ナントカ堂 Jul/06/2021 20:15

高力士の子孫

 今書いているものの参考として『両唐書宦官伝』を見返し、ちょっとネットに上げておこうかなと思いまして。

 先に簡単に説明いたしますと、曹操が宦官の養子の子というのは有名な話ですが、曹家を継いだだけで子も孫も通常の官職に就いています。
 これが唐・宋においては、宦官は養子を取って家を継がせると共に宦官とし、宦官が世襲化しているのが特徴です。
 代表的なものとして高力士の家があり、『唐代墓誌彙編続集』所収の「故義昌軍監軍使正議大夫行内侍省掖庭局令上柱國賜緋魚袋渤海高公墓誌銘」にはおよそこのように書かれています。


 公の諱は克従、字は師倹、開元年間の開府儀同三司・内侍監・斉国公・知省事の力士が公の五代前の先祖である。公の曽祖父の閎は力士の曾孫である。祖父の秀琪は内給事で緋魚袋を賜り、父の忠政は内侍省内府局丞であった。
 公は幼くして宮中に仕え、長じて帝に気に入られた。
 大和の初め(827)に内養に任命され、まもなく枢機に異動となり、師官補佐の激務をよく勤めて高く評価された。
 大和九年(835)春に緋魚袋を賜ったが、その年の秋に掖庭令に降格となった。
 開成の初め(836)より、地方の軍は制御し難く吐蕃が国内を脅かしたので、善良で有能な人物を選んで節度使を監督することになった。
 二年正月九日、公は適任者として選ばれ監軍となると、任地の城塞で衆望を集め、吐蕃の情勢を調査して明らかにした。党項とは三百年来互いに殺戮を繰り返して襲撃は止むことがなく国境警備の兵は疲弊していた。公は主将と共に党項を懐柔すると同時に、法を厳格にして威を示した。帝から交渉の全権を委ねられた公は「敵対関係を棄てて、牧草地は譲り、互いの行き来は妨げない」という条件で講和した。その成功により褒め称える詔書が出されてより一層頼りとされた。撫綏すること五年、人々の弊害を除き辺境を安定させた。
 会昌元年(841)冬に都に上って参内し、二年正月には翰林副使を拝命した。
 三年三月に染坊使になると命を奉じて宣諭するなど、その活躍は記しきれないほどである。
 会昌四年(844)に上党で反乱が起こると近隣の軍に討伐を命じたが、これを纏める人物が必要となった。その年七月十日、公は義昌監軍に任命され、河隍に到着すると日夜休むこと無く主将と事態の収拾に努めた。数ヶ月経って主将が異動となると、公は臨時に軍務を行うよう命じられた。州の人はみなこう言いあった。
 「義昌軍が創設されて以来、監軍が自ら軍権を握ったことは無い 。上手く行くだろうか。」
 公は陣の出入り口に軍の指揮官を置き、親戚と付き合いを疎遠にし縁故者を地位に就けないようにして、これを規則として定めた。公は感嘆して言った。
 「草が風に靡くように水が器に収まるように、軍律は行き届くものだ。理に背かなければ兵たちはよく従うであろう。」
 それから公はこの地域に礼楽を導入して仁義をもって人々を慰撫したので、教化が行き渡り人々は穏やかになり、「殺伐としていた河北の地は、長江の民が住んでいるかのごとく穏やかだ。」と言われるようになった。
 公は日夜善政を行うため思案を廻らし、他人の不安もわが事のように思案したため、心労が重なり心臓の病となった。薬石効なく、二年間病と闘い、閏三月八日になってようやく自宅に戻り、九日、万年県の翊善里の家で亡くなった。享年六十三。
 夫人の戴氏は賢く徳があり、何年も家を空けていた公に代わって欠けること無くよく家を治めた。
 公には二子がいる。長子は公球といい義昌軍押衙、次子は公璵で行内侍省雲騎尉上柱国である。
 大中元年(847)十月五日に万年県滻川郷鄭村に埋葬し、この文を石に記す。




 高力士と仇士良の一族に関しては、『両唐書宦官伝』の体験版でご覧いただけますのでよろしければどうぞ。

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