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2023年 07月の記事 (4)

ナントカ堂 2023/07/15 12:00

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ナントカ堂 2023/07/09 13:24

偽善者・海陵王

 海陵本紀の論評にこうあります。


 海陵王の在位は十数年、常に偽りの態度を見せて臣下を制御していた。
 食事にガチョウを供さないよう命じて倹約を示しながら、遊びの狩りをした。突然、獲物を求めたために、民間ではガチョウ一羽が数万銭にもなり、また牛一頭とガチョウ一羽を交換することもあった。
 或いは破れた服を着て近臣に見せたり、繕った服を着て、記録官に見せたりした。
 或いは兵士たちの食事と同時に自分の食事を供させて、兵士がほぼ食べ終わるまで待ってから自分が食べた。
 或いは民の車がぬかるみに嵌まっているのを見ると、衛士に命じて下から曳かせ、車が出るのを待って後から進んだ。
 近臣と歓談すると、いにしえの賢君を引いて自分に例えた。目立つように大臣を譴責して、直言するよう促したが、張仲軻のような輩を諌官とし、祁宰は直諌して殺された。つまらぬ者と慣れ親しんで官職と褒賞を惜しみなく与え、側近に欠員が生じると、誰かが名を挙げただけで直ちに高い地位を与えた。常に寝所に黄金を置き、気に入った者がいると掴み取りさせた。


 偽善と言われればそうなのでしょうが、善人に見られようと思って行動したことは、私はそれほど悪いとは思いません。
(文中に「祁宰は直諌して殺された。」とありますが、金で初めて目安箱を置いた人の行動としては疑問で、或いは前に書いた施宜生のように作り話なのかもしれません)
 海陵王は兵士や庶民に対してはこのようなことをしています。


天徳三年九月十三日、燕京の役夫に一人当たり白絹一匹を賜った。
貞元三年八月九日:起工式を行い、役夫一人につき絹一匹を賜った。
貞元四年十一月十日:貞元四年の租税を免除し、長期間駐屯地に居て交代していない兵士に、一人当たり絹三匹と銀三両を賜った。
正隆四年四月十七日:山東路の泉水と畢括の両営に、兵士への食糧支給を増やすよう命じた。
正隆五年八月二十六日:帝が山陵に参拝した。途中で、田で収穫している人を見掛け、今年の豊凶を尋ね、衣服を賜った。


最後の記事などは気さくな人だったように思えます。
『大金国志』巻十四でも正隆二年の夏のこととして


 夏、河南の州郡は造営に功労あり、新たな領民も援助すべきであるとして、使いを出して現状を視察させ、困窮者を救済した。また各地で水田を補修し、灌漑の水路を通した。


と記されています。
 また同じ『大金国志』巻十四には正隆六年の出兵直前に、海陵王が河南についてこう発言したことが記されています。


「この地方では毎年民間の食糧備蓄が多く、今年も豊作である。馬は田と田の間で飼えばよい。仮に今後二年間不作であったとしても、問題は無いはずだ。」


 なお『金史』列伝七「胙王」には、大定十三年六月丁巳に諸王と会食した際、世宗は、「ある者は『海陵王は有能だった』と言うが、それが何だというのだ。」と切り出して海陵王の不道徳を論じていますが、没後十三年経っても陰ではこのように言う人がいたようです。

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ナントカ堂 2023/07/07 23:16

海陵王の開戦理由

 海陵王が南宋を攻撃したのは正隆六年ですが、『金史』列伝六十七「張仲軻」によれば、その三年前に宋の使者に対してこのように話しています。


 三年正月、宋の賀正使の孫道夫が帰国の挨拶に来ると、海陵王は左宣徽使の敬嗣暉を通じてこう伝えた。
 「帰って汝の皇帝にこう伝えよ。汝は我が国に仕えるのに多くの不誠実な行為をしている。今、およそ二つの事を挙げる。
 汝の国の民が我が領内に逃げ込んだ場合、国境の下吏は即座に送り返しているが、我が国の民が叛いて汝の領内に逃げ込んだ場合、地方官が求めても往々にして逃げ口上を言って返さない。これが一つ目。
 汝の国は国境近くで不当に鞍馬を買い、戦争の準備をしている。これが二つ目である。しかも馬は人がいなければ役に立たないはずだが、国境近くに兵がいないのであれば、馬を百万頭得たとして何に使うのか。これでは我が国も備えをしなければならない。我が国は汝の国を取る考えは既に止めたのに、汝の国が我が国を狙うのであれば、あってはならないことである。
 私が聞くところに拠れば、叛逆者を受け入れているのも、不当に鞍馬を買っているのも、全ては汝の国の楊太尉の行いであるという。たびたび密偵を捕えて尋問し楊太尉の事は知っているので、我が国に何もできはしないだろう。」


 文中の「楊太尉」とあるのは、『宋史』列伝百二十六にも「楊太尉」との記述が見える楊存中のことでしょう。開戦のための言いがかりなら三年も待っていないはずで、単純に善処を求めたのでしょう。
 これが出兵を決めた正隆六年になると、もう一件、抗議内容が増えています。以下は列伝六十七「李通」から。


 四月、簽書枢密院事の高景山を宋帝の誕生日を祝う使者とし、右司員外郎の王全を副使とした。海陵王は王全に言った。
 「汝は宋主に会ったら、南京の宮殿に放火したこと、国境近くで不当に馬を買ったこと、叛逆者を招致したことの罪を問い質し、朕自ら詰問するので大臣の某人と某人を送るようにと伝えよ。また漢・淮の地を要求せよ。もし従わないのであれば、声を荒げて責めよ。宋は決して汝を害することは無いだろう。」


 宮殿放火については列伝二十「郭安国」に、貞元三年(1155)の新都の大内裏焼失について、責任者の郭安国らをこう責めています。


 「朕は宮殿を壮麗にしようとは考えていない。即位以来、宋遠征を考えているが、汝らは防備を固めることを知らず、宋の間者のせいで宮殿は全焼した。本来なら汝らを死罪とするところであるが、古くから仕えている者なので特別に特別に赦したのである。(後略)」


 思えば、戦いを仕掛けられた側のはずの南宋がやたらと有利に事を運んでいたように見えますが、それならそれで、挑発に乗って不利な水上戦を行ってしまった海陵王も浅慮の謗りを免れないでしょう。

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ナントカ堂 2023/07/02 11:24

海陵王の三つの望み

 wikiに


 即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている


とありますが、このことが記されている『金史』列伝六十七「高懷貞」を見るなら即位前のことです。以下その訳文。


 高懐貞は尚書省の令史で、以前から海陵王と親しかった。海陵王は長い間、叛逆心を抱き、高懐貞にたびたび内心を明かしていた。海陵王は言った。
 「私には三つの志がある。国家の大事は全て私が決めることが一つ目。兵を出して宋を討ち、君長を捕えて面前で罪を問うことが二つ目。天下の絶世の美女を妻とすることが三つ目である。」
 これより小人佞夫が皆その志を知り、争って気に入られる話をした。
 大定県丞の張忠輔は海陵王に「貴公と帝が撃球をしている夢を見ました。貴公の乗る馬がぶつかって通り過ぎると、帝は落馬しました。」と言った。海陵王はこれを聞いて大いに喜んだ。
 このころ熙宗の在位は長く、重臣に政治を任せていた。海陵王は親しい者を宰相として(宋や金などでは宰相は複数名)権力を握り、遂には弑逆を図った。全て高懐貞ら小人が阿諛追従して導いたものである。


 叛逆の志が広く知れ渡っている時点で、普通に熙宗に粛清されている思うのですが。

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