた。
 曹思進と共に静戎軍・保州・長城・蒲城縁辺都巡検使となり、如京使に改められ、再び保州知州となり、戦功を挙げた。

 真宗が即位すると洛苑使を加えられ、咸平の初め(998)に獎州刺史を領した。
 三年、廉良で敵と戦い、二千の首級を挙げ、大量の軍馬と輜重を獲得し、その功で真拝の保州刺史となった。
 都に召されて、保州団練使の地位に就けられた。
 このころ楊延昭が保州刺史となった。楊嗣は言った。
 「以前、私は楊延昭とは同格でした。それが私だけ急に上の官職に就きました。これは良くありません。元の官職に戻してください。」
 真宗はこの意見を嘉し、楊延昭を昇進させた。
 楊嗣は楊延昭と長い間北辺に駐留し、共に戦上手として評判を取り、当時「二楊」と呼ばれた。
 楊嗣は武人として郡を治め、細かい事に気を配らず、また国境警備も兼任していたため郡に居る日も少なかったため、城壁が崩れても修理しなかった。真宗は供備庫副使の趙彬と交代させ、深州団練都巡検使兼保州鈐轄とした。

 五年、保州が敵に攻め込まれ、楊嗣と楊延昭で防衛した。隊列が整わないところを急襲され、多くの兵馬を失った。交替して帰還すると、特例として罪を赦された。
 翌年、秋期の防衛対策会議に加わり、北面の利害を項目を立てて説明した。国境の情勢を熟知していたため、鎮・定・高陽関三路後陣鈐轄に任命され、その後、定州副都部署に異動となった。家族を都に留め、自身は官庁に仮住まいした。

 景徳の初め(1004)、鎮州路副都部署に改められた。真宗は、楊嗣が老齢で軍政を取り仕切っているため、気力が衰えているのではないかと心配し、まもなく交代させた。その後、趙州・貝州・深州の部署を歴任した。
 大中祥符五年(1012)、に再び天雄軍副都部署として地方に赴任し、六年に左龍武大将軍を以って致仕して、翌年卒去した。享年八十一。その子の楊承憲を侍禁に取り立てた。

 楊賛は多少は書を知っていたが、特に人より秀でたところは無かった。兄の縁で禁軍の将となり、実績を積んで地方官の地位にまで至った。

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ナントカ堂 2021/08/10 22:21

曹利用続き

 続きというか、間を端折って伝の終わりのあたりです。


 章献太后が垂簾聴政を行うと、宦官と外戚が跋扈しだした。曹利用は勲功ある古くからの臣であると自負していたため、気に掛けなかった。太后が実家の一族に恩典を与えようとすると、曹利用は強く反対した。側近からも多くの怨みを買い、太后からも敬遠されていたが、名では呼ばれず「侍中」と呼ばれる待遇を受けていた。
 曹利用は簾の前で奏上するとき、時々爪で革帯を叩いていた。側近がそれを指さし太后に言った。
 「曹利用は先帝の時にはあのような事をしていたでしょうか。」
 太后は頷いた。
 太后が一族に恩典を与えることに、曹利用はしばしば反対していた。しかし止むを得ず従うこともあった。人々は事情を察していたが、ある者が太后を欺いて言った。
 「太后が一族に恩典を与えようとすると曹利用は反対しますが、曹利用の家の老婆が密かに臣の希望が通るよう約束してくれたため、臣の希望は通るでしょう。」
 そこで試してみると果たして曹利用は反対しなかった。このときから太后は、曹利用が私情を挟んでいると疑い、大いに怒り怨んだ。

 内侍の羅崇勲が罪を犯した。太后は曹利用に、羅崇勲を召して訓戒するよう命じた。曹利用は羅崇勲の冠を取り上げて、長時間責め詰った。羅崇勲はこれを怨んだ。
 曹利用の従子の曹汭は趙州兵馬監押であったが、州民の趙徳崇が都まで来て曹汭の不法を訴えた。羅崇勲が現地に遣わされて究明することとなり、徹底追及された。曹汭は飲酒して黄衣(皇帝の服)を着用し、人々に万歳を唱えさせたため、杖死となった。
 曹汭の事件が発覚した当初、曹利用は即刻枢密使を罷免され、兼侍中・鄧州通判に降格となった。曹汭が誅されると、左千牛衛将軍・隨州知州に左遷された。更に景霊宮の金銭を私的に貸したことが罪に問われ、崇信軍節度副使に左遷されて房州に配流となり、内侍の楊懐敏が護送した。その子らは二階級降格となり、賜った邸宅は取り上げられ、家財も没収となり、親族十数人も免官となった。
 宦官の多くが曹利用を憎んでいた。襄陽駅まで行くと、楊懐敏は前に進むのを拒み、言葉で脅迫してきた。曹利用はもともと剛毅な性格であったため、遂には首を吊って死んだ。急死したと報告された。

 その後、家族は鄧州に住むことを願い出た。仁宗は同情して許可し、曹利用の子で内殿崇班の曹淵をその州の監税に任じた。
 明道二年(1033)、追復して節度使兼侍中とし、後に太傅を追贈して、子たちを元の官職に戻した。襄悼との諡を賜り、学士の趙概に神道碑を作るよう命じ、仁宗自身が「旌功之碑」の篆額を書き、没収した財産を返還するよう命じた。

 曹利用は生来強情で融通が利かず、その決断力で帝に気に入られた。ただ親族や旧知の者を取り立てたため、災いに遭ったのである。しかし朝廷に在っては忠義を尽くし、始終屈することなく、罪無くして死んだ。天下の人々はこれを冤罪であると言った。

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ナントカ堂 2021/08/04 00:17

狄青の家は名門

 狄青が生まれた頃の事では無く、狄青没後の子や孫が名門扱いされていたという話です。
 『続資治通鑑長編』巻四百五十七の元祐六年(1091)四月辛亥条にこうあります。


 太皇太后宣が言った。
 「皇后を選ぶのに、既に百十家、適した者を得るのが極めて困難である。今、狄諮の家から取ろうと思うがどうか。」
 呂大防が言った。
 「狄青は勲臣であり、家柄は良いでしょう。」
 太皇太后が言った。
 「しかし二つの問題があって、受け入れ難い。」
 王岩叟が言った。
 「陛下が慎重なのは大変良い事ですが、何が問題なのでしょうか。」
 太皇太后が言った。
 「一つ目は女が庶出であること。二つ目は嫡母の気性が荒いことだ。女が三歳のときに生母は追い出され、今は伯氏が養育している。所生を以って父母とすべきか、養った者を父母とすべきか。」
 呂大防が言った。
 「ただ『狄詠の娘』とすればよいだけです。また狄諮には公主と結婚させましょう。」


で、このあといろいろ議論がありますが割愛。結局はこうなりました。


 翌年春、太皇太后が再び狄諮の家の事について尋ねた。呂大防はなおも皇后にしようとしたが、王岩叟が強く反対したため、中止となった。


『建炎以来繋年要録』巻百二十一の紹興八年(1138)七月己丑条にこうあります。


 故武功大夫・貴州剌史の狄流に特に拱衛大夫・貴州防禦使を追贈し、家族五人に官職を与えた。狄流は狄青の孫である。靖康年間に并代雲中等路廉訪使となり、太原陥落時に死んだ。家族が朝廷に訴えたため今回の追贈となった。

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